ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/12/13~12/19

2015-12-20 07:55:42 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/12/13~12/19

2015日々の聖句 12月13日(日)
主を畏れることは諭しと知恵。(箴言15:33)

あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(ヤコブ3:13)

私の黙想:
今日の聖句、文章がおかしい。「主を畏れること」と「諭しと知恵」とがどういう関係にあるのか。「A=B」だというのだろうか。「AであればBである」のだろうか。あるいは「BになればAだ」というのか。Aを宗教、Bを哲学だとすると、宗教者であれば哲学者でもある。あるいはすべての哲学者は宗教者でもある。そんなことはないであろう。口語訳では「主を恐れることは知恵の教訓である」、これならわかる。哲学が教えているポイントは宗教の大切さである。フランシスコ会訳では「主を畏れることは知恵の基」と訳し注釈に「ヘブライ語『教え』を『基』と読む」としている。これもわかりやすい。新改訳も「主を恐れることは知恵の訓戒である」。つまり、新共同訳では「知恵」と「諭し」とを「と」で結んでしまっていることが間違いの元。あとはヘブライ語学者に任せよう。

2015日々の聖句 12月14日(月)
人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。(サムエル上16:7)

天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」(ルカ1:30)

私の黙想:
ここで注目すべきことは預言者サムエルは完全に神(=主)と同じ目線に立っているということである。彼は普通の人のようには人を社会を世界を見ていない。これが預言者の「見る」である。必ずしも将来のことを見るのが預言者ではない。今、目の前にあることを神の目で見ている。そこから「ことば」が発せられる。
「目に映ること」という表現は面白い。口語訳では「外の顔かたち」と訳している。フランシスコ会訳では「外観」、新改訳は「うわべ」と訳している。確かに新共同訳は一歩踏み込んでいる。それだけに迫力に欠けるが普遍性がある。いわば哲学的である。哲学における認識論での「模写説」を思い起こす。カント以後、模写説は否定的である。では模写説に変わる認識論とは何か。面白いのが「心によって見る」である。
今朝もまた、つまらないことを考えてしまった。

2015日々の聖句 12月15日(火)
恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。(詩106:1)

何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

私の黙想:
口語訳を開いて気が付いたのだが、口語訳の「主に感謝せよ、主は恵み深く、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」という訳語が、新共同訳ではこんな訳文に変わったのだ。何か落ち着かない表現だ。特に「その慈しみはとこしえに絶えることがない」という文章は一種の定型文である。もともと文語訳では「その恵みは深く、その憐憫(あわれみ)は限りなし」で、口語訳では最小限度の変更をしただけだった。こういう文章は出来る限り、変更しない方がいい。意味の云々は次の次(じのつぎ)で文章としての慣れが重要だと思う。
この有名なフレーズで有名なのは、詩136では各節の後ろがこの言葉になっている。これを会衆全体で唱えるとき、一種独特のリズムがエクスタシー状態を醸し出す。その手法は、日本では多くの民謡に見られる。

2015日々の聖句 12月16日(水)
わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。(エゼキエル37:14)

イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。(ルカ9:11)

私の黙想:
「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」。まるで創世記2:7を思わせる、いや「思わせる」だけではなく、そのままの反復だ。だから「生きる」前はアダムは「土(アダマー)」に過ぎなかった。死んでいるというより、ただ単なるモノに過ぎなかった。正確にはただ「アダム」に過ぎなかった。
エゼキエル書では「生きる前」は墓の中に居た(13節)。ヨハネ5:21を思わせる。この箇所新共同訳では「命を与える」と訳しているが、田川訳では「生きさせる」と訳している。
エゼキエル書のここでは「生きる」ということと、「墓から引き上げ」て「自分の土地に住まわせる」ということを意味している。
ホンの思い付きだが、ヨハネ福音書とエゼキエル書とは思想的に近い関係にあるのかも知れない。

2015日々の聖句 12月17日(木)
定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。たとえ、遅くなっても、待っておれ。(ハバクク2:3)

あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。(ヤコブ5:8)

私の黙想:
「もう一つの幻」とは何であろう。この文章は2節からの続きである。2節には「主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ」。今日の言葉はその続きである。これと比べても「もう一つの幻」がわからない。口語訳では、主の答えとして「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない」。ここには「もう一つの幻」などない。強いていうなら、現在預言者が聞いている主の言葉が一つの幻で、将来起こることが「もう一つの幻」なのか。
ハバククという預言者は北のイスラエルがアッシリアに滅ぼされ、丁度その頃バビロンが興隆し南のユダを狙っている頃活躍したと考えられる。従って,必ず起こるという幻はバビロンによる滅亡のことか。ここでの「幻」をフランシスコ会訳では「啓示」と訳している。
それぞれの翻訳を読み比べると面白い。

2015日々の聖句 12月18日(金)
あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従うならば、あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。(申命記28:1,6)

神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。(ロマ4:21)

私の黙想:
今日の聖句の引用の仕方が変であるが、そのことは問題ではない。要するに申命記的論理が展開されている。それよりも「あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される」とは何処に入るときで、何処から出ていくときなのであろう。文脈から見ると「生活圏」からの出入るのようである。ここで何故、「出る」より「入る」の方が先なんだろう。普通は出ていって帰ってくる(入る)のではないだろうか。おそらく「未知の世界に入る」そして「無事にそこから出てくる」ということであろう。未知の世界に入っていって出て来ないこともある。
ある意味で「学問の世界」などはその典型かも知れない。特に神学など不用意に入ってしまうと,その迷路に絡まれ,出て来られなくなる。その点、哲学の場合は何処からでも入れるし、何処からでも出られる。そんなことを言ったら哲学者に叱られるかも知れないが、その点では哲学の世界は明るくて透明感がある。私の恩師がフランスの理性はクレアでいい,と言っておられた。先生はそこから「神学のジャングルに迷い込んでしまった」と言っておられた。わかるような気がする。

2015日々の聖句 12月19日(土)
あなたたちが背き続けてきた方に立ち帰れ。(イザヤ31:6)

罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(ロマ5:20)

私の黙想:
今日の聖句は「イスラエル人々よ」と呼びかけられる言葉で始まる。しかし、この言葉はイスラエル人だけに呼びかけられているわけではない。少々大袈裟に言えば、いやいや大袈裟な話ではなく、私を見れば、やはり大袈裟に言えば全人類への呼びかけであるように思う。人間は「(神に)背き続けてきた」。むしろ神の背くということが「人間らしさ」であるとさえ言えるのではないか。人間以外の万物、天使を含めて動植物も,自然界も全て神によって創られたものは神には絶対に背かない。神に背けるのは人間だけである。人間だけが神に背ける。神は人間をそのようにお作りになった。これは何も「開き直り」ではないが、人間を考える場合、そこからしか始まらない。
人間は神に背きつつ、その背きを「罪」と自覚する。そうであってはならない事柄として意識する。その意識が少し行き過ぎると、自ら「神になってしまえ」と思う。それが更に深い「罪意識」となる。罪は「増幅し、過激化」する。何かおかしいではないか。絶対である神が人間を背ける存在として創り、しかもそれが存在し続けるということは神の絶対を脅かすではないか。背いている私が生き続けているということ、何故か。そこで初めて「神の恵み」に出会う。神に背ける存在である人間が神の恵みに出会い、神に立ち帰る。ここに万物を超えた神と人間との人格的な交わりが形成される。

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