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台湾に渡った日本の神々---今なお残る神社の遺構と遺物

日本統治時代に数多くの神社が建立されました。これらの神社を探索し神社遺跡を紹介するものです
by 金子展也

小樽商科大学同窓会報「緑丘会」 図書紹介

2018-08-26 20:49:05 | 新刊

母校の同窓会報に『台湾に渡った日本の神々』が紹介されました。

台湾に赴任した翌年の2002年に、思いがけなく日本統治時代に東洋一の金鉱山であった日本鉱業の鉱山の構内に造営された神社の遺構を訪問した。この出会いがその後の神社跡地を調査し始めるフィールドワークのきっかけとなった。日本が太平洋戦争で敗戦し、中華民国に接収されるまでの50年間の間、台湾には400ヶ所以上に上る大小の神社及び神社に準ずる社やさまざまな小規模の神社(祠)が造営された。これまで探索した神社数は380ヶ所以上にのぼった。実に15年の歳月を費やした。

神社跡地を調査する過程で、多種多様な日本人の生活空間に数多くの神社が造営されたことから「ひょっとして神社を調査することで、日本統治時代の台湾の産業史及び社会史に迫ることができるのではないか」と考えるようになった。台湾神宮など、社格を持つ神社とは別に官営企業(樟脳、林業、製塩など)から民間企業(製糖業、鉱業など)、更には軍隊、移民村、学校、先住民、刑務所、遊廓、デパートなどに土地守護神としての神社が造営されたことが判明した。結果として、神社の造営背景にあったそれぞれの産業史や社会史に時間を割くことになった。

一方、なぜ、これまで多くの神社の遺構や遺物が残っているのか、そして、戦後の神社取り壊しがなぜ起こったのかについての疑問を持ち始めた。つまり、「破壊」と「保存」の関係であった。日本統治時代の後半まで、神社は主に内地人の信仰の対象であった。本島人(中国大陸から渡って来た漢人)には寺廟があり、寺廟は本島人に根強く浸透していた。しかし、満州事変(昭和6年)及びそれに伴う日本の国際連盟からの脱退により、一挙に本島人に対して国民精神の涵養が必要となった。寺廟は日中戦争開始とともに「運動」を境にし、総督府による「寺廟整理(取り壊しや統合)」で本島人と対立関係に陥った。台南州や高雄州では一瞬の間に半分以上の寺廟が取り壊された。地域によっては100%近く整理された。このことが、戦後多くの神社が破壊された理由の一つと考えている。つまり、神社に対する「憎しみ」である。 

また、原住民と呼ばれた山岳に居住する先住民との抗争は悲惨な結果を残した。最終的には先住民の「帰順」により、それまでのは強制的に平地へ移住され、伝統的な狩猟と焼畑農業による粟作から、現地警察官の管理の下、稲作農業へと生活パターンが完全に変わった。そして、新らたなの守護神としての神社が数多く造営され、信仰の対象は先住民族のアミニズム信仰から日本の神々に取って代わった。そこには日本の神々の絶対的な力があった。戦後、国民政府により神社は破壊されるが、その一翼を担ったのが天主教(カトリック)のようであった。プロテスタントに伝導の面で後れをとっていたカトリックは信者拡大のため、いち早く先住民に入ったが、布教上、カトリックにとって神社は邪魔な存在であった。同じ神社破壊でも漢人と先住民族の居住地では異なっていた。

戦後、国民政府による「破壊」にも関わらず、今日現在も数多く残る遺構や遺物の「保存」がある。この理由が神社跡地に建立された忠烈祠の存在であり、また、寺廟による遺物の盗難であった。更に、1987年の厳戒令解除以降、自由な民主主義のもと、台湾の本土化運動という、台湾は台湾を本土として生きていくという住民の民意を主体とした行政理念が芽生え始めた。この頃になると、改めて自分たちの歴史を直視する研究がなされ始め、日本統治時代の歴史的遺産も含めて、数多くの文化歴史遺産の保護及び修復、復元を伴い、保存されるようになった。これらのことにより、現在も台湾各地に残る神社遺構や遺物も破壊されず、また、今なお、残っている理由であろう。

 

 

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