ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

横綱の品格

2010-02-06 15:59:49 | ときのまにまに
元横綱朝青龍の暴力事件をめぐって横綱の品格が問題にされている。朝青龍の場合は今度の「事件」だけが問題なのではなく、これまでの彼の土俵の上、あるいは土俵の外での行動が問題なのであろう。しかし問題の本質をいろいろ思い巡らすとき「横綱の品格」というよりも、問われるべきは「日本人の品格」であろう。今朝の朝日新聞の川柳欄に面白い川柳があった。「この国にそんなに品がありますか」(広島、いぬいかおる)である。朝青龍のことに関していうならば、わたしは問題にされるべきなのは朝青龍ではなくその親方である。親方の教育が悪いというのではない。親方の品格が問題なのである。指導しきれなかったのではなく、あるいは指導の仕方が悪かったのでもなく、彼の品格がなっていなかったのである。
「品格」という言葉には民族性とか文化が深く関わっているように思う。その意味では「人格」という言葉ではおさまらない何かがあるように思う。その意味では「教えるべき要素」もあるだろう。わたしは朝青龍は決して好きな力士ではない。むしろはっきり言って嫌いである。何が嫌いなのか考えてみると、彼が勝負に勝ったときの敗者への態度である。勝負が決まったとに繰り出される余計な一突きである。彼自身は言う。「土俵に上がれば鬼になることもある」。これはいい。土俵の上ではお互いに人間であることを離れて「鬼」になる。それが勝負である。しかし、それは勝負が決まる瞬間までである。相撲を見ていて美しいと感じるときは勝者が敗者に対して手を差し伸べるときである。これは「品格」というような曖昧な言葉で表現される次元ではなく、相撲という文化の問題で、言葉で教えることができる事柄であると、わたしは思う。言い換えると行司が手に持つ軍配で勝敗を決した瞬間、自然に出てくる感情を抑える精神力である。この精神力は普段の生活や稽古で培われる人格的な力である。ただ、現在ではその後で行司が勝ち名乗りを上げ、賞金などを手渡すので、そこにスキができるし、取り組みそのものが「競技」になってしまう。それが問題である。それが相撲道における「品格」と呼ばれている事柄の内容であると思う。従ってここでは「品格」というような高潔な人格を表現する言葉は適当ではないであろう。
この度の「朝青龍には横綱としての品格が欠けている」という種類のバッシングを見ながら、彼に対する好き嫌いの次元を越えて、皮肉の一つもいいたくなる。もし、朝青龍が横綱にふさわしくないということで、横綱審議委員会の承認が得られず、大関のままにしていたらどういうことになったのだろうか。居並ぶ横綱を尻目に大関が連続優勝を重ね、大関が25回も優勝するというようなことになったであろう。それでも良かったのだろうか。
相撲という世界においては、この根本的な矛盾がある。この矛盾は理屈では克服できない。結局、親方の品格に依存している。従って必要なものは横綱審議委員会ではなく、「親方審議委員会」である。その親方になる資格が金で売買されている限り、この根本的矛盾を克服することは不可能であろう。

最新の画像もっと見る