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恋愛睡眠のすすめ
2007
ミシェル・ゴンドリー


名作「エターナル・サンシャイン」のミシェル・ゴンドリー監督の最新作。
珍しく劇場で鑑賞しました。週末の夜の回で8割くらいの入りでしょうか。女性客が多いですね。


本作では監督自身が脚本も書いているとのこと。
前作があまりにも素晴らしかったのは、もしやカウフマンの素晴らしい本のおかげで、監督は画づくりだけに特化していたのでは?と思っていたモノの、全く覆してくれました。

「エターナル・サンシャイン」もミシェル・ゴンドリー監督の作品です。多分原案からして。
本作はその続編というか、ちょっと見方を変えてみた感じ。根本的なロマンチック路線は同様です。
本作は「夢」(寝ているときの)お話。
より、おとぎ話に昇華しています。

夢の機能について常々思っていることがあります。
【私たちが見ている夢というのは「結果」だけであって、結果先行でプロセスはあとから作られる。そのプロセスはただの辻褄合わせで時間軸を無理矢理取り入れて秩序だたせている】ということ。
例えば「いいところ」で終わってしまう夢というのも、その「いいところ」と私たちが思うこと自体が結果であって、その先は無いんです。多分。「いいところ」と思う瞬間が一番幸せだと思うこともあります。この先があると思うこと。
片思いで悶々としている時がその先について最も思いを巡らせる瞬間。もちろん、その後上手くいくにこしたことは無いんですけど。
で、その瞬間の思念みたいなのを脳が現実っぽく順番を入れ替えて意識に送り込んでいる、と思っています。
コレはただの持論なので「そりゃ間違っている」とかいうツッコミはご勘弁を。

「エターナル・サンシャイン」では「記憶」をモチーフとしていました。現実の世界のお話なので。
【「記憶」の順番というのはその本人にとって関係ない、それを僕らは「運命」と呼ぶ】という映画でした。
で、本作はその「関係ない」部分を「夢」に置き換えています。置き換えているというか、夢が記憶であるという映画。もう、現実なんて関係ない。
夢の中では誰でもヒーローでもあるし、脇役でもある。現実のあらゆる出来事がミックスされて、変な想いを作り出してしまう。カタルシスの世界。
その夢の描き方が素晴らしかった。

おとぎ話っぽいアニメーションというのはよくある手法なのですが、実写では本作、アニメーションでは「マインド・ゲーム」がいまのところ頂点です。自分比で。
実写でよくぞここまで表現したなぁ、という労作に対する感覚ではなく「こういう描き方があったのか!」という目から鱗。
あるシーンだけが飛び抜けている訳ではなく、素晴らしく全編のトーンが整っています。

もの凄く言い表しにくい想いを孕ませる映画。
単純に「良かった!」と言うだけではもったいない映画です。
優れた表現の根本には、やはり揺らがない信念があるんだろうなぁ、と感じた次第です。

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どんてん生活
2001
山下敦弘


「リンダリンダリンダ」の山下監督の初長編映画インディペンデント作品です。

何というか、山下監督の笑いのセンスは凄いツボを突いてきます。ある程度どんな方が観ても楽しめる作品です。
もちろん、インディペンデント作品ならではのグダグダ感はもちろんありますが、平気で観られますね。

執拗なまでの引きの目線。アップショットはキメの部分でしか出てきません。アップショットに逃げない挑戦的なカットが続きます。
また、監督自身に照れがあるのか、なかなか心情を素直に描きません。その代わり、やたらと遠回しに登場人物の気持ちを丁寧に描きます。

本作のふれこみとしては「だらしない青春の日常」みたいな感じですが、それが淡々とした日常という訳ではありません。ちゃんと仕掛けがあります。ただのインディペンデント作品ではない。
「リアリズムの宿」も同じようなテーマで、グダグダと照れ隠しのような件が続きますが、本作はその前の作品と言うこともあり、輪をかけてシャイな感じがします。
山下監督はそれを演出手法として自分のものにしています。
私たちよりもちょっと年上の方にこのやり方が響くのかどうかは疑問ですが、同世代には確実に響く方法です。


この監督に全国公開作品を任せたプロデューサーの眼、恐るべしです。
今となっては、引っ張りだこの監督さんですね。
日本のアキ・カウリスマキと呼ばれることもしばしば。
今後がもの凄く楽しみです。

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エターナル・サンシャイン
2004
ミシェル・ゴンドリー


