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黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 累計、訪問者100000人を達成

2013年09月14日 | 日記

  ブログを始めたのが2年前の7月21日、始めて1年目に訪問者数が50000を超えた。丸2年目の其の日の目標値は訪問者数100000で有ったが残念ながら目標は未達成と成った。遅れる事 約2ヶ月の今朝、訪問者のカウンターは遂に100000人を超えた。

 実際は日々の訪問者は200人を上回る事は此の2年間で10回程度で日々の訪問者は多くても150~160人位が平均値、此の数字が多いのか少ないかは?正直な処良く解らないが?少なくても100人程の方が連日アクセスして戴いている様に思う。内容は大した事も無く日々の生活や趣味のアマチュア無線で日頃感じる事を書き綴った物で文章力があるわけでなく内容も特別な物でも無い。然し此れからも此のスタンスは変わる事は無いと思うので時々、覗いて貰えれば有難いです。次の目標は週間ランキングの5000番以内、過去3回ほどチャンスは有ったが5100~5200位の順位で終わっている。然し此の目標は何れ近い内に是非達成したいと考えている。

 

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 65歳の誕生日を迎えて

2013年08月13日 | 日記

  最近は暑さで何もヤル気が出ない。無線に出てみようと思って聞き始めてもコンディションの問題なのか?果たしてアンテナの調子が良くないのか?電波の方は全く飛んで行かない。無線機は四六時中、動作しているのだが・・・・・・一向に交信数は増えていかない。ブログの方も書き込む題材に四苦八苦の状態、やはり移動運用にでも行かないと書く事が思い浮かばないが、さりとて この暑い時期に出掛けるのも億劫だし、車の中も鹿児島からの移動運用から帰ってきた状態の侭、移動運用に行くとすれば車内の整理整頓を先ず遣らなければ行かれない状態、ピョンピョン二世号に乗る事も最近は無く。前回の移動先から帰った5月23日に入れた燃料が現在、まだ半分以上残った状態、最近はアルバイトに実家の会社に行く時にのみ乗る状態に成ってしまった。



 話は変わるが昨日は私の65歳の誕生日、この歳に成ると誕生日を迎えても嬉しい事は何も無いが、結婚して子供が出来て二人の子供の父親に成った時、誕生日を迎える度に「仮に若死にする事が遭ってもこの子らが社会に巣立つまでは絶対に死ねないな」と思っていたが早いもので其の上の娘が結婚して現在33歳、下の息子が私が結婚した29歳に成った。其の意味では有難い事に大した人生では無かったが初期の願いは叶った。今、一番思う事は息子の結婚問題、今は両親が彼是言う時代では無いが私自身が結婚が遅かった事で母親に随分心配を掛けた様で、順送りと言うか?最近、私が同じ事で心配している。「社会に巣立つまではの思いが最近は息子に伴侶が見付かるまでは死ねない」と思う様に成った。意中の人が居るのか如何か?判らないが「大概目にして欲しいものだ」と思っている。



 誕生日の朝、期待はしていなかったが朝起きると家内と息子から「誕生日、おめでとう御座います」と言われたが心の中では「そんな言葉の100回よりも実利の有るプレゼントは?」と思ったが反応が無く今年も息子からの出世払いのIC-7800のトランシーバーは夢と終わった。生きている内に実現させないと残りは少ないし後悔する事に成るぞ・・・・

 

 仕事から帰った家内が「何か欲しい物は有る?」と聞いたので「愛情を下さい!」と冗談で言ったら其の場が白けてしまった。やや反目している娘からは音沙汰無し、どちらかと言えば男の様な性格、志望大学や就職問題で色々と遣り合ったが、大学を出て一度就職したが『大輔、両親の事は任したぞ、東京で一旗揚げるまでは徳島に帰らない。』と男前の言葉を残し再度学校に入学して資格取得の勉強の為に上京し4年間、脛を齧られたが其の割には大業を成さず普通の専業主婦で満足し平凡な女で過ごしている。娘は母の日には何か毎年贈って来ていた様子だったが、父の日も私の誕生日も私には何も届かなかった。



 夕方、家族3人で外食に出る計画で有ったが残念乍、私~家内~息子と移った夏風邪により息子が体調不良に成り中止、普通の夕食と成ったが食事終わりに息子から「お父さんの欲しい物が解らないので此れプレゼント」と紙包みを渡された。私にくれたのに「いいなぁ~見せて見せて!」と家内がチョッカイを出して来たので「チャイ!」と言って遮った。中身は毎年の GIFT CARDだろう想像は付いた。此のカードは何にでも購入の際に使用出来るが無線機やパソコンの部品代の支払いには極めて不便な代物、「同じなら現金で御願い居たしやす!」と言いたい所だが幾ら親子と言えども其れは口が裂けても言えない台詞、御蔭様で此処、数年分が溜まって居るので息子の結婚の時、何か記念に成る物を送ろうと思っている。

