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ダイブ!!(DIVE!!)
2008
熊澤尚人


こんなもん映画ですらねぇよ。
熊澤監督、本当にコレやりたかったんですか?

「据え膳食わねば男の恥」とは言うものの、「武士は食わねど高楊枝」なのでは。
「義を見てせざるは勇なきなり」ですよ。
義なきとろこに勇する必要なし。

熊澤監督、帰ってきてください。


本作で良かった点は、下手なメッセージを全くなくして可愛い男の子を見せるだけに絞ったことでしょうか。

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ラフ
2006
大谷健太郎


水泳+ラブコメ漫画を原作としたものの、水泳+ラブコメ映画じゃありませんでした。
まぁ、分かってはいたんですが。
せめて泳ぐシーンは吹き替えでどうにかしましょうよ。

つうか、それ以前にどうでも良すぎる。
あだち充はこれで満足なんでしょうか?
この漫画好きなんだけどなぁ。

本作を見て思ったのが『もう少し美術にクリエイティブを求めて良いのでは』ということ。
日本映画のどうしようもなさは監督の美術・装飾・衣装への無頓着さなのか、プロデューサ判断の浅さが招いている気がします。
美術というのは登場人物のキャラクターを司るものなのです。
大きなところは建物の佇まいからだし、細かいことを言えば持ち道具まで。
登場人物が履いているのがスニーカーだったとして、それがナイキなのかニューバランスなのかランバードなのか、常に新品なのか使い込まれているが清潔なのか一度も洗われたことがない様な汚れなのか、明らかにサイズが大きめなのをひもを縛って履いているのか、ベーシックなモデルだけどあまり見かけないカラーリングを履いているのかでそれを着用する人間の性格は全く違います。
ストーリーには関係ないかもしれませんが、無意識で目に入ったその部分は観客の意識に訴えます。
日常で人と会ったときに気になるポイントは映画になっても同じなのです。
そこに疑問符が入ると気になってストーリーに入っていけません。
やりたいことができない部署が不憫でなりません。
映画のクオリティは脚本・演出も当然ですが現場にいる全ての人間の結果なのです。
どこかの部が蔑まれればそれは如実に画に出ます。
ベースアップ!ベースアップ!


っつうかさ、プログラムピクチャーはつまらなくて良いんでしょうか。
こちとら、いちいち金払って観てんだ。わかってんのか。

まさみ云々に触れておけば、最近彼女が下品な安い女に見えて仕方がありません。
ちょっと前のカルピスのCMもなんだかなぁ・・・。

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青春の殺人者
1976
長谷川和彦


「相棒」がどうしたこうしたとか言う気はさらさら無く、観ることも多分無いと思うのですが、本作の水谷豊は本当に凄い。
全く意味の分からない、狂気と呼んで良いのかも分からないキチガイっぷり。
「お前は一体何に対して憤っているのか?」そして「何故そういうことになるんだ?」ということに対する説明が一切ありません。多少有るのかもしれませんが、何も核心を突きません。
「タクシードライバー」に何も感じない方は絶対に観るべきではありません。
恐るべき日米のシンクロ。ちなみに、両作品共に1976年公開です。そして私は1976年生まれです。

この感覚に少しでも共感してしまう大人はろくな大人じゃないんだろうなぁ。

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ペイ・フォワード(PAY IT FORWARD)
2000
ミミ・レダー (Mimi Leder)


なんだか、もの凄く違和感がある作品。
天才子役のハーレイ君が大活躍する人情溢れる映画なんですが、なんか違う気がする。

彼は、クソみたいなハーレム暮らしが嫌で嫌でしょうがない。
で、この世界をどうすればいいか?と考えで出た答えが「僕が誰かに助けられたら、その人に恩を返すんじゃなくて、他の3人に良いことをする」というもの。
で、彼はそれを子供ならではの無計画さで実行し、それがいつの間にか大きなムーブメントを作っていたという映画です。
今更説明するまでもありませんか。

