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映画【スクール・オブ・ロック】

2007-08-31 23:27:04 | 映画

面白い、楽しい。
この作品がつまらないという方がいらっしゃたったらその理由を教えていただけますでしょうか。
「天使にラブ・ソングを」と方法としては似ています。
同じ種類の映画だと思って問題ありません。
グダグダとしたイチャモンの付けようがない。


ファミリー向け映画として分類されている様ですが、それは決して間違いではないのですが、ただそれだけの無害な映画ではないですね。
意図がちゃんとある。
これは、子供のための映画ではなくて、大人教育のための映画なのかもしれません。

監督のリチャード・リンクレイターの本作と過去の作品を観て思ったことに、実は凄く意識が高い方ではないでしょうか。
演出家として落とすべきところがはじめから分かって撮っている。
これが意外と出来ていない監督が多い。
表現したいことがちゃんと映像として表現できている。
ブレて無いし、チャレンジャーです。
リンクレイター監督作品で最も挑戦的な作家性があるのが「ウェイキング・ライフ」でしょうか。私は大好きです。

偽教師が子供にロックを教えてバンドバトルでめでたく優勝という何の変哲もないあらすじです。
けれども、面白い。
というか、面白いのが分かって観ている。


この作品の全ては、エンドクレジットと共に流れる子供達の表情じゃないでしょうか。
あれは演技指導で撮れるものじゃありません。


ただ、本作で言う「ロック」がツェッペリン方面だと言うことは覚悟しておいてください。
これは個人差と言うことで。

映画【遠くの空に消えた】

2007-08-30 23:02:11 | 映画

遠くの空に消えた
2007
行定勲


「ユビサキから世界を」でボロクソに言った行定監督ですが、予告編がモロ好みっぽくて騙されて観てきました。


結果、本当に騙された。

予告編を見て「ほのかに抱く恋心。好きな女の子のために、ライバルのあいつと共同戦線を張ってでもどうにか喜ばせてやるぜ!」というほのかな思春期の作品だと思った方は気をつけてください。
本編は全く違うお話です。



行定監督自身がオリジナル脚本で7年間温め続けた作品とのこと。
温められていたんじゃなくて、それは映画として成立しそうもなかったから映画化されなかったんじゃないでしょうか。
描きたいモノが何だったのかイマイチ分からんよ。
だからどこも買わなかっただけ。
で、無理矢理映画化。
結果、どこにも落ちてない。


本作、岩井俊二監督の「スワロウ・テイル」が下敷きになっているのがモロバレです。
上っ面だけパクってんじゃねぇよ。


本作は、技術的には良くできています。
けれども、それだけ。
綺麗な映像で2時間を埋めただけ。
これだけの映像を撮るのにクルーがどれだけ汗流したんだよ。
予告編に負けてどうすんだよ。
本編が負けてどうすんだよ。

面白そうだなぁ、と思ってやってきた観客にドロップキックも食らわさず逃げきる男、行定勲。


今後、注意したいこととして、行定監督は原作ありきの商業映画監督としては外さないかもしれませんが、作家性は無い。
本作を観ていてもの凄く感じたことに、彼は作家ではないな、ということ。
天才:岩井俊二監督の下から離れて別のベクトルを見いだそうと、努力していたことは認めます。監督として作品毎にチャレンジしていたことも知っています。
映画はオリジナル脚本をやらなきゃいけないという想いも大賛成です。


でも、やっぱりオリジナルはもうやめれば?

映画【皇帝ペンギン】

2007-08-29 23:05:30 | 映画
皇帝ペンギン
2005
リュック・ジャケ


ペンギンの半生を追ったドキュメントなのですが、それがただの生態学調査の結果ではなく、詩的に構成されています。
これは完全にナレーションの力なのですが。
(偏見ですが)フランス魂全開の愛のナレーション。
ペンギンの一生が愛に満ちあふれているかのような、そしてそれが真実であるかのような作品に仕上がっています。

今更こんなこと言ってもなんですが、やはり動物の一生も人間の一生もそんなに大差はない。
本作を観ていて思ったのが「動物と人間の差って、その種の中での『競争』の有無の違いだな」と。
野生動物の中にも『競争』があるのは間違いないのですが、他人を蹴落としたり、計算ありきでの競争ではありません。
動物の場合、その競争が生死を分けるけれども、人間は競争に負けても死なない。競争に負けて死ぬのは、そこで諦めてしまうからだと思うのです。多分深すぎる話なので私は深くは語りません。


