備前の古社を訪ねる(備前国内神名帳の研究)

備前の由緒ある神社を巡礼する

コラム173.最上稲荷(龍泉寺・その2)

2009-05-16 19:23:28 | Weblog
「最上稲荷」の3つの寺に参拝しても、専ら興味のあるのは磐座ばかりで、真面目な寺や信者の方々からは奇異の目で見られていただろうと思う。
「龍泉寺」本堂の横を通り過ぎて、北の小高いところに小道を登っていくと(もう雑草が伸びてきていて歩きにくい。)、「古代祭祀跡」がある。さして大きな岩ではないが、平たい岩が並べられていて、確かにそれらしく思われる。「最上稲荷」(特に「妙教寺」)では商業化、観光地化が進んでいるようで(「商売繁盛の神様」だから仕方ないだろう。)、やや辟易するところもあるが、こういう光景をみると何かホッとするのはどういうものか(歳のせい?)。
さて、「龍泉寺」の売りの1つは、広大な「龍王池」(写真中)。池に面した鳥居を写していたのだが、その手前の水面に細波が立っていた。良く見ると、蛇が泳いでいたのである(写真下)。この蛇は、ひょっとすると龍が化けたものだったかもしれない。


写真上:龍泉寺の「古代祭祀跡」


写真中:龍王池


写真下:龍王池を泳ぐ蛇

コラム172.最上稲荷(龍泉寺・その1)

2009-05-15 22:14:29 | Weblog
日蓮宗最上教総本山龍泉寺(にちれんしゅうさいじょうきょうそうほんざん りゅうせんじ)。
場所:岡山市北区下足守900。県道61号線(妹尾御津線)から足守方面への分岐を進むと「最上稲荷奥之院一乗寺」入口があり、更に少し先に進むと当寺への入口がある。入口はやや狭いが、奥に広い駐車場がある。
「最上稲荷」はもともと穀物の神、農業生産の神。農業にとって、水は何より大事なものだっただろう。「竜王山」という名の山は、雨乞い祭祀のあった山に多い。ここにも「八大竜王」が勧請されている。当然ながら「一乗寺」や「妙教寺」でも尊重されているが、特に当寺ではそのことが強調されているようだ。
まず目を引くのは「ゆるぎ岩」(写真上)で、古社「大石箱畳神社」の岩のように、四角い岩が積み重なっている(「大石箱畳神社」については2008年6月14日、2009年3月4日記事参照)。注連縄が掛けられているから、これが磐座だろうが、そのすぐそばにある岩(写真中)も、瓦製の小さな祠が多数置かれており、その下に滝行場(写真下)があることから、磐座かもしれない。


岡山県商工会連合会のHPから(龍泉寺):http://www.shokokai.or.jp/33/3320150022/


写真上:龍泉寺の「ゆるぎ岩」


写真中:ゆるぎ岩のそばにある岩


写真下:龍泉寺の「御滝」

コラム171.最上稲荷(妙教寺・その2)

