高校生あるあるだが、いいたいことは非常によくわかる。
(古典や)英語も語彙が増えて日常生活で運用する次元となれば同じ感覚になるのだろうか。文法、語彙、運用力がネイティブに及ばないうちは、現国に対するようなモヤモヤ感を感じることはない。社会、理科、数学については、一定の現国力がないと不利。あとはコツコツ勉強するだけ。
現代国語(の勉強)とは、言語についてのセンスを磨くことなのか。センスのいい人は一本のエッセイからでもいろいろ吸収するだろうし、悪い人は読書百遍でも現国の点が伸びないのでは。中学高校の同級生に文学青年は少なくなかったが、あんなふうに読書に時間資源を割くことには、コスパの視点で抵抗があった。小生理系だったし。日本語専攻だった留学生にもこの状態の人は少なくないようだ。英文和訳・和文英訳レベルの和文中訳・中文和訳ができるだけでは通用しない。中国高考における国語だって同様のはず。
結局のところ、言語生活を通じて人間としての経験値を上げる地道な作業に勝る現国学習はない。難関大学の現国(と英語)二次筆記試験。今現在なら18歳の自分自身に圧勝するはず。現国で圧勝できない人は、どんな社会人生活してきたのかと言われてしまうだろう。現国の学習って、参考書と記述の問題演習だけだった気がする。
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