真偽の程は定かではありませんが、恵比寿ガーデンシネマの動員記録を塗り替えたという本作。(ドキュメンタリー枠だったかもしれません)
どれだけペンギン好きが多いんだよ。
私も、もちろん嫌いじゃありません。好きです。
あんな不自由そうな体で、やっぱり不自由な一生を過ごす。
けれども、そのスタイルを曲げない。
不自由なパツパツのスーツを着ているモッズと近い。



以前、とある女性から「ペンギン好きはもうベタ。今はパンダ。」というお話をちらっと聞きました。

私の解釈ですが、今まで割とサブカルチャー的だったペンギンという動物の可愛らしさが世間的に認知されすぎてしまったから、やはりここは狡賢く見えてしまいがちな「ペンギン好き」というキャラクターよりも「パンダ好き」という「無条件にカワイイものが好き」という「無防備キャラ」のアピールへ移行しているのでしょうか。
と、思ってみたのですが、そんなことを考えるまでもなく、ただのブームでしょう。
しかし、ブームというのは常に何かしらの共通したモチベーションをすり込まなければ発生しない。
「カワイイ」の方向を、より王道の可愛らしさへと向かわせていると言うことでしょうか。
パンダ好きは、パンダの持つ「可愛いけれど熊」という二律背反なキャラクターへの憧れではなく「ルックスが超カワイイ」という意だけでの「カワイイ」らしいので、恐らくその種の女性の趣向は付加価値ではなく「画一的(世間的)に良いとされているモノ」に惹かれていく様に作られていくのではないかと思う昨今であります。
何が好きでも構わないのですが、いちいち好きなモノが変わってたら疲れるんじゃないかなぁ。
それが楽しいんでしょうし、そうやって変態していくことで常に新しく、綺麗になっていく。
それはソレでアリです。

以上、完全に余談でした。

映画【世界中がアイ・ラヴ・ユー】

2007-08-28 23:11:28 | 映画


世界中がアイ・ラヴ・ユー
1983
Woody Allen(ウディ・アレン)


ニューヨークに暮らすとある金持ち一家の恋愛沙汰のドタバタ、もちろん毎度の口説いてはフラれるアレン監督本人主演のキャラクターをやや自虐的に描いた、ミュージカル仕立ての本作。

アレン監督というのは、作品のプロット(あらすじ)の面白さではなく、もちろんそのプロットだけとっても面白いモノはありますが、登場する人々の想いをどうしてこうも生き生きと描くことが出来るのでしょうか。

アレン監督作品のモチーフは恋愛モノが殆ど。しかし、大げさな大恋愛物語は描かない。
この作品を観て、ちょっと分かった気になったのは、アレン監督は人生を真面目に楽しんでいるからかもしれません。誰かを愛する悦びを知っていると言っても良いかもしれません。
これは自己愛からの発生じゃなくて、人がいないと楽しくない。そんな気がします。
今までにあったこと、これから起こることをひっくるめて愛している。
多分、映画というツールが無かったとしても、楽しむためには何でも作り出してしまう。

ちょっとした出来事、例えば「今通り過ぎた女の後ろ姿が好みだ」と言うだけでそこにあらゆる可能性を作り出せる。誰でもその妄想的傾向はあるかもしれないけれども、アレン監督の場合はそれで一本映画が撮れてしまう。


ちなみに私はアレン監督の作品は本当に好きなんですが、あまりにも個人的に好きなために「面白い映画教えてよ」と聴かれても、あまりアレン監督作品をオススメすることはありません。
既に自分の一部になってしまっている気がしてしまって、滅多なことでは薦められません。
聴かれ方が「どんな映画好き?」だったらアレン監督作品が入りまくりますが。


ところで先日、私の誕生日プレゼントに「ウディ・アレン 映画の中の人生」という本を友人のS氏から頂きました。ありがとう。
じっくり読みます。
本書の帯のケラリーノ・サンドロヴィッチ(本名:小林 一三)の「ウディは僕の創作の師であり、生き方のお手本だ」という言葉がありますが、こう言うに至っていない私は、まずはこう言えるようになりたいですね。


余談ですが、先日、H氏から頂いた「トップガン」のDVDも同じく、30過ぎにもなってこういうプレゼントを頂くと「友人というのは、結構重要なタイミングで無言の助言を出してくれるものなんだなぁ」とアホのようにクサイことを普通に思ってしまいます。