本作を今更観るきっかけになったのが、ある企業のイメージアップ映像企画(CSRっぽい)を考えていたときに「これ、近いんじゃない?」と上司に貸していただいた本です。
聖路加国際病院の理事長である日野原重明さんの【今日の「いのち」のつかい方―ペイフォワードな生活のすすめ】という著書。
日野原氏が「「ペイフォワード」を観た時に『僕が考えていたのはこういうことだったんだ』ということが書かれています。『命は与えられたモノであって、それをどう使うか開眼した』ということがつらつらと。下手すると自己啓発なんですが。

与えられたお題が「命の大切さ」をテーマにしたドラマだったんですが、その本を読んだことで随分とベクトルが変わりました。
日野原さんの『どう使うか」というテーマの出発点からしてノホホンと暮らしている我々にはなかなか到達できない視点です。まして「オレはビッグになってやる」なんて思っている輩には月よりも遠い。
この考え方は自分が何かを人に発信する立場になってしまったときにものすごく大切なことではないでしょうか。
「オレのことを聞いてくれ」ではなく「オレはあなたの為にこういうことを考えている」という発想。

映画の話に戻ります。
本作のラストは、観た方であればおわかりかと思いますが、ハーレイ君が起こした奇跡に大勢が賛同するというラストです。
その描き方がどうもねぇ。
結局、みんなでもう少しで「結果」が出せたであろう彼を悔やむという姿勢が気に入らない。
映画としての「感動のラスト」を作りたいのは感じますが、テーマを伝えるために果たしてこの描き方で良いのか。
ハーレイ君がヒーローに祭り上げられて終わり。
そうじゃないだろ。
この描き方だと「だれかに何かしよう」というモチベーションにならない。
「良いことをした人はやっぱり凄い」というだけ。結局、客寄せのための仕掛けになってしまった。
敢えて、周りの人間を凡人にしまくったというのはわからんでも無いのですが、彼等は最後まで凡人で良かったのか。
凡人は何も出来ない傍観者としてしまって良いのか。
浮きかけた腰をもう一度下ろしてしまうようなラストです。

全員がヒーローになる映画は無いのでしょうか。
ヒーローに憧れるのと同様に、その映画の住人になりたいと思う映画にすべきでは。
とはいえ、着眼は凄く良いし「そういうことだなぁ」と思うことが節々にあることは間違いなし。
啓蒙までには至っていない。残念。


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ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(THERE WILL BE BLOOD)
2007
ポール・トーマス・アンダーソン(Paul Thomas Anderson)


傑作。
凄まじい158分の密度。
映画館に行かなかったのが悔やまれます。行けば良かった。何故行かなかったのか。

映画を見続けるということは、こういう作品に出会う為の旅と言ってもやぶさかではありません。
素晴らしかった。


結局何を描いていたのかというのがラストに暴かれるタイプの映画ではなく、全編を通して全てがタイトルに直結する映画です。
まぁ、英語はからきしなんですが、なんとなくそういう気になってます。

深読みするまでもなく『石油』と『血』が人が招くしがらみの比喩として描かれ、そのしがらみによって人は頑なになり関係は狂っていく。
潤滑油という言葉にあるくらい滑りをよくするはずの『油』を敢えてくさびとし、人と人の繋がりの最も根源的な『血』も『めんどうな』こととモチーフにしたポール・トーマス・アンダーソン監督の選球眼には舌を巻きます。
これは日本語的な言語感覚とは言い切れないでしょう。全世界的に油は滑るものだし、血(家族)は社会の最小構成単位です。

結局、どこにもここにも血も油もある、と。
「There wil be blood」を超日本語的な意訳すれば『僕等はみんな生きている』ということでは。
『手のひらを太陽に~』のアレです。あの歌ってポジティブなことだけを唄っているわけでは無いと思うのです。歌詞のラストにある『友達なんだ』の後を想像させる教育を。そこで終わらない教育を。
人は皆生きている、そして悲しいこともある。じゃぁ、貴様はどうあるべきか、と。
友達だったらその形式だけで全てが赦されると思うなよ、と。
その友達という関係は契約ではないのだ、と。