素晴らしいです。
大好きです。この映画。
私がこの映画について話す様は、迷惑なほどにアガっているはずなのでご注意を。


テーマが良い。
過去の記憶を消す商売があるという、ややSFなお話なのですが、そのモチーフとテーマのミックスの仕方が絶妙です。
「トータル・リコール」の様に「記憶操作」がメインテーマなのではなく、あくまでも、ロマンチックなところに落とす。
お伽噺の様なストーリーです。
「何度記憶を失ったとしても、僕とあなたは恋に落ちる運命だったのだ」というハッキリ言ってクサイテーマもドロドロベタベタせずに魅せてくれます。


ちょっと思い出したんですが、村上春樹の作品で「4月のある朝に100%の女の子に出会うことについて」(「カンガルー日和」収録)という短編小説があるのですが、そちらで語られているお話とも近いかもしれません。
この小説の場合は、こう。
【ある朝会った観も知らぬ女の子が自分にとって100パーセントだと気づくのだけれど、どう声をかけて良いか分からない。どうしてその女の子が100パーセントなのかも分からない。しかし、これはきっとこういうことだと思う。
『彼女と僕は以前は本当に100パーセントの恋人同士だったけれども、とある理由で離ればなれになり、そして病気のため記憶を失ってしまった。しばらくお互いの時間を過ごす。そして何年か後の偶然の再会。そのかすかな記憶がよみがえるけれど、それを信じ切れない二人はそのまま通り過ぎてしった』
あの時、僕は、こう声をかけるべきだった。今では分かる。】
というのが小説のお話。
まぁ、「どこかでお会いしたことありますよね?」をもう少しロマンチックにした口説き文句のお手本みたいなお話です。
スミマセン、話しがズレました。


本作の場合は記憶を消されたとしてもそのかすかな記憶をたどり、再び彼らは恋に落ちるというもの。
あんまり説明が上手くないので、これは本作を是非ともご覧下さい。

脚本は「アダプテーション」や「マルコビッチの穴」なんかのチャーリ・カウフマンです。バツグンです。

ラストシーンを語るのは反則かと思うのですが、許してください。
「待てよ!」という方は本作をご覧の上で下記をお読みいただけましたら幸いです。


本作は私が常々感じている、多分あなたも感じている、記憶というモノの仕組みについて、とても愛らしく描かれています。
記憶の仕組みというのは、それが過去の想い出であれば有るほど輝きを増し、それが捏造であったとしても、現在の自分にとっては暖かいその瞬間。
たとえその時におぞましいことを口走ったとしても、それすら愛らしく感じる。それが記憶。言い換えれば想い出。
ある種のPTSDを除けば、想い出というのはおしなべて愛すべきモノとして残っています。
「あれはきっと、トチ狂った自分が言った言葉。本心ではそんなこと思っていなかった」という自分にしかできない都合の良い解釈をしてしまうのが想い出。
そんな、想い出を美化し続けることで人は生きていくことができる、それがとんでもない間違いを生むとしても、それはその先もずっと続く人生を生きていく上で必要な能力である、ということを描いた映画です。


もう一つだけ、この映画でもの凄く感動してしまったというか、えぐられたシーン。
失恋して彼女についての記憶を記憶消去業者業者に消されている最中の出来事。
彼女の記憶を途中で消されたくないと思った男は、彼女の記憶を業者が消去できない「彼女の記憶が無い部分」に隠そうと試みます。※この辺の行は映画を観ないと多分意味不明ですね。
その「彼女の記憶が無い部分」というのが、彼女と出会う遙か前の子どもの頃の些細な記憶なのです。
コレにやられました。至極当然のことなのですが。
「彼女の記憶がない部分というのは彼女と出会う遙か以前しか無い」んですね。いやぁ、これは相当なロマンチストじゃないと思いつきませんよ。
「他の女の子が好きだった時」とか「別れちまえばもう終わり」とか「その前に好きだったあの女の子」というのじゃ無いんです。自分の人生に於いて異性を意識する以前の記憶じゃないと貴女は存在しないということなんですね。少しでも恋だ愛だが発生したら必ず貴女に結びついてしまうということなのです。
クサイ言い方ですが、運命の人というのはやはりそう言う人であって欲しい、そうであるべきだというロマンチック大学センチメンタル学科の必修項目です。
永遠に輝き続けているんです。これがそのままタイトルになったんですね。そのふたりの関係ということではなく、彼らのそれぞれの記憶として輝き続ける。
素晴らしいです。