映画【天然コケッコー】

2007-08-27 23:27:04 | 映画
天然コケッコー
2007
山下敦弘


結論から言えば、この映画はソノ筋の方は観ないわけにはいかないでしょう。
むしろ、私が観るタイミングが遅かったのかもしれません。
率先して布教活動にいそしむべきでした。

私見ですが、この映画を好きだと言ってはばからないいい歳の男は何かを患っていると予想されます。
けれども、間違いなくターゲットがそこに向けられている。
山下監督が同い年だということからも「狙い」が分かります。


やはり原作が名作過ぎる。
あまりにも「くらもちふさこ著の原作に忠実な描写のため「映画としてのスペシャルさ」が少なかった。
決してそれが悪いことじゃない。
本作を映像的にどう落とし込むかなんてことは最初から分かり切ったことで、原作の持ち味をいかにそのまま映像化するかということだけです。
それ以外のことをやってしまったら別の作品になってしまう。

山下監督の引きの目線がハマります。
ほぼ主観ではなく「こうであったら良かった」という瞬間を空想するかのような引いた映像。
監督自身の個人的な思い入れが少なかった(と思う)分、大多数に伝わる作品になっていると思います。
原作の設定からして「現実離れした田舎」であるために感情移入するための余白が広い。
ステージとして相当な田舎を選んでいることで、純朴すぎるキャラクターの中にも潜むリアリティを上手に描いています。あ、これは原作の力か。

どのシーンがいちばん良かったかというのは愚問で、こういう空気を感じに行くという映画です。
おかげで、急に思い立って金曜の深夜にばあちゃんの墓参りのため実家に向かい、所々で写真を撮り、土曜の深夜に帰宅するというスケジュールを強行してしまいました。



こういう風景の田舎を持つというのはとても贅沢なことです。
しかし、その風景はだんだん少なくなっていく。
実際、私の実家である静岡県浜松市の郊外もここまでの田舎ではないのですが、それなりに遊びまくる場所は山ほどありました。
しかし、昔遊んでいた山がまるごと削り取られ工業団地とニュータウンに変貌しつつあります。
今からそこで育つ子供達はコンクリートの川と植林された林、夜間立ち入り禁止のグラウンドで遊ぶことになるんですね。
それを行政では「開発」と呼ぶそうです。

31

2007-08-26 23:38:55 | 侃々諤々
2007年8月25日の午前0時。
バンドマンの友人Tから、あるTV局から声がかかりmusic videoを制作することになったという報告を受け、その後、友人S氏のイベントへ遊びに行き、誕生日プレゼントを頂き、すぐに出ると言うと後輩Kから「アンタのために今日来たのに」とさんざん悪態をつかれ、表に出れば車は駐禁切られる寸前で免許証を見せる前に「今日は大目に見るけど、ダメよ」と見逃してもらい、その足で実家へと東名高速をスッ飛ばし、05時到着。

実家のリビングに入ればクーラーがガンガンにかかり犬(柴犬のみどり)が寝ている。
ビールを飲みつつ馬鹿デカイ液晶テレビで「ボーイ・ミーツ・ガール」をちらっと観て、先日5年ぶりくらいに再会した友人Tから借りた安達哲著の「さくらの唄」を読みつつ寝る。

翌朝、10時に起床し「意外と早く起きたじゃない」と母から言われ、一人祖母の墓参りへ。クソ暑い。
一通り墓を洗い、花を生けて、線香を一掴み20本ほどあげ、拝む。
お寺さんの近くにある母校である小学校へ立ち寄り何枚か写真を撮り「昼飯どうすんの?」と母からの電話で帰宅。
そうめんをすすり、「さくらの唄」のつづきを読む。

15時。
ぶらぶらと出かける。
海の近くにある母校の高校へ行き、何枚か写真を撮る。
同郷の友人からの「おめでとうメール」への返信に母校の写真を添付。

大学の後輩でもある同郷の友人Wの案内で山を切り崩した無茶な開発をしている工業団地を見学に行く。写真を何枚か。
Wを今から飲みに行くというキャバクラ前まで送り「晩ご飯どうすんの?」という母からの電話で帰宅。
20時。