2009-05-14 23:16:11 | Weblog
なぜ、稲荷=狐となったか。要点を簡単に書けば、次のとおり。神道の稲荷神は「宇迦之御魂神(倉稲魂尊)」で、穀物・食物の神。別名を「御饌津神(ミケツカミ)」といい、これが狐の古名「ケツ」と混同されて、狐は稲荷神の眷属・神使とされるようになった。一方、インドの魔神「ダキニ」は仏教に取り入れられて護法神「荼枳尼天」となった。ダキニはもともとジャッカルに跨るとされていたが、中国や日本にはジャッカルがいないので、「荼枳尼天」は狐に跨るとされた。日本で密教が隆盛するにつれ、ダキニ由来の魔力が重用され、神仏習合の中で稲荷神の本地仏とされて、荼枳尼天の性格を帯びた稲荷神が各地に勧請されることになった。
ところで、「最上稲荷」は「宇迦之御魂神」でも「荼枳尼天」でもなく、「最上位経王大菩薩」が本尊である。寺伝によれば、天平勝宝4年(752年)、報恩大師が八畳岩(写真中)で白狐に乗った「最上位経王大菩薩」を感得し、孝謙天皇の病気が快癒したので、「龍王山神宮寺」が創建されたという。ここでも、「狐に乗っている」仏ということで、稲荷神と習合したようだ。妙法蓮華経(法華経)は、日蓮宗だけの専売特許ではなく、真言宗や天台宗でも重要視している経典である。「備前48ヵ寺」創建伝説で有名な報恩大師は観音呪を得意としたようなので、法華経のうちの所謂「観音経」を重用したのかもしれないが、それでも法華経を「最上位」とするのは日蓮宗的な発想だろう。したがって、報恩大師開基、というのは(「備前48ヵ寺」と同様、)伝説に過ぎないだろうが、「八畳岩」のような磐座があることは、古代からの神聖な場所であったことを示すものだろう。加えて、神道の稲荷神は、秦氏の氏神でもある。「最上位経王大菩薩」が白狐に乗って現れた、ということは、秦氏の信仰が素地にあったということが十分に想定される。

伏見稲荷大社のHP:http://inari.jp/
沿革などが詳しく紹介され、稲荷神と秦氏との関係も良くわかる。

豊川稲荷のHP:http://toyokawainari.jp/


「妙教寺」の旧本殿(霊応殿)の脇から山道を登って行くのだが、参拝客も岩には余り興味がないようで、ほとんど人とすれ違わない。特に、八畳岩より先は、鳥居も壊れているものが多く、残念。


写真上:巨大な題目石


写真中:妙教寺の「八畳岩」


写真下:開祖報恩大師の供養塔。妙教寺の中では最も奥にある。背後の題目石の台石も、磐座と言われても納得できそう。


コラム170.最上稲荷(妙教寺・その1)

2009-05-13 20:15:11 | Weblog
最上稲荷教総本山妙教寺(さいじょういなりきょうそうほんざん みょうきょうじ)。→なお、独立した宗教法人であったが、平成21年7月に日蓮宗に復帰し、「最上稲荷山妙教寺」になったとのこと。。
場所:岡山県岡山市北区高松稲荷712。毎年、岡山県下最多の初詣客を集める観光スポットなので、特に案内は要らないだろう。
前項に記したように、最上稲荷のうち「妙教寺」と「龍泉寺」は備中国にあるので、採り上げないつもりだったのだが、行ってみると確かに面白いところだったので、少し書いてみたい。
最上稲荷は「三大稲荷」の1つだという。三大ナントカ、というのはよくあるが、誰が見てもこの3つ、というものは少ない。稲荷の場合、全国稲荷社の総本宮「伏見稲荷大社」(京都市)は外せないとして、2番目はいわゆる「豊川稲荷」こと「円福山妙厳寺」(愛知県豊川市)が普通で、3番目が一定しない。「豊川稲荷」は寺院(曹洞宗)で、神社ではないことから、「祐徳稲荷神社」・「笠間稲荷神社」など神社で3つ揃える手もあるし、岡山県人ならやはり「最上稲荷」を入れるように、3つ目に地元の有名な稲荷を入れる手もある。
さて、いわゆる「最上稲荷」こと「妙教寺」は、「豊川稲荷」と同様に神社ではなく、寺院。「豊川稲荷」こと「妙厳寺」は曹洞宗で、「妙教寺」は日蓮宗系の(寺院としての由緒は古いが)新興宗教。「妙厳寺」の本尊は千手観音で、稲荷というのは山門の鎮守神で、元はインドの神、ダキニ天。一方、「妙教寺」は本尊が最上位経王大菩薩で、神仏混淆のまま、この菩薩自身が稲荷神と考えられる。
なぜ稲荷神が寺院で祀られているのか、それは次項で。