 

 余談だが家内の誕生日は5月19日、息子から家内へのプレゼントは毎年、決まっている其れは高級ビールで家内が一番喜ぶからだ。そしてプレゼント回数も破格に多い。誕生日、夏、冬のボーナス支給時期、元気が無い時等等、私の年一回よりは遥かに多い。「やはり自腹を痛めて生み、何も解らない状態から育てた母親の存在や力は偉大だ」父親の私も製作段階と表面には余り出ないが生きて行く糧の部分では随分、貢献させて戴いて居るのだが?何せ日頃の行いが悪過ぎた。意味不明の「ジャパ~ン5△○□」の連呼や遊んで貰いたいと近づくと「うるさい邪魔だ 向こうへ行きなさい」と邪険な態度、アマチュア無線を遣った人なら皆さん其々に思い当たる事が有るのでは?



 私の母は此のくそ暑い真夏の8月に臨月を向かえ大きい御腹をして農作業をしていたらしいが?何か有ったのか?兄弟の中で私だけが総合病院で生まれて居る。上の4人は全て産婆さんが取上げたらしい(この時代はその様な状態であったらしい)何か理由が有ったのか?母親に聞いた事が有ったが理由は教えてくれなかったが御蔭様で頭の中身は空っぽだが両親から元気な体を授かり大病もせずに今日に至っている。

 

 私は結婚が遅かった為に随分母親を悩ませた様だが、二人の孫を見せる事が出来たが私は其の感激や喜びはまだ味わって居ない。一日も早く其の喜びを味わいたいもので有る。現在、私達家族は質素では有るが世間並みの生活を送る事が出来ている。此れは両親の御蔭、奇しくも8月12日は「盆の入り」早朝に御先祖と両親の墓に出向き手を合わせ私達の近況を報告した。

 



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 遣って初めて知る世話役の大変さ

2013年07月17日 | 日記

 



 昨日の夜は地区のソフト・ボール大会、私等が若い頃は地区の此の様な大会は彼方此方で開かれていたが最近は同好会の様な形の草野球や、ソフトボール大会は在っても各在所対抗の大会は少なく成っている。今回は常会(地区の親睦団体)の世話役を受けているので去年の見習い時期に続いて2回目の大会、各家庭に連絡して出場を御願いするのが今回の私の主な仕事、最近は試合中の怪我に対する保険もかけるので、参加の有無の確認で可也前から電話の掛けっ放し、矢張り試合なので勝つ事も考えて若い人を中心に参加を御願いした。

 

 ところが最近は皆さん携帯電話の時代に成っているので各家庭電話(連絡簿の電話番号は全て家庭電話番号)にかけても殆ど不在で連絡がつかない。ついても家族の人では本人の帰宅時間まで解からないので結果として何回も電話することに成った。特に昨日は3連休明けの初日の出勤日の夕方、最終確認で8人までは如何にか集まったが最後の一人が中々決まらなかった。此れは棄権もやむ無しと監督に電話で状況を説明したら「棄権はしない。如何にかするので準備だけはして置いてくれ」との事、昼からはクーラーの購入、ジュースや飲み物の購入、最後は氷の手配と走り回った。氷は実家の近くに釣具屋さんが在ったので其処に行くと店が無い(廃業)最終的に小松島市まで出向き氷を手に入れた。簡単な事だが要した時間は3時間を上回った。



 試合は8時40分からの第二試合、私は気に成って居たので7時には家を出て会場へ最初の試合が終わり掛かっても我がチームは誰も来ない、其のうち家内が来て2人で「今回は棄権かなぁ~?」と心配しながら待っていると試合終了前にメンバーが次々と集合、見ると若い人を中心に15人近く参加してくれた。有難い事で御陰様で棄権する事も無く大会に参加出来た。メンバーが揃ったので年寄りの出番は無く成って良かったと一安心、裏方に徹しようと思って居たら「常会長同士の握手と今日一番の大仕事がある」とホーム・プレート前での挨拶に呼び出された。先攻。後攻を決めるジャンケンが有ったのだ。此れは貢献せねばと気合を入れてジャンケンで勝利、先攻を取って試合は始まった。