外から花火の音が聞こえ、実家の2階から眺める。
実家の本棚にあった「湘南爆走族」を読んでいると、いつの間にかうとうと。
22時。

3年前に結婚した友人N夫妻宅へ遊びに行き、ぐだぐだとしていると、私のiPodをいじっていた嫁が「Rinoceroseって、ライブカッコイイけどなんて読むんだろうね」ということで、録画のFuji Rockを観る。続けて電気グルーヴのライヴを観ながら自家製のわらび餅をご馳走に。

N夫妻曰く「急に帰ってくるって言うから結婚報告だと思ったのに」とのこと。
ごめんなさい。多分それは随分先です。

25時。
N夫妻宅をおいとまし横浜へと東名高速をスッ飛ばす。
27時帰宅。



そんな31歳の誕生日でした。
お祝いいただきました皆様、ありがとうございます。

修理

2007-08-22 23:42:27 | 侃々諤々


終わったわけでもないけれども、夏のピークタイムの全てを仕事に費やし、休みゼロ。
おかげで随分メガネ焼け(ロケ焼け)もしました。
1ヶ月ぶりに1日だけ休みが取れてもやったことと言えば、突然液晶が死んでしまったGR Digitalの修理に行き、夕方からはビールを飲みながら土いじり。


とうことで、昼前に起きて、新横浜のリコーのサービスセンターに行き、修理を申し込んできた訳なんですが、基本即日修理で可能とのこと。早いじゃないか。

私のGRDをいじりながら担当者がブツブツとなにやら唱えつついじっています。
「多分、サブ基盤が逝っているっぽいから交換します。2時間後にまた来てください」とのこと。
担当者のカメラをいじる姿勢が営業的ではなく、そのカメラが好きで、どうして壊れたのか?ということを探るようにさわっている。この姿勢にもの凄く好感を持ちました。


約束の2時間後に受け取りに伺えば、どうやら修理が未完。
聞けば、サブ基盤は交換したものの、通常は壊れないはずのパーツが壊れていたため、原因究明のため詳細な検査をしているとのこと。
邪推すれば「技術担当の昼飯が長くて間に合わなかった」のかもしれません。
しかし、ここはリコーを信じます。
イラっときたところに、「貸出機を用意いたします」とのこと。

この「当日に治すことができなければ代替機を貸し出す」という姿勢に感心しました。
わざわざサービスセンターに持ち込む者の気持ちを分かっています。

写真を趣味とする者にとって、カメラを取り上げられるのは相当なストレスです。
たとえ、3日間一度もファインダーを覗かない日があったとしても、いつ被写体に巡り会えるか分からない。
ちなみに、私が壊したのは8/20夕方の原宿。
視界を覆うような大きな入道雲が北東の空にそびえ立つ様を押さえようと、運転しつつ露光を調整したとき。
こんなことやってると近々死ぬので決して真似しないでください。
ちなみに、このエントリの画像がGRD仮死直前の写真です。
私は、大きな入道雲に出会うたびに「竜の巣だ!(「天空の城ラピュタ」より)」と、一人でわくわくしてます。


写真好きの会社なんだなぁ。
浮気して便利なFujiのコンデジに買い換えようと思っていましたが、作っている会社の姿勢を目の当たりにしてやっぱり使い続けようと思いました。
社員の一人が会社を代表していた最良の例だと思います。


とは言うものの、TC-1のデジタル出ないかなぁ、と思う日々です。
ソニーから出たら買わないけど。

本【マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと】

2007-08-22 01:15:27 | 本読み
マーリー ―世界一おバカな犬が教えてくれたこと
2006
ジョン・グローガン
古草秀子(訳)


「動物モノの企画無い?」と敏腕プロデューサーから聞かれ、たまたま最近読んだCROSSBREEDさんで本書が紹介されてみたので、その場でamazonで注文。読んでみました。
紹介されていたブログの著者の方も相当な愛犬家の様子。随分前から楽しく読ませていただいています。

ところで、amazonの「お急ぎ便」って凄いですね。
本当に翌日に届きます。
超急いでいる資料用の本やらDVDを10本くらい注文しても在庫があればきっちり翌日に届きます。
気がつけばこのところ、殆どの本やらDVDやらをamazonで買っています。amazonで無ければ他のECサイト。
あるかどうか分からない本を探して彷徨う時間も好きなのですが、そうもいかないときもあります。



ところで本作。
結論から言えば、犬を飼ったことがある方なら共感は間違いなし。涙ぐむこと必死。
反面、犬を飼ったことがない方であれば「大変だねぇ」で済まされてしまうかもしれません。
そういう本です。
「いぬのえいが」の名作短編「ねぇ、マリモ」をドキュメント本にしたらこんな感じなのかもしれません。