監督は、主にPV(ミュージック・ビデオ)の監督、ミシェル・ゴンドリーです。その筋では超有名な方ですね。
映画は本作で2作目とのこと。
ちょっとまえに、Directors LabelというディレクターごとにPVをあつめたシリーズの第一弾でご存じの方もいるのでは。あとはスパイク・ジョーンズやクリス・カニングハムという監督のシリーズもあります。
あのシリーズ、買っておけばよかった。
PVの監督が撮ったので好きだったのは 「ディナー・ラッシュ」でしょうか。アレはオサレ映像でした。PV監督の作品は基本的にカットが上手いですね。思いこみでしょうか。


本日、ミシェル・ゴンドリー監督の最新作「恋愛睡眠のすすめ」を観てきました。そちらの感想はまた後日。良い映画でした。
ミシェル・ゴンドリー監督、素晴らしい感覚を持った方です。

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解夏
2003
磯村一路


純粋培養純国産映画のお手本のような作品です。
「がんぱっていきまっしょい」の磯村監督です。あちらも好きな作品です。

私、この作品好きです。
ただ!
ただ、ラストの2カットさえ無ければ。

ホントにもったいない。
ソレをやりたい気持ちは分かります。けれども、そこをやってしまってはいけないんです。
何故、ここまで持ってきて、ラストに私を笑わせてくれるのか。

細かい笑いは個人差もあるのですが、例えば1990年のヒーローである大沢たかお&田辺誠一のメンズノンノモデルの2ショットは爆笑です。コレはまぁ良い。むしろ一度は観てみたかったショットです。
しかし、ラストのアレはいかんよ。敢えて言いませんが。
鑑賞された方なら「あぁ、あれねぇ・・・」と納得していただけるかと思います。あの白いカットです。
それまではとても良い映画なんです。無駄なモノが無い。多分、必要なんじゃないの?と思うサブストーリも無い。
多分、制作サイドも誇れる作品だと思います。そのくらいちゃんとした映画です。

ここまで丁寧に描き、恐るべきダイコン役者を以てしても魅せた映画のラストがあれだと、信用して見続けた人たちにドロップキックをかますようなもんです。これは裏切りです。
制作委員会にフジテレビがいるあたりから若干予想はしてたのですが、まさかホントにやるとは。


しかし、ラスト直前までの持って持って行き方は本当に好きでした。
この感覚、たとえて言えばこんな感じ。

『とある女の子に行為を抱く。
デートを重ね、話していくうちに共通の趣味もあるな、もちろん違うところももちろんあるけど、笑って流せるくらい。
それはそんなに重要じゃない。
お互いの好意も、もう言わずもがな。今は心が通っていると思う。
そしてその恋を実らせようと決意したその日、彼女の口から出てきた言葉
「ねぇ、今度ライブ行こうよ!チケット買ったんだ!」
「誰の?」
「キンキキッズ!」』

それは違うだろう・・・。


まぁ、映画は結末が全てではないので、概ねこの作品は好きです。
同じく、さだまさし原作の「眉山」に少しだけ期待しています。犬童監督も当たり外れ激しいしなぁ・・・。
お願いだから裏切らないでください。


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スーパーの女
1996
伊丹十三


ミュージカルのような映画ですね。
予定調和の嵐。
ただ、それも最初から分かり切ったことなので、揚げ足を取るような見方はダメなんですね。
「くだらない」と一蹴してしまうのはつまらない。
この予定調和はファーストカットからすでに予告されていたことです。
小難しい文学作品ばかりを観て批判ばかりすることに慣れてしまうと、こういった作品の楽しみ方を忘れてしまうものです。

随分間に観た犬共和国vs猫帝国のお話、「CATS & DOGS」でも感じたことに近いです。
一流の大人がちゃんとした作品を作る為にくだらないと思われることを真面目にやる。


先日、とある方と話しをしていて「何度も見てしまう映画はって何だろうね」という話題で相手方から出てきた作品です。
その方曰く「なんかラクになれる」とのこと。
確かに。
私の場合は「Back to the Future」だったり「Top Gun」だったり「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」だったり「アイアン・ジャイアント」だったりします。
余計なことをいちいち考えずに観られます。ガス抜きだったり、充電だったり。そのためにこういう作品はなければいけません。
映画が全て芸術のためでなくても良いし、娯楽のためだけにあるわけでもない。
映画を観て人生を変えられる人もいれば、息抜きのために観る人もいます。

