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シャーリー・テンプル・ジャポン (パート1&パート2)
2005
冨永昌敬


「パビリオン山椒魚」の冨永監督のまたも自主制作チックな映画。
「亀虫」に続いてです。

本作もなかなか面白い。
発想がとんでもないところから来ています。

基本的に「仕掛け」だけの映像ですが、その「仕掛け」が面白い。
発想一本勝負ですね。
1本目はサイレント映画の手法でほぼ1カメショー。2本目はフィルムノワールというか、モノローグのみで展開させるというモノ。
これ、言っちゃうとネタバレなんじゃないの?という作品ではありません。
本が面白い。
冨永監督のボキャブラリーが面白いんですね。


結構な短尺なのでサクッと観られます。
大げさな作品ばかりを観ていてちょっと飽きたらこんな作品でも如何でしょうか。

ちなみに、女優のシャーリー・テンプルはあまり関係ないようです。
「パビリオン山椒魚」のコメンタリーでローレン・バコールのトレンチコートの着こなしにやたらアツく語っていた冨永監督、往年の女優好きなんでしょうか。

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亀虫
2002
冨永昌敬


「パビリオン山椒魚」の冨永監督の「撮りたいときに撮る」という自主制作映像のオムニバスです。
ちゃんとテーマがそろっていつつ手法がオムニバスというきっちりとしたテクニックがないと出来ない方式。
面白いです。

シチュエーションコメディというか、即興映像コメディというか、そもそもコメディじゃない。
こういう手法があるのか、と驚きました。
ウディ・アレン監督作品がコメディかコメディじゃないかと言われればそういうジャンル分けが無意味なのと同じことです。
何がどう面白いのかの説明がしにくいのですが、バランスが凄く良い。
映像として完成されている訳ではないし、脚本が無茶苦茶面白い、と言うわけでもないので表現しづらいのですが、なんか面白い。
「パビリオン山椒魚」の伏線として本作を観ていると結構納得いくことがあります。
全編に漂うオシャレ感。(バカにした意味ではなく)
どんな人が撮ってんだろう・・・、とオムニバス形式の本作の何度も出てくるあっさりとしたエンドロールの中に小中学校の同級生の名前が。
下半期ビックリしたランキングでは間違いなく1位です。あまりにビックリした勢いでその方の実家に電話してしまいした。もちろんいませんでしたけど。


だらだらと回しているかのような映像の上にむやみに饒舌なナレーション。
かといって映像に締まりが無いわけではなく、フラフラしていることが意図されていて、それが本とマッチしている。
本があるのか謎ですが。



インターネットというかITのおかげで、観たいモノを観たいときに見られる環境ができつつありますね。
テレビなんかの職業として追われて創られた映像より、淡々と創っている(かのように見せる)作品が好まれるのでしょうか。
Youtubeのアクセスの大半が日本からだという事実は、ただ違法に流されたコンテンツを観ているだけでは無いと考えています。友人のフリーの映像作家の方は「最近、なんか分かんないけどぼーっと観ちゃうんだよねぇ」と。
Youtubeをツールとしたバイラルキャンペーンも一般化しすぎて既にバイラルの意味を無くしてしまっていますが、その次は何なんでしょう。
メシのタネと考えちゃうとつまらないので、なんか面白いことないですかね。

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サンキュー・スモーキング (特別編)
2005
ジェイソン・ライトマン


「タバコ研究機関のスポークスマンの日々を描いた社会派作品」とか言うふれこみになっていますが、本当は違うお話です。
ディベート合戦の面白さ、そこで巻き起こる詭弁やウンチクやヘリクツなんかを爽快に描いた作品と言った方が正しい様です。
その設定がただタバコを巡る騒動というだけです。
面白いです。

ちなみに、本作には1カットもタバコの煙が登場しません。誰にもタバコを吸わせないでタバコをテーマにした映画を撮ってしまうとは。ジェイソン・ライトマン監督。面白い演出をする方です。
喋りまくる主人公のスピード感に合わせた映像もテンポ良く、ぱんぱんと進み飽きません。


