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ぶんやさんの記録

滝廉太郎と大分聖公会

2012-08-02 13:21:12 | ときのまにまに
先日、ある教会で滝廉太郎についての貴重な資料を見かけましたので、早速コピーしてデジタル化しました。それによると、滝廉太郎さんは日本聖公会の信徒だったとのことです。この文章の中には、ジャーナリスト筑紫哲也さんの名前も見えます。

滝廉太郎と大分聖公会  大分聖公会のあゆみ――120年間の記録(2011年3月3日発行)

1.滝廉太郎とブリベ宣教師との出会い
「荒城の月」で有名な、音楽家・滝廉太郎氏が、「日本聖公会」の信徒であったことはあまり知られていない。ドイツ留学中に病気になり、両親の住む大分に帰ったのは、1902(明治35)年の12月初旬であった。翌年の6月、25歳で亡くなるのだが、その間、大分で、「聖公会」の英国人宣教師・ヘンリー・レオナルド・ブリべ(Henry Reonard Bleby,1864-1942)と交流があったことは、滝廉太郎氏の妹さんの安部とみさんによって紹介されている。
大分市に遊歩公園(大分県庁横)がある。そこに、滝廉太郎氏の鋼像があるが、彼の「終焉の地」として知られている。亡くなる直前に通った、「聖公会」の宣教師・ブリべ師の住まいもこの近くにあったようだ。明治時代にCMS(church Mission Society)から多くの英国人宣教師が日本を訪れ、宣教活動を続けているが、そのうちの1人が、滝廉太郎氏と交流のあったブリべ師である。ブリぺ師は、1890(明治23)年に来日し、大分には1894(明治27)年に着任している。蓮太郎は1903(明治35)年11月24日東京を出立。大分に帰着後、大分町339番地(現在の大手町)の父母の元で療養する。そして12月29日、「荒磯の波」を作曲。
彼は「聖公会」のブリぺ司祭を時折訪ね、信仰上の交わりを結んだと考えられる。11歳年下の滝廉太郎氏の妹・安部とみさんが、後年、「兄を偲ぶ」というエッセイでブリぺ氏とのことを次のように書いている。[北村清志編著、『滝廉太郎を偲ぶ』(1963年より)] .
「・・・あの頃のことは、はかない夢のようで、晩春の頃だったかと思うが、現在の大分市金池校で、先生方や父兄の方々に望まれて、自分の作曲その他をおきかせした事もあった。そんな時は必ず人力車の往復であった。当時の碩田橋、今の中央通り郵便局の南側に、三倉屋という材木問屋があり、その横を入るとブリベさんという米国(英国の間違いか?)の宣教師が居られた。クリスチャンの兄は時々伺って御話をきいたり、御馳走になったりして居た。ピアノがあったか覚えて居ないが、或いは此処だけで弾けるピアノであったかも知れない。時々コックさんがお料理や、お菓子を持って来て下さるので、母はせめてそれに似た物でも作って見せようと、兄の食事に気を配って居った。此のブリぺさんのお宅にお年賀に出かけた時の姿は何年たっても忘れられぬおもかげである。真黒い髪を一寸分けて、黒紋付の羽織に仙台平のハカマをつけて、ニコニコしながら車上の人になった兄の美しさ。色の黒い私は、思わず、兄さんのように色が白かったらと、つくづくうらやましく思った。」
亡くなる半年前の滝廉太郎氏の様子がリアルに迫ってくる。ブリぺ師との深い心の交流が想像できる。ところで、妹さんの安部とみさんは、2008年11月7日に亡くなられた、ジャーナリストの筑紫哲也氏の祖母にあたる。

2.石井華子と津田梅子の教会で受洗
長崎県大村の家老職の娘として生まれた石井筆子(1861-1944)は、夫・石井亮一と共に日本で最初の知的障害児者施設「滝乃側学園」において障害児教育に一生を捧げた人である。
石井華子が石井氏と結婚する前の、1895(明治28)年から校長を務めていた聖公会のミッション・スクール・「静女学院」が、東京の麹町区一番町にあった。1902(明治35)年閉校され、その土地や建物を、津田塾大学の創始者・津田梅子さん(1864-1929)が譲り受けることになる。この「静女学院」の隣に、石井筆子さんと津田梅子さんが、1889(明治22)年、米国人聖公会の宣教師のコール司祭から教会設立を呼びかけられてつくった「博愛教会」(Grace Church)があった。後に、「聖愛教会」と改称され、世田谷区砧に移転する。1900(明治33)年、この「博愛教会」で、滝廉太郎氏(1879-1903)が洗礼と堅信式を受けるのである。滝氏は、麹町区上区二番町に居住しており、道路一つを隔てた五番町に聖公会の教会「博愛教会」があった。洗礼は、10月7日、元田作之進(1862-1928)司祭によって執り行われた。元田師は、1907(明治40)年、立教大学の初代学長になった人物でもある。滝廉太郎氏は、この頃、ドイツ留学の準備をしていたという。おそらく、滝廉太郎氏、石井筆子さんと津田梅子さんは、同じ教会に所属していたから、顔を合わせていたのかもしれない。