動物を飼うということはもの凄く面倒なことです。本書に登場するマーリーはその代表。
毎日散歩に連れて行かなければ行けないし、ゴハンも朝晩あげなければいけなし、虫に刺されないように蚊取り線香も毎晩焚いてあげたり、車に乗れば吐いちゃうし、広いところにはなして遊ばせておくと捕まえるのに苦労するし、好き嫌いはするし、病気になれば家中で大騒ぎだし、死んでしまったときの悲しさは比べるものはないし。

私のうちで飼っていた犬はジョリーといって「いぬのえいが」のエントリでも随分書き散らかしましたが、小学校2年生冬から高校2年生の夏までの10年という短い時間に彼から得たことは果てしなく大切で、かけがえのないなことだったんだと思います。チープな言葉かもしれませんが、こう言うしかない。

人間よりもずっと短い寿命の中で、自分の主人に対して全力で応えようとしてくれる。もちろん、その応えてくれるというのは「絶対の従順さ」という意味ではありません。
人を楽しませ、心配させ、怒らせ、喜ばせることを、その短い一生の中で全力で表現する犬が私は大好きです。
最後は悲しいに決まってる。けれども、その悲しみも、いずれそう思えたことが幸せだと思うようになれる。
「犬は人間の最良の友」と言う言葉がありますが、そうではなくむしろ教師であるのかもしれません。

コンビニの前なんかに繋がれいる犬がいると、たいがい頭をなでてあげるけれども、彼はたいがい自分の主人以外にたいした反応をしてくれません。「サンキュー」程度のクールな反応。しかし、主人が戻ってきた瞬間に今までのクールさが嘘のように暴れる。そんな犬がたまらなく愛おしくなります。


こう書くと、ただの犬好きのセンチメンタルと思われてしまいがちですが、そしてあながち間違いでもないのですが、犬と一緒に暮らすと言うことは、もし可能であればとても素敵なことです。
私は、幼い頃からずっと犬と暮らしてきました。感謝すべきことです。



良くない言い回しで言われる打算的絶対服従を指す「犬」という言葉があります。
しかし、私の言う意味での「犬」であれば、いずれ誰かの為の犬であることも悪くはないな。
可能であれば、ですが。

映画【青空のゆくえ】

2007-08-18 01:04:47 | 映画
青空のゆくえ
2005
長澤雅彦


大好物の甘酸っぱさ全開のセンチメンタル映画。
中学3年生の夏の一瞬だけを描いた本作。
ある男子の転校をきっかけに、彼をハブとしてクラスメイトの女の子達の些細な心の動きを描いています。
ジャケットからすると、女の子目線のベタベタでドロッとした作品かと思いきや、そうではなくカラッとした作品です。
中心に純朴というか鈍感というか、含むところが一切無いキャラクターの男子を配置したことで、作品の湿度を保っています。

作品としては、中学3年生としてはちょっと純朴すぎるであろうキャラクターの描き方ですが、人間関係を描く際に、このくらいのデフォルメは必要なのかもしれません。
主人公の男の子が、あまりにも無垢だと思っていたら、その裏付けもきちんと描かれていました。偉そうですが、意外とちゃんとした映画です。

ラストちょっと前の夜の校庭での花火のシーン。これは正に「打ち上げ花火~」でのなずなとのりみちのプールでのシークエンスと同義。驚くほど意図が同じ。そして、いちいちその意図にやられる私でございます。



残念だったのは、サントラ。
挿入歌として山崎まさよしの「ぼくらは静かに消えていく」はあるのですが、それ以外が、まるで「100曲3000円」のサンプル著作権フリー音源のようチープさ。
完全に情緒に押し流すサントラ職人のREMEDIOS(岩井俊二監督作品を多く手がけています)がやっていたらなぁ、と思ってサクッと調べたら長澤監督の「卒業」という作品でサントラで参加しているとのこと。ラブストーリーだそうです。


明らかに儲からないはずなのに、こういう映画が撮り続けられているということは、世間的にやっぱりこういう映画が求められているという解釈で良いのでしょうか?
もしくは、ただの趣味で撮られているのでしょうか?