本作の中盤で主人公が語る言葉「相手の間違いを証明すればよい」という言葉。
これはただの詭弁じゃなく、本当に相手のことを考えての口論をしているときは相当効きます。
しかし、その前段に来る言葉を手法として知っている相手には効きません。ご注意を。
この方法、マニュアル化されてるんですよね。
で、浅はかな上っ面なヤツらがこのやり方をただの手法としてなぞってしまう。
こういうマニュアル化されている方法ってやっかいなんですよね。
言っている本人は結構本心だったりするんですが、方法としてビジネス書なんかに書かれると、それを喋る人間が口八丁の嘘つきみたいに思われてしまう。

たまに、使い方を思い切り間違えて笑わせてくれる方がいるんですが、そういう愛すべき方に本作はオススメです。

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さよならみどりちゃん
2004
古厩智之


南Q太著の同名マンガの映画化。
原作は何故かうちにあり読んでいますが「そんなに好きな話じゃなかったなぁ」ということであまり観るに至らなかった映画化。

と思っていた予想が見事的中の、なんだか寂しいだけの女の話になっていました。
原作だともうちょっとサバサバとした上っ面と内面のイイカゲンな葛藤があったりして読めたんですが、葛藤が外側に出てしまっている悲壮感漂う星野真里と、そんなに外見がカッコイイヤサオトコではない西島秀俊の共演で違った話になってしまっていました。
これが狙いなら分かるんですが、多分狙ってないはず。
映画は原作と切り離された作品という意志であればこういう解釈もアリかと思うのですが、割と忠実な台詞回しに因るとそうではないはず。
狙い違いじゃないの?
それとも私の誤解でしょうか。


このお話はマンガだから成立していたんだと思いますよ。
ハダカのシーンが結構多様されていますが、ここをリアルに描くとグロイ。でも、そこを描かないと成立しない。難しいもんです。
ストロベリーショートケイクスはどうなんでしょう。

一昔前のCutie系マンガ(岡崎京子、魚喃キリコ 、安野モヨコ、よしもとよしとも、とか?)ってこういうテイストじゃないよなぁ。
結構好きで読んでいましたけど。
もっと刹那で、いつ死んだって良いよ、って名感じでいつつ、とある出来事(たいがい恋)で自分を超見つめ直すものの、結論は「スキなんだからしょうがないじゃない」で突っ走るモノの、最後は「アタシはヒトリだっていい」にオチるパターンだった気がします。
90年代カルチャー。懐かしい。
絵が簡素で、背景なんかの書き込みも少なくて、その余白に読者が勝手に自分の風景を思い浮かべることができることができました。
一括りにするとその筋の方からブン殴られそうですが。


ところで、ツタヤのマンガコーナーの裏側でやけにフィーチャーされている浅野いにおという方のマンガを読んでみたんですが、コレは凄い面白いですね。
しばらく新しいマンガを読んでいなかったんですが、コレは新しい。

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鍵がない
2005
山田英治



鍵をなくしてから見つけるまでの一夜の物語を描いた本作。
邦画っぽい邦画です。

映像をを文芸の様な手法で結末させようとしたような本作です。
今までこつこつと積み上げてきた文脈を、一気に解決させるために無理矢理な空想を入れ込んで方向転換を図っているということで。これが悪いというわけではありません。
ホラー映画の手法もちょっと入っているかもしれません。
83分という短尺の中にいろいろな手法が入っています。
監督がCM監督ということもあるんでしょう。


いろんなことをやりすぎて何をしたかったのか伝わらない。
これはCM監督として致命傷ではないでしょうか。

トーンとしては地味めで淡々とした嫌いではないトーンなんですが、なんかそれが嘘っぽい。
主演のつぐみのせいでしょうか。彼女のカワイイ女の子的芝居が鼻につく。袖口で手のひらを隠す様にシャツを着る女がどうも好きではないと言うだけかもしれません。
大森南朋はハマってます。こういう感じ、という感じ。

映画として決して嫌いではないはずなんですが、そこにスジが通っていない軽い感じがします。
同じくCMを手がける監督で石川寛監督の「トニー滝谷」、市川準監督の「好きだ、」と同じトーンを感じて観てみたんですが、どうも本作は別物と感じました。
何故かイライラさせられる映画でした。
そういう気分だっただけかもしれません。