3.滝廉太郎終焉の時
滝廉太郎氏が亡くなる前の、最後の半年を過ごした実家は、現在の大分市城址公園から数分のところにある。ここを散歩したかどうか、その体力があったかどうかよく分からない。北村清志編著の『滝廉太郎を偲ぶ』(1963年)の中で、妹さんの安部とみさんが語る、臨終の模様は、切々として胸に迫る。
「29日の暁から、座敷では唯ならぬ気配がして、兄の苦しそうにせきを入る声に、たまらない思いがして、耳を被う枕に押しつけた私の眼からは涙が止め度もない。母が極度に感染を恐れて、私と弟は、台所に遠ざけられていたが、『せめて末期の水だけは』と、別府の叔母のとりなしで、2人部屋の中に入れられた。…まるで安らかに眠っている様な白い顔、蚊張の中に北枕で唯一人寝せられて居る。こみ上げて来る涙をねまきの挟(たもと)でそっとふき、足音を忍ばせて縁側の方から、蚊張をめぐり兄の冷たい頬に自分の頬を押し当てて、『なぜ兄さん死んだのよ』と心の中でさけびながら、『さよなら』がせい一ばい。急いで母に見つからないようにしたが、思えば、たとえ鼻、耳、口に脱脂綿がつめてあり、厳重な消毒がしてあっても誰かに見つかったとしたらどうだろう、でもあの時はやむに止まれぬ思いであった。」
1903(明治36)年、6月29日、午後5時死去。滝廉太郎氏はクリスチャンであったが、戒名「直心正廉居士」(じきしんしょうれんこじ)。志半ばで病に倒れた23年と10ケ月の生涯だった。滝廉太郎氏の墓は、大分市の中心地に近い金地町の「萬鳶寺」にある。

4.滝廉太郎とブリベ師とのエピソード
一山田野理夫葦『荒城の月一土井晩翠と滝廉太郎』(恒文社、1987年)よりー
滝廉太郎氏が亡くなる直前通った、大分聖公会の宣教師ブリベ氏の住まいは、「額田橋」(現在の大分郵便局の裏)あたりにあったらしい。滝氏が通った、1902~1903(明治35~36)年当時は、「教会」ではなく「講義所」という名称であり、「大分町京町裏」という住所になっている。住まいと「講義所」は併設していたのかもしれない。滝氏が亡くなった後のブリべ師のことが、山田野埋夫著の『荒城の月 土井晩翠と滝廉太郎』(恒文社、1987年)に次のように紹介されていた。
「柩(ひっぎ)は、深山のおもむきある万寿寺へ運ばれた。肺を病んで終わったことで、葬儀は近親者のみの参列で施行された。参列者の中でメソジスト教会(聖公会の間違いか?)宣教師ブリべ夫妻の姿が見えた。」
上掲書によると、7月5日夕刻、初七日を終えて、万寿寺から自宅に戻ると、滝廉太郎氏宛ての郵便物が届いていた。差出人は、「東京音楽学校歌劇研究室」とある。手紙の内容は、「7月23日、奏楽堂で歌劇を上演する」という招待状であり、印刷されていたプログラムも同封されていた。「歌劇オルフォイス」とある。歌劇の内容が分からない。滝氏の弟と姉との対話である。
節治郎(弟)「ブリべ神父様にお聞きしてはどうでしょうか。神父様ならご存知かもしれませんよ。」
ジュン(姉)「私もそう思っていました。廉さんは教会のオルガンをお借りに伺っていましたが、その折に確か神についての話をしていた筈です。あした伺ってまいりましょう。」
そして、ジュンはブリべ神父からオルフォイスの話を聞いてきた。ブリぺ神父がジュンにこう言った。
「これはギリシア神話の中の愛め悲劇ですよ。音楽家たちは、好んでギリシア神話を題材としたものです。イタリアの音楽家モンテヴェルディがオルフォイスを歌劇化したのがはじめてと聞いております。」
このエピソードの根拠は確かめてはいないが、ブリべ師が滝氏の葬儀に参列したことは確かかもしれない

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