台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

9月号「な~るほど・ザ・台湾」 高雄・橋子頭社~「尊徳」の訓えを実践した鈴木藤三郎

2014-09-13 08:57:21 | な~るほど・ザ・台湾

今月号が最終回となります。

今回は、「高雄・橋子頭社~「尊徳」の訓えを実践した鈴木藤三郎」と題して、発明の神様とも」呼ばれた鈴木藤三郎にスポットを当ててみました。鈴木藤三郎は純度の高い砂糖の製糖を可能にする氷砂糖製造法の発明(明治16年)を行い、明治22(1889)年に東京に氷砂糖工場を設立しました。社内に鈴木鉄工部を設立し、明治28(1895)年に日本精製糖を設立しました。自前の設備を設計製造し、鈴木開発部も設け、海外の技術に頼らず、常に自社開発を基本としました。萩原製作所の創業者の畠山一清ら数多くの人材がここから育ったと言われます。

なんと、鈴木は台湾に最初の新式製糖工場(台湾製糖)が建設されるまえの明治30(1897)年、欧米の製糖産業視察旅行の終わりに、台湾に立ち寄っています。この時期、海外よりの砂糖輸入高は、日本茶の輸出高に迫る勢いであり、みすみす巨額な負債をもたらすことはないとの信念でした。新領土となった台湾は、気候と土壌がサトウキビの栽培に適しているにも関わらず、砂糖の収穫量がジャワに比べると3分の1でありました。製糖政策を大胆に変革することで巨大な産業を創出できると見越していたのです。

 鈴木が奉じていたのは、二宮金次郎(尊徳)が唱えた「報徳」でした。「報徳」とは、金次郎が説き広めた道徳思想であり、経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説きます。 台湾製糖の初代社長となった鈴木はその訓えに沿って、明治34年12月、「両得農業法」を発案します。当時、原料となる甘蔗(サトウキビ)は、自社が購入した甘蔗畑で栽培するもの以外、一部は付近の農民より買い入れなければならなかった時代です。 しかし、当時の台湾南部では各地に大地主がいて、旧式機械で細々と製糖を行っていた数多くの零細製糖所は、いずれ自分たちの生活が脅かされるのでは、との危機感を抱いていました。そこで、密かに台湾製糖に対して甘蔗の納入を妨害していた。これに慌てた鈴木が考案したのが「両得農業法」でした。

昨年4月、鈴木の郷土である静岡県森町では、「森町町並みと蔵展」が主催となり、「砂糖王 鈴木藤三郎」の講演が行われました。また、町役場で、鈴木藤三郎の研究・調査を行っている村松課長補佐は「今後とも、もっともっと偉大な発明家である鈴木藤三郎について知ってもらいたい」と熱っぽく語っていたのが印象的でした。

町には氷砂糖の製造所(現在は鈴木藤三郎記念館)、歴史民俗資料館では鈴木に関するコーナーがあります。町の北西部にある庵山公園には、鈴木鉄工所で鋳造された4体の「黒銅聖観音像」内の一つが安置されており、今なお町内の人々の信仰を集めている。

また、森町は清水次郎長28人衆の「森の石松」の故郷でもあり、大洞寺にお墓も残っています。是非、森町での歴史探索に出かけてみてください。

 

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