先週、神奈川大学神社研究会では神社新報社の前田孝和氏を講師にお招きし、「樺太の神社の終戦顛末」というタイトルで講演をして頂きました。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれ、後に明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称したところである。日露戦争の結果、樺太南半が日本領有となり、地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の昭和22年(1942年)に、外地から内地へと編入された。昭和25年(1945年)当時の人口は約40万人で、住民の99%は日本人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市であった。
この江戸時代の樺太にも既に25社程度の神社が存在し、大部分は「弁天社」であったという。主に北海道からの移民が増えるにつれて新たに神社も建立されるようになり、終戦まで樺太に創建された神社の数は一般的に128社といわれているが、ロシア側の協力で地図上の神社(鳥居)マークを丹念に調べていくと256社にもなるようである。参考まで、樺太にも官幣大社樺太神社が明治44年8月22日に鎮座している。祭神は札幌神社(現在の北海道神宮)と同じ「開拓三神」であった。
8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。
終戦とともに各神社の御神体は奉焼されたが、引き上げが終わる昭和21年11月まで数社の神社では祭礼が行われたとの貴重な情報もあった。
来年には樺太の神社に関する本が神社新報社から出版されるとのことでした。
江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれ、後に明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称したところである。日露戦争の結果、樺太南半が日本領有となり、地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の昭和22年(1942年)に、外地から内地へと編入された。昭和25年(1945年)当時の人口は約40万人で、住民の99%は日本人であった。当時の主要な産業は漁業、農業、林業と製紙・パルプなどの工業、石炭・石油の採掘業などであった。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市であった。
この江戸時代の樺太にも既に25社程度の神社が存在し、大部分は「弁天社」であったという。主に北海道からの移民が増えるにつれて新たに神社も建立されるようになり、終戦まで樺太に創建された神社の数は一般的に128社といわれているが、ロシア側の協力で地図上の神社(鳥居)マークを丹念に調べていくと256社にもなるようである。参考まで、樺太にも官幣大社樺太神社が明治44年8月22日に鎮座している。祭神は札幌神社(現在の北海道神宮)と同じ「開拓三神」であった。
8月15日に日本のポツダム宣言受諾が布告されて、太平洋戦争は停戦に向かったが、樺太を含めてソ連軍の侵攻は止まらず、自衛戦闘を命じられた日本軍との戦闘が続いた。樺太での停戦は8月19日以降に徐々に進んだものの、ソ連軍の上陸作戦による戦線拡大もあった。8月23日頃までに日本軍の主要部隊との停戦が成立し、8月25日の大泊占領をもって樺太の戦いは終わった。
終戦とともに各神社の御神体は奉焼されたが、引き上げが終わる昭和21年11月まで数社の神社では祭礼が行われたとの貴重な情報もあった。
来年には樺太の神社に関する本が神社新報社から出版されるとのことでした。