ところで、「妙教寺」では、吉備路の「合掌の里」というキャッチフレーズを使っているが、参拝者はたいてい神道式の「拍手」を捧げている。


岡山最上稲荷総本山(妙教寺)のHP<音が鳴ります。>:http://www.inari.ne.jp/


写真上:妙教寺の本殿「霊光殿」。神仏分離の考え方ならば、本来は鎮守社のはずだが、「最上稲荷」の中心となっている。


写真中:根本大堂。普通の寺院では本堂とか金堂とか言われるところだろう。本来の妙教寺の中心はこちらだろうが、本殿より参拝者は少ない。


写真下:旧本殿(霊応殿)。仏堂の後ろに神殿がある造り。

コラム169.備前国の磐座拾遺(その8・最上稲荷奥之院)

2009-05-12 20:53:48 | Weblog
最上稲荷奥之院一乗寺(さいじょういなりおくのいん いちじょうじ)。
場所:岡山市北区長野495。いわゆる「最上稲荷(妙教寺)」(高松稲荷)から歩いて行く方法もあるが、備前国一宮「吉備津彦神社」参道口付近(「中川橋」交差点)から北西に向かう県道61号線(妹尾御津線)(途中、式内社「宗形神社」(岡山市)の横を通る。)を約7km進むと「最上稲荷奥之院」の案内板があり、「龍王山」山頂まで自動車でも行ける。数台分の駐車スペースあり。
「最上稲荷」は、最上稲荷教総本山「妙教寺」、最上教総本山「龍泉寺」、日蓮宗「一乗寺」という別組織の3つの寺院から成っている。このうち、最上稲荷奥之院を名乗る「一乗寺」は「龍王山」(286m)の山頂にある。山頂には題目石が林立しており(写真上・中)、どれが磐座かわからない状態。
備前国と備中国の境は、この「龍王山」を縦断しているが、山頂の少し南が国境線らしい(このため、「一乗寺」は備前国側、「妙教寺」(岡山市北区高松稲荷)と「龍泉寺」(同下足守)は備中国側となるようだ。)。「吉備の中山」を国境にしたように、「龍王山」も国境となっていることにも、それなりの意味があったのだろう。


深草縁夫(へりおす)さんの「日本すきま漫遊記」HPから(最上稲荷奥の院):http://www.sukima.com/14_sanyou01_03/13okunoin.htm


写真上:山頂の霊場入り口にある鳥居。ただし、扁額は「最上位経王大菩薩(法華経が最上の経典であることを神格化したもの)」や「八大竜王」など仏教の神仏名となっている。


写真中:題目石が林立しているが、台石のどれかが磐座?


写真下:中心から少し離れたところに「地主神」が祀られている。

コラム168.備前国の磐座拾遺(その7・畑石鉄神社)

2009-05-11 21:11:30 | Weblog
畑石鉄神社(はたいしづちじんじゃ)。
場所:岡山市北区畑鮎6。県道27号線(岡山吉井線)の「金山口」(金山寺方面への標識がある。)から北へ約1.5km。駐車場なし。
「神社」となっているが、真言宗石鉄派本山「前神寺」(愛媛県西条市)の修行場。入口にある岩(写真上)も立派だが、急な階段の先に道場・本殿があり、更にその上に鎖行場があって、そこに蔵王権現を祀る磐座があるらしい。本来は、そちらを紹介すべきだろうが、そこに至る道がよくわからず断念。
むしろ関心は神社の南約150mにある滝行場(写真中)で、もと岡山市の「石山」にあった「石山明神」が岡山城落成により金山寺境内に移され、更にその後、この「畑石鉄神社」の滝行場に(蔵王権現として)移されたということである。
「滝」というにはあまりにも小規模である(写真下)が、石組みはなかなか美しい。ただし、特に祠などは見当たらない。蔵王権現の本地仏は釈迦如来・観世音菩薩・弥勒菩薩の3尊とされるところから、滝のところにある3つの大きな岩そのものを祀っているのかもしれない(あるいは、鎖行場の磐座の方かもしれない。)。
ここ以外にも「石鉄神社」は各所で祀られており、例えば岡山市東区竹原の「新庄山」(135m)山上にもある(「三徳園(小鳥の森)」のところから登山道がある。)。「新庄山」は、宇喜田直家の第2の居城となった「新庄山城」があったところで、こちらの「石鉄神社」の由来は不明だが、あるいは宇喜多氏の信仰があったのかもしれない。

