この事件のつい一昨日、友人とメイドカフェとパーツ屋とエロショップを徘徊するためにまさに「あの場所」にいた。
ちなみに、隔週くらいで何かしら訪れている。
『歩行者天国の只中を一台のダンプカーが突進してきて数名の男女を跳ね飛ばす場面を目撃した。信じがたい情景を目にした博徳は、驚きのあまり足が竦み、息を呑んだ。眼前の景色全体が、映画のスクリーンにでも豹変してしまったかに思えた。(中略)運転手が逮捕されたのかどうかすら知り得ず、その場にいる誰もが、事の真相を掴みきれず、一様に唖然たる面持ちを曝していた。』
(阿部和重著
「シンセミア」より抜粋)
現実は小説を模倣するという言葉を持ち出すまでもなく、これまで幾度となく繰り返されてきた想像(フィクション)が現実になる惨事。
たまたま私がこの小説を読んでいて、酷似していることから引用した。
何が言いたいのかと言えば、この事件の日、そこにいる人間の何人かは既に(脳内で)経験しているであろうということ。
私のようなサブカルに明るくない人間ですらこの程度のことを知っているのだ。
あの場所の大多数の人間の頭の中には私以上の鬼畜な知識を有している人間が数多くいたことだろう。
彼等の頭の中にはそれまで空想でしか成し得なかった事実を目撃することが出来た高揚感があり、前提としては現実であると認識するまでのギャップによってその事件を「楽しんだ」のでは。
恐らく、私がその場所にいたとしても似たような行動をとっただろう。同じ人種だ。
もしくは、何も出来ずに立ちすくみ、しばらくしてから立ち去っただろう。後日、あの日のことを目の当たりにしたことを嬉々として喋るかもしれない。
彼等を一様に責められない。
なぜ、そういう思考になったのか、その原因を考えるべきだ。
咄嗟に現実として認識し、人命救助ないし事態の収束に向かった方々の思考回路こそ「正しい」のだろうが、その「正しさ」が正常に機能しないくらいに脳内の経験が豊富になってしまっている。予測不可能な事態に直面したときにこそ「人となり」が出てしまう気がする。
「その場にいたら何かしてあげたかった」と思うことは「事後ヒーロー」ではないか。
現場で、直感で「ヒーロー」たらんとした彼等を嘲笑する輩がいないことが救いだ。
同時に、傍観者であった彼等を責めることは誰にも出来ないと思う。
あと思うことは、今日「秋葉原事件」とか「秋葉原通り魔」とかの名前で報道されたことがマスコミの認識であって、明日以降のマスコミの報道には何の価値もないと思う。生い立ちやら知人の評価やら趣味趣向やらが捏造の元に発表されるだけだ。
事後判断ではなく、その瞬間の判断こそが人間だと思う。
何を考えての犯人の行動かは本人にしかわからない。
今回も原因はあとから勝手に作られるんだろうな。
人が考えた原因を鵜呑みにしない方が良い。