話しがずれました。
生きているからそこに油もあるし血もある。その意味は一つではなく、けれども、血もあり油もあることで生きていると言うことを証明できるのでは。
一つの説教クサイテーマを描くのではなく、根本的な原罪(?)を抱えた人間の生き様を顕すポール・トーマス・アンダーソン監督。
思えば、今までの作品でもそうだったのかもしれません。
今までは、ある一つのモチーフを借りていました。そこで描かれているのはチンコがデカイだけのポルノ男優だったり、モテない弟だったり、ギャンブル好きだったり、モテるための伝道師だったり、もうなんだか分からないくらいに壊れた人々だったり。
突飛なモチーフからドラマを生み出してそこに人生を描く、というものでしたが、本作はどうも違う気がします。
ゴールドラッシュから石油長者という浮世離れしたお話ですが、それがなんとなく万人にも当てはまってしまうような感覚。
既にモチーフが何であろうと構わないという風格すら漂います。
下手したら「スター・ウォーズ」に出てくるエンドアに住むイウォークが主人公でも構わないのでは、と思わせる手腕。

ここまで判りやすく咀嚼してテーマを描ける監督が他にいるのでしょうか。
だいたい、テーマとモチーフが直結していて、ネタバレしまくる人が殆どです。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の場合は途中で判った気になっても、さらに、次々と覆い被せてくる。映画が終わるまで飽きさせない。終わってからも考えざるを得ない。

前作までは判りやすいカタルシスを提示して終わっていました。
本作は全然無し。むしろ判りにくすぎ。カタルシスはどこにもない。けれど、これが良いんです。好き。
ここで物語が終わることに納得いかない人は観る姿勢が調ってないだけ。文芸を読んで解決しないから怒るのと同じです。
モンモンとすることの楽しさ。
本来、こういう気持ちのために映画とか文学とか音楽とか絵画とかは存在するのでは。


希に見る傑作です。
是非とも。

ここまで言っておいてナンですが、過剰な期待は禁物です。
決して全ての人の指針になる気持ちの良い作品ではありません。
しかし、ある種の人にとってはもの凄く指針となりうる傑作です。


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アメリカの夜 (DAY FOR NIGHT)
1961
フランソワ・トリュフォー(Francois Truffaut)


映画が好きでしょうがない人のために舞台裏を少し見せてあげましょうの映画。
メイキング仕立ての劇映画で、結局は劇映画。
舞台裏で起こることというのは実は映画より面白かったりするし、ドラマチックだというのは本当です。
本作のタイトルはナイトシーンを日中に撮影する時にキャメラのレンズにフィルターを入れて撮影する「Day for Night」という手法がそのままタイトルになっています。

【「きょうのできごと」というできごと】という「きょうのできごと」のメイキングがあるのですが、そのなかで行定監督自身も宣っております。
このメイキングはかなりの名作なので、本編が好きな方はもちろん、そうでもない方も是非ご覧ください。

自主製作映画に関わったことがある方ならばその舞台裏のドロドロは二度と体験したくないと思うこともあるでしょう。
ちなみに私は学生時代の自主製作映画でそのドロドロの主犯者だったことがありますが、それはそれで誠に申し訳ありませんでした。

どんな駄作の影にもドラマ有り。
今後、クソみたいなプログラムピクチャーと決まっている作品のメイキングに優秀な演出を据えると良いのでは。

ところで、本作も楽しい作品。
このドタバタも含め、映画が好きなトリュフォー監督なのか。自叙伝なのか。

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ハードエイト(HARD EIGHT)
1996
ポール・トーマス・アンダーソン(Paul Thomas Anderson)


ポール・トーマス・アンダーソン監督のフィルモグラフィーからすると長編映画の最初となる作品。
後の作品にも通じる、皮肉丸出しだけれども人生を愛していることがバンバン伝わる作品です。

本作はややサスペンス風味。
ラスベガスのカジノ攻略法を伝授する老人との出会いが物語の発端。やはり、本作でも冒頭から引き込みまくる仕掛け。とはいえ、そこで動く人間達にちゃんと血が通い、肉があります。舞台装置で引き込んで、その後は結局人間の話。
ちなみに本作のタイトルでもある「Hard Eight」とは「サイコロを2つ振って4のぞろ目になること」だそうです。多分、難しいことの比喩でしょう。
ところで「一か八か」の「一」と「八」はそれぞれ「丁」と「半」の上の部分をとったものという説もあるそうです。人生にゲームを比喩するのは国は違えど、ですね。