牧石学区連合町内会のHPから(畑石鉄神社):http://townweb.e-okayamacity.jp/makiishi-r/midokoro-isizutijinjya.html


写真上:畑石鉄神社の入口にある巨岩


写真中:滝行場


写真下:滝

コラム167.備前国の磐座拾遺(その6・天神山(岡山市北区))

2009-05-10 10:54:17 | Weblog
天神山(てんじんやま)。
場所:岡山市北区天神町8-54。岡山県天神山文化プラザの敷地内で、北側の庭園のようになっている。路面電車「城下」電停の北、徒歩約3分。
岡山市街地の旭川右岸(西岸)に「天神山」「石山」「岡山」という3つの丘陵が連なっていた。戦国時代、まず「石山」に城が築かれ、その後、本格的な城は「岡山」に築かれた。「石山」には「石山明神」、「岡山」には「下宮明神」(現「岡山神社」)や「岡山寺」があった(ほかに「今村宮」や「連昌寺」もあったとする伝承がある。)。<「岡山」の地名についての項:2008年7月19日記事も参照>
「石山」と「岡山」には城が築かれたため、仮に磐座があったとして破壊されてしまっただろうが、「天神山」には磐座と思われるものが残っている(写真上)。岡山市街地はかつて海であったため殆ど平坦であるが、これらの3つの山(丘)はかつて島で、海面が陸地になったときに小高い場所になったと思われる。なかでも、「天神山」は、磐座?の北側の「土光敏夫記念公園」との高低差が大きく、崖というと大げさだが、市街地ながら「山」であることを実感させる。
「岡山」に(後の)「岡山神社」、「石山」に「石山明神」(式内社「石門別神社」だったという説もある。)、「天神山」に「天満天神」が祀られていたというのだが、このうち「天満天神」は現在「岡山神社」境内にある「天満宮」がそれだ、という(写真下)。もし、「天神山」の岩が磐座なら、菅原道真公以前からの古代祭祀跡であり、「天神」は天津神だったかもしれない(雨乞い→雷信仰→天満宮という流れで、天津神の神社が天満宮になった例は多い。)。その場合、これが式内社「天神社」だったかも?


写真上:磐座?平らな巨岩の上に、いくつかの岩が置かれている。


写真中:地名由来碑


写真下:岡山神社境内の天満宮

コラム166.備前国の磐座拾遺(その5・和気の立石)

2009-05-09 21:28:24 | Weblog
和気の立石(わけのたていし)。
場所:和気町大中山。山陽自動車道「和気」IC料金所の北側。IC入口の1本南側の道路を川沿いに北へ進んで、自動車道の高架下を潜る。駐車スペースあり。
向かって左側に登り道があり、5分ほどで「立石」の真下にまで行ける。小祠が置かれているが、祭神等は不明。
「和気の立石」の南東、約900m(直線距離)のところに古社「水行谷神社」(2008年5月29日記事)があるが、同神社はもともと「水引の滝」を祀ったもの。「和気の立石」は陽が良く当たる山の南側斜面にあることから、あるいは、セットで五穀豊穣を祈ったのかもしれない。


写真上:全景。山陽自動車道のすぐ横にある。


写真中:下から仰ぎ見る。


写真下:根元には小祠がある。

コラム165.備前国の磐座拾遺(その4・岩神神社)

