何度もお伝え致しましたが、現在の社会は対処しにくい危機の時代であり、私たちの周りには「不公正」が蔓延しています(テモテ第二3:1~5)。ご承知の通り、多くの方々が不公正を正して欲しいと願っています。では、そうした願いを抱き、不公正を正し、公正な世の中にするために「公正とは何か」について、熟考されたことがある方は幸いです。聖書は「エホバは公正を愛される方」と、心温まる真理を記しています(詩編37:28)。ですから、神エホバについて理解を深め、エホバに近づき、私たちが公正な人として歩む上でも「公正とは何か」について理解することはとても重要です。
人間の観点からは、公正とは単に法の規定を公平に適用すること、と理解される場合が少なくありません。「公正と理性 - 理論と実践における倫理」という本は、「公正は、法、責務、権利、義務と関係があり、平等もしくは功罪に基づいて裁きを量り出す」と述べています。しかし、神エホバの公正には、義務感や責任感に動かされて規則を次々と適用する以上のことが含まれています。
神エホバの公正の幅と深さをよく理解するには、聖書で用いられている言語を考慮する必要があります。ヘブライ語聖書では、おもに三つの言語が関係しています。「公正」と訳されることの最も多い語は、「正しいこと」とも訳せます(創世記18:25)。他の二つの語は通常、「義」と訳されています。クリスチャン・ギリシャ語聖書で「義」と訳されている語は、「正しい、もしくは公正であるという特質」と定義されています。ですから、基本的に言って、義と公正の間に相違はありません(アモス5:24)。
したがって、聖書が神エホバは公正であると述べているとき、それは、神エホバが正しく公平な事柄を行い、しかも不公平なく常にそうされる、ということです(ローマ2:11)。神エホバがそのようにされないのであれば、神とは言えないのではないでしょうか。忠実なエリフはこう言いました。「まことの神(エホバ)が邪悪なことを行なったり、全能者(エホバ)が不正を行なったりすることなど決してない!」(ヨブ34:10)。実のところ、神エホバは人間と異なり「不正を行う」、つまり不公正を行うことは出来ないのです。なぜでしょうか。次の二つの重要な理由があります。
第一に、神エホバは聖なる方です(レビ記19:2.イザヤ6:3,4;57:15)。神エホバは計り知れないほど清く廉直な方です。ですから、不義もしくは不公正は行えないのです。それがどういう意味であるかを考えてください。天の父エホバの神聖さは、その方がご自分の子たちに重荷を載せたり、虐待することなど決してない、と信頼する十分の根拠となります。イエスも、そのような確信を抱いていました。地上での生活の最後の晩、このように祈られました。「聖なる父(エホバ)よ、わたしに与えてくださったご自身のみ名のために彼ら(弟子たち)を見守ってください」(ヨハネ17:11)。「聖なる父(エホバ)」という呼びかけの言葉は、聖書では神エホバに対してのみ用いられています。それはもっともなことです。人間の父親はだれも、神聖さの点で神エホバとは比べものにはならないのです。イエス、み父エホバのみ手のもとで弟子たちが安全に守られることに全き信仰を抱いていました。み父エホバは、絶対的に清く清浄で、いかなる罪深さからも完全に離れておられます(マタイ23:9)。
第二に、利他的な愛は、神エホバの本質をなしています。神エホバは、利他的な愛に動かされ、義つまり公正を持って他の者を扱われます。これは人間にとって本当に大きな喜びとなります。一方、人間の行う、国家主義、人種主義、差別、不公平など多くの形態の不公正はたいてい、愛とは逆の貪欲や利己心から生じます。聖書は愛の神エホバに関し、「エホバは義にかなっておられ、義なる行為を愛される」と保証しています(詩編11:7)。神エホバもご自身について、「わたし、エホバは、公正を愛している」と述べておられます(イザヤ61:8)。偉大な創造者エホバ神は、正しい、つまり公正な事柄を行うことを喜びとされます。そのことを知ると心強く感じ、エホバに近づき、そのご意志を学び、守り行いたいと思うのではないでしょうか。神エホバは、間もなく邪悪な者たちを断ち滅ぼし、この地上を義の宿る楽園に回復することを約束してくださっています(ペテロ第二3:10~13.啓示21:3,4)。
恒久の 平和の祈願 終戦日 今日の一句
ご近所の「ポーチュラカ」