多分、ちょうど良いタイミングで観ることが出来ました。なんだか勇気づけられます。
ありがとうございます。

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ゴーストワールド
2001
Terry Zwigoff (テリー・ツワイゴフ)


勝手に最近の出来事を関連づけてしまうのが私の悪い癖なのですが、昨日見た「どこまでもいこう」が小学5年生から見た世界で、それは小学5年生にしか見えない世界を結局大人が脚色してしまったお話です。
本作の場合は18歳の米国少女が作り出した世界のお話。
似ているようで全く違う切り口です。

タイトルの「ゴーストワールド」を、もの凄く曲げて解釈すればこれはこの少女が作り出した物語。世界が幻なんじゃなくて、彼女が作り出した(選んだ)世界のお話。
箸が転がっても腹が立つ感覚。分かります。周りが全部バカに見える。そんな時もありました。
既に私は随分とその世界が見えなくなってしまったのですが。

あらゆることがつまらない、くだらない。どうしてこんな世の中に自分はいなきゃいけないんだろう。なんで上手くいかないのか。そんなことばっかり考えている青春もあるんですね。
というか、コレってアメリカンニューシネマの青春の解釈ですね。
70年代のアメリカンニューシネマの場合、敵対すべきは「悪いのは大人が作った社会」という一律で済んでいたモノが、現代に置き換えると「趣味を選んでいるつもりになっているけれども価値観がバカみたいに統一された最大公約数的な社会」というもので、これは一個人にとって共通言語を持つ人が極端に少ない世界。反発すべき「社会」というものが既に無い。
しかも、10代の狭い世界であれば、奇跡的に出会ったと思える友達でさえもズレがあるのは当たり前なのに、絶対的な一致でなければ納得できないものです。
言い換えれば広告によって画一化された経済社会。その中で、自分の価値観をベースに捉えれば周りが全部間違って見える。
本作はその1ケース。
「カルチャー好きの女の子の場合」という作品です。
たまたまその「カルチャー好き」っぷりが極東から観るにアメリカの経済社会の的を射ていると感じます。

鑑賞された方はおわかりかと思うのですが、序盤の「あぁ、あるねぇ、こういう感じ」から徐々に少女の意識の暴走と社会からの疎外感で自分が選んだはずの世界からも追い出されてしまうときの「正しいと思ったことが全て社会に受け入れられない感じ」をちゃんとストーリーに落とし込んでいます。飽きさせません。
私は好きな映画です。

主人公の相手役のスティーヴ・ブシェーミの役名が「シーモア」。これは「ライ麦畑でつかまえて」のシーモアの行く末という設定なのでしょうか。阻害された子どもの行く末なんでしょうか。これはただの自分内こじつけです。気になるところですけど。



ところで、この作品を「価値観をすり込まれた社会への警笛」と捉えれば、昨今やたらと鋭意活動中なのが小沢健二氏ですね。小澤昔ばなし研究所刊の季刊誌「子どもと昔ばなし」で連載中の「うさぎ!」でもその件については批判しまくり、日本社会臨床学会刊の「社会臨床雑誌」に寄稿しているテキストをちらっと読んだ限りでもかなり痛烈な批判をされています。
正直言って、小沢氏の言う言葉は正論で間違いないのですが、やや極論。学者先生の言う言葉ですね。しかし、それを物語形式と比喩のミックスでとても染みこみやすく書かれています。
ただ、表現としては本作の反語的な言い回しの方がバッファを内包している分、頭の回転の鈍い私にも深くは届くのかな、と。


ぱらぱらと「社会臨床雑誌」を読んでいたあとで本作を鑑賞したため、こんな変な感想になってしまいました。
ぐだぐだ言わんでも飽きさせない面白い映画です。
スカーレット・ヨハンソンのエロさは「ロスト・イン・トランスレーション」とタメを張るかもしれません。その筋の方も是非。

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どこまでもいこう
1999
塩田明彦


こないだの「カナリヤ」が気に入ったので、同じく塩田監督の本作。
小学生5年生の日常生活を描いた作品です。

そのくらいの歳って、わりとマセたクソガキだったりするんですが、その通りの描き方ですね。
岩井俊二監督の「打ち上げ花火、横から見るか?下から見るか?」も同じ学年のお話だったと思いますが、描き方が割と似ていなくもない。
本作の方が、もうちょっとひねくれてる感じですね。可愛くない悪さもバンバンするし。時代のせいでしょうか。
こないだ読んだ重松清の「小学五年生」もやっぱり近いです。時代は変われど。