突拍子もない行動を取ることもあれば、周到に計算されたことすらできないという人間達。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品ではそんな人間達が動き回る。
一瞬先は闇かもしれないけれども、急に光が差すこともある。
映画的ではないかもしれないけれども、じっくりゆっくり観てその後もしばらく鑑賞後感に浸れる。

ところで、ポール・トーマス・アンダーソン監督とウェス・アンダーソン監督というファミリーネームが一緒の二人の監督がやたら好きなんですが、アンダーソン一族に何かがあるのか。一瞬で心奪われることはまず無いのですが、全編を通した時に感じる目線の気持ちよさとか同化できる感覚とかとても他人事とは思えません。
人種やら国家を超えて響く両アンダーソン監督の作品。
方法は違えど、人生に対して感情を以て描く両監督の作品が好きです。

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鬼が来た!
2002
チアン・ウェン(Jiang Wen)


第二次世界大戦中の中国のある小さな村での出来事。
ある日「私」と名乗る男が2つの麻袋を預かれと一方的に置いていった。その中には二人の男が。一人は日本兵、一人は中国人。
そうして何故か日本兵を匿うことになってしまった村の住人と日本兵の関係を描いた作品です。
カンヌ国際映画祭グランプリ。

面白いです。これは凄い。
なんと言っても香川照之の名演。あまりにも役に入り込んでしまって、本当にこの人はこういう人なんじゃないか?と思ってしまうほど。
捕らわれの身を恥じ「殺してくれと」頼み、中国人を罵る状態と、その後の生きようとする状態の繋がり方がハンパじゃありません。

もしかしたら本当にこういうことが当時起こっていたかもしれない戦時の中国。
やっぱり戦っていたのは国であって、人は戦わされていたんだなぁ、と当時であったら真っ先に銃殺されそうなことを思わざるを得ません。
アメリカの描く戦争モノとは全く違う切り口で戦時の人々を描く本作。日本でもこうは描けない。
侵略されてるのかどうかもイマイチわかっていないのどかな村の人々の動きも妙なリアリティがあります。
自分の誇りと、生きる意志と、生かす気持ちと。人間の本質を描いている作品です。

とはいえ、描かれているのは人間の不条理さ。
その瞬間の意志に理由はなく、状況や経緯ではないという不条理。偶然の「ゆらぎ」から発生した刹那。しかし、それは取り返しが付かないのが常。

これは傑作。
是非。

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アポカリプト(APOCALYPTO)
2006
メル・ギブソン(Mel Gibson)


どうでもいい古代SF作品に分類されがちですが、本作の最も優れているところは『誰も観たことのない世界を構築して見せた手腕』でしょう。
それこそSFの醍醐味。
なんとなくそれっぽい舞台と突拍子もない事件ではなく、あくまで人間くさい古代史。
思えば「ベン・ハー」しかり「アマデウス」しかり「ドーン・オブ・ザ・デッド」しかり「2001年宇宙の旅」しかり。
結局、DNAとはこういうことで、進化しようが根本は同じ。
それを念頭に置いてかどうかは知らずですが、そう感じました。

意外性の無さこそ意外という直球でマヤ文明を描いたメル・ギブソン監督。素晴らしい英断でした。
「インディ・ジョーンズ」とは違う解釈の古代への想い。
好きな作品です。

時代考証とか貧乏くさいこと言ってんじゃないよ。

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崖の上のポニョ
2008
宮崎駿


凄まじい剛速球を投げ込まれた感じ。
もう、良いとか悪いとかを超えてしまった。
どこへ行ってしまったんだ宮崎駿!
どこへ連れて行こうとしているんだ宮崎駿!