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河童のクゥと夏休み
2007
原恵一


「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲」で一気にファンになった原恵一監督作品です。

本作、正直言って相当良いですよ。
「E.T.」を日本流にモディファイした作品とでも言いましょうか。
しかし、パクリではありません。

クレヨンしんちゃんもそうでしたが、本が素晴らしい。
本線は言うまでもなく、本線と関係ないところでもグッと来させる。むしろ、本作ではサブキャラにもちゃんと血が通っていて、飽きさせるどころか、モクモクと登場人物の気持ちが伝わってきます。
主人公の一人舞台ではなく、舞台全てがちゃんと世界を作っています。
河童と少年が主人公ではありますが、実は小学生を中心とした家族のお話。割とスモールサークルで展開します。

児童文学が原作ですが、現代向けアニメにリファインされていて少々のえぐみもあり、ただの勧善懲悪のお話ではありません。
道徳の授業のような堅苦しい表現はなく、生活の中で起こりうる悪意もきっちり表現されています。
しかし、本作の最も優れているのは悪を悪として断罪することはせず、それ以上の「誰かを想う気持ち」で作品を包み込んでいるところでしょう。
グイグイ来ます。

やや子ども向けに制作されている故に本質的なことをきっちり表現しています。
善意とか、わがままとかを一方通行で是か非かを決定するのではなく、受け手に一旦ゆだねた上で跳ね返ってきた答えだと思います。
本作のキャッチコピーは下記の2つです。
「なあ、こういち。オメエにあえてよかった。」
「人間の友達ができちまった」
これは河童のクゥの言葉ですが、クゥから一方的に出た言葉でもないし、一瞬の想いでもない。
クゥがあの後(※本作をご覧下さい)に継続して思い続け、何度も反芻した言葉ではないでしょうか。



特殊なCGI表現を殆ど行わず、アニメーションも「本当にこのキャラで大丈夫なのか?」と思わせる程の一般的なアニメキャラ。どこかのレクチャーアニメに出てきそうなテイストです。
作品があるべき姿である「本で楽しませる」ということができています。お手本の様な作品。

「アイアン・ジャイアント」と近いテイストです。
また、ジブリ作品(ゲド除く)とは違う表現ですが、ベクトルとしては近い。
多くを語って初見の方の衝撃を薄めたくないのでこのあたりに。


上映以来あまり聞こえては来ない作品ですが、埋もれてしまうにはもったいない。私もギリギリで観たんですが。
胎教にどうぞ。

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マリー・アントワネット
2006
Sofia Coppola (ソフィア・コッポラ)


マリー・アントワネットを一人の少女として描いているのはご存じの通り。
知らない国にたった一人で嫁がされ、しかもダンナは不能ときて、周りの期待に添えないストレスから遊びまくる。
恋愛沙汰が少ないですが、「ロスト・イン・トランスレーション」でのスカーレット・ヨハンソンの持つ孤独と似たものを描いています。
スケールは違えど、ほぼ同じお話ですね。
どちらの作品も、少女をものすごく無垢で純真なものとして描いています。
キルスティン・ダンストの表情が抜群にその無垢さにハマッています。

時代考証を無視して、現在の女の子にが十分に感情移入できる台詞や可愛らしさを全編で押しまくってきます。
ファーストシーンのキルスティン・ダンストが「おっ!」と思わせる中世と現代のミックスでこれは可愛らしい。
しかし、キレというか、映画の目的が完全に女の子趣味に走っており、これはちょっと不味いんじゃないのか?
カワイイお菓子や衣装をそんなに見せっぱなしにしなくても。
中盤のBow Wow Wowの"I want candy"が流れるmusic video風のお菓子と衣装が並ぶ映像、これがやりたかっただけなのでは。
これだったら、トレーラーで全て完結しちゃってます。

ソフィア・コッポラの以前の2作品はどういう文句を付けられようが擁護しますが、本作はどうかと。
ヴェルサイユ宮殿での3ヶ月に渡るロケの成果に首をかしげます。


映画ではなく「女の子の好きなモノ」カタログを見ているような感覚です。
本作は「少女性」とか「女性的」とかの比喩的な意味での映画ではなく、見た目だけの女の子趣味に陥ってしまった。これはイカンですよ。
女の子モノだったら、まだ「アメリ」の毒を含んだアウトプットの方が好きです。