小学5年生と言えば、もう何をやっていたかの記憶はおぼろげですが、多分似た様なことをしていたかと。
「見るモノ全てが発見」というわけでもなく、割と知った口をきく様になる歳ですね。手先も動くようになって、一番遊びを工夫する歳でしょうか。そして、覚えた言葉をどんどん使う。で、変な言葉が流行ったりする。平和なもんです。
人生で一番、後も先も考えないけれども時間を感じるという不思議な時代かもしれません。自我の芽生えみたいな時期なんでしょうか。
世界が少し広がる感じ。


映画としてはほぼ起伏もなく、事件らしい事件は起こしてみるモノの、そのスケールの小ささに、やはり大人が見るには少しもの足りません。かといって、子どもが見たら全く面白くないでしょう。微妙です。ただの小学生日記になりかけています。
私はこの手の子ども青春モノが大好物なので全然観られますが。序盤は楽しいですね。好きな女の子にちょっかい出してフラれかける件とか。その辺は回顧による感情移入なので好きにやってます。
その感情移入をキープしつつ、物語を走らせることが出来れば最高なんですが。方法分かりません。

以前、自分でもその年代の子どもストーリーを起こしてみたことがあったのですが、ただの昔話になってしまった。オチが付けられない。どこにも結実させられませんでした。ここにジュール・ヴェルヌやらスウィフトばりのファンタジーを入れ込めれば一流なんですが。


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パンチドランク・ラブ(PUNCH-DRUNK LOVE)
2002
ポール・トーマス・アンダーソン(Paul Thomas Anderson)


良い!この映画は良い!
コレは好きです。

ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品は本作を以て自分内で間違い無しとなりました。
「ブギーナイツ」で悶々とした青春を描き、「マグノリア」では各登場陣粒のキャラクターを克明に描きまくる。人間の描写について現代ではウディ・アレン監督に次いでいるかもしれません。むしろ映画としては現代的な舞台装置を上手く使うアンダーソン監督の作品の方が好まれるでしょう。

何が好きだったのかはよく分かりません。
強いて言えば、やっぱり脚本ではないでしょうか。
ウディ・アレン監督作品にも通じる設定の馬鹿馬鹿しさと、その設定の上で正直に動き回る不器用な人たち。
恋の相手も不器用きわまりない感じがにじみ出ています。役者も上手いなぁ。異常者ばかり。

割と引き目のカメラから描き出される人間の滑稽さ。いちいちその行動に間違いない。
デフォルメしまくったキャラクターの行動がいちいちかわいらしい。久しぶりに映画を観ながら爆笑しました。

本日、たまたま古谷実先生のマンガ「わにとかげきす」の3巻を買ってきて読んでいたんですが、ソレにも通じる「こんなどうしようもない自分を好きになってくれる人がいるという世界はなんて懐が広いのか」という感触。これに非情に近いです。
この感覚をシリアスに描くのではなく、コミカルだけれども差し迫る演出で描くアンダーソン監督、素敵です。
今までの作品も、思えば登場人物たちは皆デフォルメされまくった世界で生きています。そのデフォルメされまくったキャラクターの中でちゃんと人間性を描く。これはナカナカできることじゃありません。設定だけに追われたプロフィールに陥ってしまいがち。
その点に於いてはもの凄く優れた作品です。

ガチャガチャした作りの映画で、台詞の一言一句を逐一追うというスタイルではないので気楽に観られるのですが、鑑賞後にやっぱりもう一度観たくなる作品です。
コレはオススメ。
今更ですが、ご容赦下さい。

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おいしい生活
2000
ウディ・アレン


やはり、ウディ・アレン監督作品は安心して観られます。
とはいえ、他にも好きな作品があるアレン監督の作品の中では平均点を下回っているかも。やはり「マンハッタン」「スコルピオンの恋まじない」が最近観た中では良すぎました。


本作は単純に楽しいコメディ。他の作品とはちょっと違って、含蓄有る台詞は少なめだったかもしれません。そのせいか、お話が薄く感じてしまった。
ニューヨーク感も薄め、室内のシーンが多かった様です。いつもの歩道を誰かと連れだって歩きながらの喋り倒す(ほぼ罵り合い)シーンが無かった?もったいない。今回はマヌケ役ということで台詞自体も割と下世話なものばかり。

