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映画【ゴーストワールド】

2007-05-14 23:37:19 | 映画
ゴーストワールド
2001
Terry Zwigoff (テリー・ツワイゴフ)


勝手に最近の出来事を関連づけてしまうのが私の悪い癖なのですが、昨日見た「どこまでもいこう」が小学5年生から見た世界で、それは小学5年生にしか見えない世界を結局大人が脚色してしまったお話です。
本作の場合は18歳の米国少女が作り出した世界のお話。
似ているようで全く違う切り口です。

タイトルの「ゴーストワールド」を、もの凄く曲げて解釈すればこれはこの少女が作り出した物語。世界が幻なんじゃなくて、彼女が作り出した(選んだ)世界のお話。
箸が転がっても腹が立つ感覚。分かります。周りが全部バカに見える。そんな時もありました。
既に私は随分とその世界が見えなくなってしまったのですが。

あらゆることがつまらない、くだらない。どうしてこんな世の中に自分はいなきゃいけないんだろう。なんで上手くいかないのか。そんなことばっかり考えている青春もあるんですね。
というか、コレってアメリカンニューシネマの青春の解釈ですね。
70年代のアメリカンニューシネマの場合、敵対すべきは「悪いのは大人が作った社会」という一律で済んでいたモノが、現代に置き換えると「趣味を選んでいるつもりになっているけれども価値観がバカみたいに統一された最大公約数的な社会」というもので、これは一個人にとって共通言語を持つ人が極端に少ない世界。反発すべき「社会」というものが既に無い。
しかも、10代の狭い世界であれば、奇跡的に出会ったと思える友達でさえもズレがあるのは当たり前なのに、絶対的な一致でなければ納得できないものです。
言い換えれば広告によって画一化された経済社会。その中で、自分の価値観をベースに捉えれば周りが全部間違って見える。
本作はその1ケース。
「カルチャー好きの女の子の場合」という作品です。
たまたまその「カルチャー好き」っぷりが極東から観るにアメリカの経済社会の的を射ていると感じます。

鑑賞された方はおわかりかと思うのですが、序盤の「あぁ、あるねぇ、こういう感じ」から徐々に少女の意識の暴走と社会からの疎外感で自分が選んだはずの世界からも追い出されてしまうときの「正しいと思ったことが全て社会に受け入れられない感じ」をちゃんとストーリーに落とし込んでいます。飽きさせません。
私は好きな映画です。

主人公の相手役のスティーヴ・ブシェーミの役名が「シーモア」。これは「ライ麦畑でつかまえて」のシーモアの行く末という設定なのでしょうか。阻害された子どもの行く末なんでしょうか。これはただの自分内こじつけです。気になるところですけど。



ところで、この作品を「価値観をすり込まれた社会への警笛」と捉えれば、昨今やたらと鋭意活動中なのが小沢健二氏ですね。小澤昔ばなし研究所刊の季刊誌「子どもと昔ばなし」で連載中の「うさぎ!」でもその件については批判しまくり、日本社会臨床学会刊の「社会臨床雑誌」に寄稿しているテキストをちらっと読んだ限りでもかなり痛烈な批判をされています。
正直言って、小沢氏の言う言葉は正論で間違いないのですが、やや極論。学者先生の言う言葉ですね。しかし、それを物語形式と比喩のミックスでとても染みこみやすく書かれています。
ただ、表現としては本作の反語的な言い回しの方がバッファを内包している分、頭の回転の鈍い私にも深くは届くのかな、と。


ぱらぱらと「社会臨床雑誌」を読んでいたあとで本作を鑑賞したため、こんな変な感想になってしまいました。
ぐだぐだ言わんでも飽きさせない面白い映画です。
スカーレット・ヨハンソンのエロさは「ロスト・イン・トランスレーション」とタメを張るかもしれません。その筋の方も是非。