設定だけがマリー・アントワネットであって、違うお話なのでは。
多分、フランスの人が観たら怒るだろうなぁ。
同じお話だったら「ロスト・イン・トランスレーション」で既に殿堂入りしているので、新しい方法を見せて欲しかった。

キルスティン・ダンストがカワイイ。
以上です。

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アモーレ・ペロス(Amores Perros)
2000
Alejandro Gonzalez Inarritu (アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)


コレは凄い。
名作です。

イニャリトゥ監督、本当に人間を描くことに長けた方です。
今までに見た「21グラム」「バベル」も圧倒的に人間の持つ原罪だとか苦悩を描きまくっていたんですが、本作が長編処女作というのが信じられません。
最新作の「バベル」の後に本作があった方がまだ納得できる。

3作品に共通した描き方として、複数の主人公の時間と想いが交錯するという描き方をしています。意匠としての崩したオムニバス形式ですね。
「アモーレ・ペロス」と「21グラム」では時間軸は交錯するモノの、割と正直なオムニバス形式だった気がします。
「バベル」では各主人公が時間も距離も隔てた世界の中で、交錯するのは「真実」という描き方の作品のため、映像として重なる部分が少なく、観客が混乱したのは間違いありません。違う主人公を立てた3本の映画をぐちゃまぜにした作品と捉えられたかもしれません。私も相当混乱しました。


本作は時間軸の交錯とかが分かりやすくカット割りも荒削りではありますが、登場人物の行動や心情の余白が十分にあって「21グラム」ほどの苦悩まみれを観客に押しつけず、「バベル」ほど脚本家の宗教観とかの精神的な部分に偏っていません。
イニャリトゥ監督3作品共にギレルモ・アリアガという方が脚本を書いています。

本作が観客に対して理解が最も深い作品ではないでしょうか。観客としても最も感情移入がしやすい作品だと思います。
3作品共に下世話なキャラクターが登場しますが「21グラム」「バベル」はその下世話なキャラクターでさえ、思念が崇高になりすぎて取っつきにくい感があります。
作家と呼ばれる方々が一般に下世話と呼ばれる事象にも深い意味を見いだすのは分かりますが、本当に下世話な人間にはそんな想いはありません。
生活が上品とか下品とか言うことではなく、生きることになにかしらの哲学を全ての人が持っているというのは人間を美化しすぎているだけだと思います。
本作では上品な人間も下品な人間も同じように短絡的な行動を起こし、結果が出てから後悔するという描き方。
映画の持つ哲学は、それを前面に出すと鬱陶しいだけで、主人公と自分とを重ねて導き出されるものだと思っています。
だから、作品でそれを語っちゃダメ。
キューブリック監督が「2001年宇宙の旅」で、あえて説明的なモノローグを省いて勝手な想像を促したのはそういう理由ではないでしょうか。(※「2001年宇宙の旅」のシナリオには冒頭の類人猿が骨を投げ上げて人工衛星へとジャンプするカットやモノリスの発見シーン等にに説明的なモノローグが入っていたそうです。)
本作は国とか言葉とか関係なく、私たちが持つ経験にグサグサと突き刺さる作品です。

もしかしたらイニャリトゥ監督とアリアガ氏のコンビはあまり潤沢な資金ではなく、制約があった方が凝縮された作品を撮れるのかもしれません。
次回作は是非500万ドル以内でお願いします。


「『バベル』って重そうでめんどくさそう」と思う方は是非本作をどうぞ。

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ラジオデイズ
1987
Woody Allen ウディ・アレン


アレン監督の幼少期の想い出をそのまま映画にしたような本作。
かといって、回顧主義な作品ではなく、その時代にそこにいない私にも「なんか良いなぁ」と思わせる。
取り立てて大事件が起こるわけでもなく、細々と登場人物のエピソードを主人公である少年の目線で追いかけるだけの作品なんですが、ほのぼのしつつ所々にアレン節が効いています。

お話は1944年の大晦日で終わるのですが、その時代は第二次世界大戦の真っ直中です。
その戦争への批判の言葉も所々出入り、ラストの各所でのカウントダウンパーティでの登場人物たちの台詞が全て、無くなっていく何かを惜しむかのような台詞。
人間の儚さと、今(1944年)の華やかなブロードウェイを惜しむかの様な言葉。
これはラジオを愛するアレン監督の来るべきTVへの移り変わりの哀愁を示したモノなんでしょうか。