2009-05-08 22:02:07 | Weblog
岩神神社(いわがみじんじゃ)。単に「岩神」、「岩神社」としてあることも多い。
場所:赤磐市惣分。県道27号線(岡山吉井線)から笹岡郵便局のところで県道257号線(坂辺吉井線)に入り東へ。約2kmで「岩神社」という標識がある。路肩に少し広いところがあるので、そこに駐車して徒歩で約20分。舗装路の先に何軒か人家があるので、そこまで自動車でも行けるが、駐車スペースがないので、下においてきた方が良い。
実は2回目の参拝になるのだが、前回に行ったとき(2年前?)には、山道は草ぼうぼうだったような記憶があるのだが、随分道がきれいになった印象がある。神社の境内?も少し公園のようになっている。
社記によれば、祭神は八千矛神(大国主神)。本殿はなく、巨岩そのものを祀っている。祭神に因んでか、手製の木刀が何本も奉納されている。現在では、「ゆるぎ岩」ばかりが有名になっている(落ちそうで落ちないことから、受験の神様になっているらしい。)が、「畳岩」と名づけられた四角い巨岩は凄い。これが磐座であろう。ただし、いつから祀られていたかは定かではない。
県道257号線の起点赤磐市坂辺には古社「松尾神社」があり、「岩神神社」を通り過ぎて先に行くと、赤磐市石にでるが、そこにも古社「石村神社」がある。途中、分岐して赤磐市山手に行けば、古社「湯山神社」がある。こうした古社に囲まれた「岩神神社」が神名帳に採り上げられなかったのは何故か。もちろん、神名帳が作られたときには発見されていなかった可能性もある。これは私見(あるいは妄想)だが、「岩神」も神仏混淆、あるいは修験道の神だったせいかもしれない。巨岩を祀る場合、国土の神である大国主神を祭神とすることはあり得ることと思うが、大国主神でなく、(異名同神だが)八千矛神とするのは、たとえば中世に武士から信仰を集めた摩利支天を、明治以降に神道の神に変えたのではないか、とも思われる。

岡山県のHPから(「おかやまの自然百選」:ゆるぎ岩):http://www.pref.okayama.jp/seikatsu/sizen/hyakusen/hyakusen/016yurugiiwa.html


写真上:岩神神社


写真中:畳岩


写真下:ゆるぎ岩。畳岩の裏側にある。この岩の向こうは崖になっている。



コラム164.備前国の磐座拾遺(その3・耳岩神社)

2009-05-07 20:29:44 | Weblog
耳岩神社(みみいわじんじゃ)。
場所:岡山市中区長利。県道383号線(九蟠東岡山停車場線)沿いの中古車販売店「シティライト城東店」のところを狭い道路に入る(東へ)。JR赤穂線の踏切を渡り、集落の奥の大師堂のところから登る。駐車場なし。
由来書によれば、耳に似た岩(「耳岩様」)にお参りすれば願い事が成就する、特に耳の病気が治る、として評判になり、天保10年庚子(天保10年は1839年だが、庚子は1840年)に社殿が建立されたという。「神社」とはいうものの、いわゆる祭神は不明で(あえて言うなら「耳岩大明神」)、麓に大師堂があること、近くに不動尊が祀られていること、奥之院があることなど、仏教色が濃い。奥之院は、何の変哲も無い岩の壁?と思ったのだが、失礼して中を撮影させてもらったところ、これは岩の「窪み」=(女)陰石ではないか、と感じた(文字通りの妄想かもしれない。)。
耳岩は磐座だとしても、仏教あるいは修験道の磐座と思われ、どれほど古いものかはわからない。ただ、当神社は聖山・芥子山山系にあり、当神社から芥子山山頂まで登山道がつながっている。


写真上:耳岩神社。岩に接して拝殿が建てられている。


写真中:奥之院


写真下:奥之院内部。陰石か?