素晴らしいほどの無説明。つじつまなんてどうでも良いと言わんばかり。

結局のところ何が言いたかったのか分からず、暫くモンモンとしていたんですが、どうやらこれは何か一つのテーマを描きたくて映画という枠を借りたのではなく、自分が持っている手法(アニメーション)で表現できることを宮崎監督がやりきりたかった為に生まれた作品で、それがポニョだろうがウンコだろうが魚だろうが牛だろうが何でも良かったのではないか?というところに行き着きました。

何か一つを信じてそれをテーマとするのではなく、自分がそれまでやってきたことを生き様として作品にぶつける男。それが宮崎駿。器の大きさがただごとではありません。
今までの作品が全てテストだったと言われてもどうも納得してしまいそうです。

連れと一緒に鑑賞したのですが、連れの笑いのタイミングが劇場にいた子供たちと同じだったのが羨ましかった。
曇った眼鏡で構造ばかりを追うと本作は楽しめないのでしょう。
どうしてデボン紀?っつうかポニョって魚?とか頭に「?」が浮かんでいることが間違っている。
目の前で起こっていることは宮崎監督の頭の中で起こっている出来後で、これをして何かを得ようとするのではなく、観る側の懐というか可能性が試されているのでは。

驚きの連続でした。
恐ろしく挑戦的な映画だなぁ。
多分、大人には難解で、子供にはこれ以上ないほどの面白さなのでしょう。

後から思い返すと、どうしても「なんか怖かった」という感覚ばかりが蘇ってきます。
各方面で言われている様に本作では『この世とあの世の境界をまたぐ話しでは?』ということにだんだんと合点がいきます。

ちなみに、今までのジブリ作品では「向こうの世界」に一旦は足を突っ込むものの、絶対に帰ってきていたのです。
・「カリオストロの城」ではルパンはカリオストロ公国にとどまらない。クラリスもやがて出る気配。
・「風の谷のナウシカ」の映画版ではそこがあまり描かれていない。漫画版のラストでは先人に用意された楽園をナウシカが苦悩と共に生きることを宣言し拒否。
・「天空の城ラピュタ」では見つけるけどそこでは生きられないと宣言。
・「魔女の宅急便」では出発点が『あっち側」で、むしろ巣立ち自立。
・「となりのトトロ」もちゃんと帰ってくるし、子供にしか見えないと言い切っている。
・「もののけ姫」でも『そっち側』の象徴であるシシ神は死ぬ。
・「千と千尋の神隠し」も現実に帰ってくる。
・「ハウルの動く城」も元の年齢に戻ってくる。

これらをベースに考えると、「あっち側のポニョは人間になりたくて、こっち側人間になれました、やったー!」という今までと同じ系譜の作品かとも思いがちですが、その人間になるまでの過程で、ポニョは人間になるのではなく、人間の世界を自分の世界に引き込んだと考えられないでしょうか。
嵐を起こし、人間界を水没(全員殺し)させ、あの世とこの世の間にいる宗介を自分の世界に引き込み、フジモト(父)とグランマンマーレ(母)と共生できる世界を作ってしまった。
これは宮崎監督が考えるパラダイスからの逆算なのではないでしょうか。
今までの作品ではパラダイスを提示するものの、それに行ききることに躊躇し『けれど僕たちはやっぱりこの世で生きていく』という想いが感じられたのですが、本作はそこに向かうことに全くエクスキューズがありません。
「風の谷のナウシカ」(漫画版)でラストに自分が是とする世界(腐海)と共に生きることを独断で選択したナウシカとポニョはある意味同じなのかもしれません。
これは、宮崎監督が現実に辟易していると言うことでは決して無く、純粋に自分が考える「みんなが幸せ」な世界にしたいという想いから生まれたのが本作では。
その先の世界がどういうものなのかは触れられていませんが、そんな現実を全く省みない怖さが感じられました。
それを「怖い」と思うのが現世にしがみつく大人であり、本作はポニョが導くその世界が「楽しそう」と思う子ども達へ向けられた作品でしょう。


語弊や誤解まみれでしょうが、今のところ私はそう感じています。
宮崎監督の独善作品と言ってしまえばそれまでですが、ここまで自分の理想とする世界を描くことにストイックな姿勢は素晴らしいです。
作品としても本作は最高傑作ではないでしょうか。
映画とかアニメーションとかの枠を越えてしまっています。
『表現』とは、こういうことのなのでは。

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