であったとしてもアレン節が効きまくった作品です。かなりウディ・アレン監督"らしい"作品かもしれません。
「泥棒野郎」でファンになって以来、ぼちぼち観てきましたが、久々のダメなオッサン。このコメディのラインはやはり間違い有りません。楽しいことをやってて何が悪いんだ、という感覚。

しかし、脇を固める役者達も相当上手いというか、ノッているというか、決して空気を壊すことなく、一丸となって楽しんで映画を作っているなぁ、という雰囲気が漂っています。
楽しくて、良い映画です。

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紅の豚
1992
宮崎駿


プロットの参考にと、ちらっと見ようと思ったものの、結局全編観てしまいました。
今更ストーリーがどうこうという作品ではないのでそんなことには触れません。
台詞がいちいちカッコイイ。
今読んでいるレイモンド・チャンドラー著・村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」もそんな台詞のお祭りです。

何でしょう、どうしてこんなに面白い映画なのか。
これは、誰にでも言えることなのか。宮崎駿からは誰も逃げられないのか。
今まで一人も会ったこと無いのが「宮崎駿ってなんか苦手」という人。

人それぞれ好みがあって、ハリウッド大作な映画が大好きな人も、クソみたいなテレビドラマが好きな人も、ヨーロッパものを好んでみる人も、おしなべて「駿好き」
何なんでしょう。
ナウシカとラピュタはガキの頃金曜ロードショウを録画しては何度も見返しましたし、魔女はちょっとひねくれていた当時は「好きだ」と言うのがちょっと恥ずかしかったモノのここ数年のナンバー1は譲りませんし、トトロはネコバスの前での「ばかめい!」では泣き笑い、カリオストロの城は多分コンテが起こせるくらい観てますし、名探偵ホームズシリーズも毎週見ていましたし。

と、書いていて気付いたのですが、二十歳を境にそれ以後の宮崎作品に思い入れが有りません。ハウル観てないし。
よく言われることに、もののけ以降はやけに説教クサイと。確かに、もののけ以降はちょっと覆い被せすぎていてよく分からない説教を聞かせられている気分になります。
「風の谷のナウシカ」の場合は全編で説教全開。逃げも隠れもしない説教。「環境破壊すんなよバカヤロウ」ですね。

「天空の城ラピュタ」でラピュタ城でのシータがムスカを諭すときの「ゴンドアの谷の詩にあるもの『土に根を下ろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越し、鳥と共に春を歌おう』どんなに恐ろしい兵器を持っていても、かわいそうなロボット達に囲まれていても、人は土から離れては生きられないの」という言葉もあったりします。
この言葉、最近やたらと思うのです。
今勤めている会社が駅とくっついたビルにあって、地上に降りることがあまりありません。一日中空中にいることもある。昼飯も3階で繋がった空中廊下を歩いてレストラン街へ。なんか気持ち悪い。
だったら農業やれよというくだらないツッコミはやめてください。あ、余談です。

本作「紅の豚」にしても思うのですが、人が潜在的に求めていることを表現しているんだな。
「飛ばねぇ豚はただの豚さ」なんてのも、ホントは飛びたい(比喩的な意味で)大人たちが思っていることの代弁でもあるし、子供が観てもソレはソレで純粋にカッコイイものだと思えるはずだし。豚の場合はややアダルトな設定で、ちょっと「カサブランカ」も入っていますので、長く楽しめる。歳を経る毎に楽しみ方が変わります。タバコがジタンだったり。


ボルコ(豚)が飛行艇を静かに桟橋に泊め、ジーナの店にタバコをくゆらせながら入ってきて、カウンターにもたれかかりバーボン(多分)を注文。BGMは加藤登紀子の歌うジャズ。正にヒーローの図。
いちいちカッコイイ。


ちょっと気付いたのが、宮崎駿作品で嫌われるのが「無礼者」。
もし出てきてもそれを必ず批判します。「魔女の宅急便」でトンボがキキに初めて声をかけるシーンでも「きちんと紹介もされていないのに女性に声をかけるなんて失礼よ!」と一蹴。
ナウシカでも序盤のクシャナの無礼さも後半では一変。クロトワでさえも心を入れ替えんばかりです。
「ありがとう」と「ごめんなさい」がちゃんと言える人たち。
どんな悪役でさえも礼儀を知っています。
正常な世界です。

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