話は変わりますが、日本国内での広告費の総額でインターネット広告がラジオ広告を上回ったのが2004年。(インターネットラジオ広告はどちらに分類されるのでしょうか?)
米国でも本年度末にはインターネット広告広告がラジオ広告を上回るだろうと予測されています。
広告費で成り立っているのはTV番組も同じです。
テレビCMも制作費の天井が見えてしまっている現在、近い将来にTVすら上回ってしまうのでしょうか。
そしてTVで育った世代がブラウン管を懐かしむ時代が来るのかもしれません。
そしてこの「ラジオデイズ」の様な作品がまた作られるのかもしれません。なんか、それは観たくない感じがしますけど。


正に心躍る少年を描いたというのはこういう作品のことではないでしょうか。
好きな映画です。
全然関係ないですが鈴木清剛著の「ラジオデイズ」を何故かちょっと読みたくなってきました。

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ゲド戦記
2006
宮崎吾朗


なんだコリャ。
本当にスタジオジブリ作品なのでしょうか。

ボロクソに言います。

作品のメッセージを全て頭から台詞でかましまくります。
鬱陶しいったらありゃしない。
ジブリ作品を真似した素人作品という印象です。
飛行シーンは「天空の城ラピュタ」のフラップターの視点だし、街が見えるシーンでは「魔女の宅急便」だし、魔法使いのドロドロは「もののけ姫」のダイダラボッチだし、ラストシーンはまた「天空の城ラピュタ」のゴンドアの谷のシークエンスだし、冒頭で野犬に囲まれた時のアレンの“おまえたちが僕の死か・・・”は「風の谷のナウシカ」漫画版4巻でクシャナ殿下がウシアブに殺されるかもしれない瞬間に出た言葉。
ついでに言えば、主人公のアレンの「どうでも良いよ」気質は「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジ君のキャラ。
その各々の作品は素晴らしい。
けど、パクんなよ。寄せ集めのつぎはぎ映画作んなよ。



宮崎駿監督の長男と言うことでプレッシャーはものすごいものでしょうが、多分、この人アニメの監督には向いていません。
というか、映像作品に向いていない。
ものすごく贔屓目に言って、一枚絵とかの時間軸を持たないモノの方が向いているんじゃないでしょうか。
大学での専攻も工学系だったそうですし。

ストーリーでメッセージを語ると言うことがまるで出来ていない。
壮大な世界観に基づいたお話であるはずが、ちっちゃい箱庭でのお話になっています。
本作に比べれば「ロード・オブ・ザ・リング」の方がまだマシです。

多分、宮崎吾郎監督の持つ世界観がスタジオジブリのトーンとはかけ離れているのではないでしょうか。
今まで培ってきたトーンを全く生かせていません。
キャラクターの表情が全てダークな面を臭わせる。子どもが泣きますよ。
加えて、動きの気持ちよさに頼ってみたモノの、動きに血が通っていない。
宮崎駿監督がこだわりまくって作り上げたジブリトーンをぶっ壊してくれています。

ジブリ名物のラストシーンでの職人芸とも言えるカタルシスも全くなし。
ストーリーが鑑賞者を放っておいて勝手に進んでいく。
観ている側はそれほど監督の思い通りに感情を動かせません。
誰が誰にどういう感情を持っているかを全く映像で感じさせない。感じさせることが出来ないから台詞で語っちゃう。
作り手の想いだけが先行して「それは分かるだろう」と勝手に補完してしまう。
宮崎駿監督が本作の試写で劇終を待たずに席を立ち、その後「想いだけで映画を作っちゃいけない」といった言葉の意味が少し分かった気がします。

毎度おなじみの糸井重里氏のコピーも「見えぬものこそ。」というもの。
“映像で表現できてないから、想像お願いします”という意味でしょうか。


本作の功績として一つだけ挙げられるとすれば、ジブリ作品は鈴木敏夫あたりのプロデュースワークではなく、完全に宮崎駿監督のものであると言うことを知らしめたことでしょう。
そして、宮崎駿監督を「崖の上のポニョ」で再び現場に出るきっかけを与えてくれました。
ありがとう。
けれど、二度と映画を撮らないでください。

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