この手の映画が好きな人は、本当に逃れられない呪縛に縛られているんだろうな。私も含め。
多分、完全に病気です。これは治らん。
といか、治らなくていい。
こういう映画に迷い込んで、出られなくなるのさ。

思えば、中学3年生というのは殆どの子供にとっての初めての来るべき別れ(卒業と進学)を意識するからなのかもしれません。
それ故に今までほぼ固定されていた人間関係を、生まれつつある自我によって友人を選ぶということを始める瞬間なのでは。
そこで集まる魂というのは、強制的に集められたものではなく、集ったモノなのでしょうか。


本作を「ユルイ」とか「甘いんじゃない?」とか「っつうか、何したかったの?」とか言う方は、それはそれでよろしいかと思いますが、私は本作好きです。

マンガ【同録スチール】藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (7) より

2007-08-14 22:33:17 | 本読み



【同録スチール】藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (7)
1981(初出)
藤子・F・不二雄


藤子・F・不二雄著のSF短編で「同録スチール」というのがあります。
撮られた写真をそのお話に登場する未来のカメラで追撮(写真を撮影)すると、その写真が撮られた時の音声が「同録スチール」で撮影された写真に音声も追加して記録されるものです。
ちなみに「同録」というのは撮影用語で映像と音声を同時に収録することです。
皆さんがビデオカメラを回しているときはたいてい同録ということになります。

この作品で、主人公が自分の生い立ちの写真を同録スチールで追撮して、そのファインダーのこちら側の両親の愛情に満ちた言葉を聞いて、その期待に少しだけ応えてみようかな、という気になる。
ついでに、自分の好きな女の子の写真を友達に撮ってきてもらって、どう思われているかを知り、行けそうだと思うや、シャイな主人公は自分を写真に撮り意中の彼女に想いを告げる。
Fらしいちょっとツイストの効いた「イイ話」です。


このお話で思ったことは、自分で撮った写真を見れば、その瞬間を異常なまでに覚えているということ。
私は写真を撮ることが好きで、写真を見るのが好きで、写真に撮られるのが嫌いです。

狙って撮った写真だったり完全な仕事や作品撮りの場合はそのシチュエーションは覚えていても、気分は覚えていない。そもそも気分なんか無かったのかも。
なんてことない、撮ったのかも忘れているような平凡なカットの方が喚起させられます。


先日、とある方ととりとめない与太話をしていた時に同意したのが「男女の記憶って特別なイベント事や旅行なんかより、日常的な瞬間の方が後々残るよね」ということ。
その通りです。
広告と同じような反復による純粋想起に近いかもしれませんが、それってただの刷り込みじゃなくって、反復していたことって、結局シンクロしていたことで、その重なった部分が多くあることが幸せなのか、しかしそれは次第につまらなくなってしまうことなのか。どうなんでしょう。

ガキの頃の記憶の場合は、お誕生日会や運動会や遠足なんかより、過ごしていた校舎の落書きや通学路で見つけたエロ本なんかのどうでもいい一瞬が時系列ぐちゃぐちゃで残っています。「起床→学校→遊ぶ→就寝」という異常なまでに純粋なルーティンの中の異物が残っている。
どっちが強く残るのでしょうか。というか、私だけなんでしょうか。
小学生の頃ですが、雨上がりの朝の通学路、歩道橋の上に女性の洋服(下着含む)一式が散乱していたことがあるのですが、アレは何だったんでしょう。今思うと、結構な事件だったのかもしれません。こわ。



話を戻しますと、写真というのは、その瞬間を記録するという機能と共に、その前後の記憶を喚起させますね。
その写真を持っているということは、その記憶をいつでも呼び戻せる。「同録スチール」なんて無くても。

記憶というものはやっかいなモノで、貯めていけば貯めていくほど、時が過ぎれば過ぎるほどその貯まった貯金に高度経済成長期を維持し続けているような公定歩合に沿った金利がつきまくり、素晴らしく綺麗で愛おしいモノにしてくれやがります。
まるで、そのときに掘り当ててしまった素性の分からない原石を時間がゆっくりと磨き上げていくかのような。
時間の経過が記憶をどんどん美しく儚いものにしていく。
その瞬間のわずかな輝きを何百倍にも増幅してしまう。

あの時の光は、あの時にしか無かったある光。
バックミラーに映る後続車のハイビームに気を取られていると、前方への注意がおろそかに。事故の元。
前の光が見えなくなってしまう。
呪縛とも言える何かを解き放つのは、やっぱり意外とネガティブでもない。
それに、もの凄く遅れて気付く瞬間は、仕事帰り渋滞12km湾岸線で訪れたりするものです。