素晴らしき哉、人生!
1946
Frank Capra (フランク・キャプラ)
米国ザ・クラシックス。
お気楽な映画と思いきや、深い作品です。
『決して豊かではないが正しい道を突き進む男ジョージ。
彼は家業である住宅ローンを父親の急逝により引き継ぐこととなる。商売敵の嫌がらせなんかの逆境に立ち向かいつつ人のためになる経営をモットーに営むジョージ。しかし、社員のミスにより莫大な損害を被ってしまう。全てに絶望したジョージはクリスマスの夜に冷たい川に飛び込み自殺をしようとしていた。そこに天使だと名乗る男が声をかける。「あなたが存在しなかった世界を見せてあげよう」そしてジョージは自分の存在しない荒んだ街を観ることになる・・・。』
というストーリーです。
映画のタッチはコメディ路線。そしてラストは一見大団円のハッピーエンドなんですが、どうもしっくり来ません。
米国では本作が毎年必ずクリスマスにテレビで放映されて「情けは人のためならず」という道徳の教科書のような扱いになっているとかいないとか。
この主人公ジョージが存在しなかった世界というのは天使が見せた幻想ではなく、パラレルワールドとして存在する世界なのです。
この天使が見せた世界というのがただの幻想であったならば道徳として通用するのですが、そうではない。
平和な街も荒んだ街も、一つの世界のあり方であるということなのです。
本作ではジョージがいた場合、いなかった場合を並べているのですが、これは世界のどこかで同時進行している世界であるという面もあります。
逆に、ジョージが存在している世界をジョージが存在していない世界の人間が見せられたらどう思うでしょうか。
自分がが存在していることが現実であって、それを否定された世界を誰が受け入れるでしょう。その善し悪しは傍観者には分かりません。
キャプラ監督は、この物語をパラレルワールドとして表現したのではないでしょうか。
公開当時は内容のダークさに万人受けせず、大コケで会社が潰れてしまったそうですが、現状ではハッピーエンドの典型として捉えられている。
現在は物語の上っ面しか理解されていないのではないでしょうか。
その画面上で起こっている出来事しか理解できないのでは。
最新のCGIや中途半端なお涙モノに慣らされて、現実にない世界を目の当たりにすることができる様になった代償に、想像力はどこかへ行ってしまった。
映画を観るということは画面を眺めるといのも一つであるし、それは決して否定しません。
が、かつてTokyo No.1 Soul Setでビッケが”More big Party"で唄った「その小説の中で集まろう」というフレーズ。これをそのまま引用すれば「あの映画の中で集まろう」。この引用が果たして正しいのかは分かりませんが、そういう感覚で観るということも楽しいのでは。
このハッピーエンドに見える時間、もう一つの世界では誰がどういう暮らしをしているのかという想像力が無くなってしまった。
そこを感じることができず、ハッピーエンドの一つのケースだけを真実と受け止めて喜んでいる人間はただの不感症だと思うのです。
もしくは、コマーシャルに洗脳されてしまった者と同じで、既に分かりやすい(ラクな)答えを用意されたものにしか反応できなくなってしまったということでは。
デヴィッド・クローネンバーグ監督に曰く『「素晴らしき哉、人生」をハートウォーミングなコメディだと考えている人は、一体何を観ているのやら』とのこと。
全くその通りだと思います。
| Trackback ( 0 )
|
|