保護室から出て今度は閉鎖病棟に入った。
閉鎖病棟でもまた説明がなく
風呂はいつは入れるのかとか
選択式食事はどんなものかとか
OTとはどんなものかとかの説明はなされなかった。
入院患者が入院患者に教えてやっと気がつくとか
そんな感じだった。
入院中の態度を看護士が観察し医者に伝え
患者の話より医者は看護士の話を重視した。
患者の方もなかなかじゅうぶんに
入院生活についての知識があるものも少なく
また混乱している人が集まる病棟だった。
朝8時に朝食
昼12時に昼食
15時におやつ
そして18時に夕食だった。
風呂は月・水・金の週3回。
ボイラーの加減で風呂も十分でないときもあった。
風呂は看護士が中に入って見張っており
裸になるのも観察され
何か物を持っていないかチェックしていたようである。
閉鎖病棟ではその階は自由に行動できた。
男性区域と女性区域とがあり
夜間はそこを監視されていた。
淫らな行為があってはいけないからだろう。
さて、ボクが院内の中庭に30分間行動できるようになるまで
2週間の時間を要した。
ボクは看護士や患者から被害を受けないように
食事についている名前の紙を名刺代わりに
患者の名前を片っ端から覚えて言った。
こんな風に
「ボクは…だけど(紙の名前の書いてあるやつを渡す)
君はなんていう名前(と言って紙をもらう)」
相手によっては紙の裏に電話番号や住所やメールアドレスを
書いてくれる人がいた。
僕の妄想もまだおさまっていないときは
ここに入院している患者は一度魂の清算がされて
別の体に入った自分の知る範囲の人間だと思っていた。
しかし他の入院患者が同じような妄想になっているのを知り
自分の妄想に気がついた。
自分は一度死んで甦りだとか言っている子もいた。
こうして患者は患者によって病状を理解し
患者同士で治療しあうという行為をすることになる。
ボクは朝早く起きて朝日を拝み
夕刻夕日の沈むのを見て暮らしていた。
新聞と雨の日の卓球とテレビとラジオが娯楽で
新聞に川柳を書いたり
新聞の写真の構図を研究したりしていた。
あっ、そうそう将棋もオセロもあったな。
将棋やオセロは皆やってたな。
こんなことしか娯楽がないから強くなっていくんだなあ。
うん。
そうそう外出許可が出るようになったころには
看護士も患者もすべて覚えていた。
自由に雑誌を切抜きしてコラージュも作っていたかな。
夜にお菓子パーティーなるものが開かれてることも
開放病棟に行くまで知らなかった。
なぜならボクは21時には寝ていたからね。
そうその年はオリンピックが開催されており
サッカーの中継を時間延長して
看護士が見せてくれていたな。
そろそろ彼女が出てくるねんなあ。
僕は病気について考え始めてから
感情の空間と時間の考察を始めていた。
地蔵の気分やJizou's Websiteで
発表した鬼と地蔵の話しも考えていた。
そんな時なかなか眠れない夜があって
隣のベッドの人から
カップラーメンをもらい食べてるところに
彼女がいてボクはこう話しかけたんだ。
「君の病気を当てたろうか?」
彼女はこのとき変な誤解から
自分の病気について
医者も判断を誤った状態になっていた。
ボクも彼女がボクと同じ症状だとは思わなかった。
なぜなら妄想がそんなにひどくなかった。
というか彼女にはほとんど妄想がなかったからだ。