 試合の前半戦は此方が勝っていたが中盤に相手側の猛打爆発で逆転され大差をつけられ9点差でコールド負けの一歩手前、ピッチャーが交代を希望したので思わぬ処で代打が回って来た「年寄りが出る幕では無い」と辞退したがメンバーが居ないと言う事で代打で登場、実は打撃には自身が在ったので少し色気を出したのが失敗の元、見送ればボール気味の低めの玉を強振しサードゴロで3アウトのチェンジ、大差だったので試合終了と思っていたら相手側が後一点入れるまでは試合を続行すると審判の判断、そうなると私がピッチャーをする事にキャッチ・ボールもしていないのに行き成りピッチャーとは7球の練習ボールの一球目、久し振りのピッチャーなのに自分でも驚く様なズドーンという様なストライク、味方も相手チームから驚きの声が上がったが良かったのは此処まで、其の後、ランナーを背負い最後は押出しのフォアボールで1点を献上、見事敗戦処投手を演じてしまった。



 終わった段階では申し分けない事だが負けた事に正直、ホットしてしまった。勝ち進めば参加者集めに連日、電話攻勢を掛けねば成らず、無理を御願いする事に成るので心苦しい事もあるし、私自身にとっても選手集や裏方の準備にはストレスを感じその様に思ってしまった。しかし帰って一風呂浴びて落着くと悔しさが沸々と湧き上がり負けるより勝つ方が気持ちが良いし一瞬とは言え其の様に思った自分を恥じた。今回は選手集めに苦労し世話役の大変さを身をもって感じたので次回からは協力せねばと強く感じたが多分、年寄りが出る幕は無かろうが応援には行こうと思う。

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ブログを始めて間もなく2周年目で思う事

2013年07月12日 | 日記

 このブログを始めて間もなく2年目を迎えようとしている。始めたのは2011年の7月21日の事であった。ブログを始めた動機は60歳で早期退職し、現役中に出来なかった国内の各地を巡る旅行を思い立ち5ヵ年計画を立てて、初年度は北海道周遊の旅(2009年7月10日~08月11日の1ヶ月間)2年目は信州、東北、北海道、中部地方を回る旅、(2010年5月14日~7月31日の2ヶ月半)そして3年目の沖縄~鹿児島県大島郡の離島~九州本体~中国地方の隠岐方面の移動運用(2011年4月14日~6月20日、2ヶ月と6日)を実行して行く中で沢山の人達との出会いや思い出が出来た。其の当時、私の中でそれらを忘れるなど思いもしなかったのだが2年~3年と時間の経過と共に忘れる部分も出始めたので何か記録を残したら思い返せると考え、とにかく日記的に文章に残す事を考え始めた。



 最初はホーム・ページの開設も考えたが現役を退き「単なる素浪人」に成った私がホーム・ページを開設する程のニュース・ソースが在る筈も無く直ぐに閉鎖を余儀なくされると思い、自分にとっても運営上で負担の軽い「ブログ」に思い当たったが此れは今思うと実に賢明な選択でブログで有ったからこそ今日まで継続出来たと私は思っている。何しろ気の向く侭に思い立った事を書きなぐればよく、見る見ないは相手の選択する処、こちらに選択肢は無いし、元々の目的が加齢から来る自分自身の物忘れから思い出を留める手段として書き始めた物だから・・・・そして無料サイトと違い、このブログサイトは、「Book機能」が有り最終的に記事内容を一冊の本に出来る機能が備わっている為、自分でサイトが維持出来なくなったら一冊の本にして薄れ行く記憶の中で読み返し過去を呼戻そうと考えている。



 開設当初は閲覧者が少なく、幾ら自分の為の物と思って書き込んでも訪問者が無いのは寂しい限り、カウンターが回らないのにヤキモキしたが開設後に移動運用時の記事を書いたりQSLカードにブログのIDアドレスを印刷した物が行渡り始めると徐々にブログ・カウンターが回り始めた。こうなって来ると此方も俄然張切って熱心に書き込むと其の思いは数字と成って跳ね返って来た。満1年目には訪問者が50000人を超え閲覧数は12万を達成した。其の時に満2年目を迎えた時には訪問者は10万、閲覧数は25万を目指して頑張って来たが閲覧数はすでに達成しているが訪問者合計は現状では10万には届きそうに無い。今回の離島の移動運用中にブログを続けていれば楽勝で達成出来たと思うのだが素浪人の身分では、全国何処に居てもインター・ネットにアクセス出来る環境はコスト的に「高値の花」で今までは難しかったが、今後は考えねばと思っている。



 ブログの運営を よく考えてみるとブログは多い日だと200人以上の訪問者が有り少ない日でも130人程の人が態々、私のブログを見てくれている訳でこの事は在る意味、すごい事の様に私には思える。極端な例だがアマチュア無線で毎日100局以上の人と交信する事は不可能に近い、しかし乍、一方的なブログ記事の押売りとは言え、如何様に評価、判断されているか?私に解からないが自分の思いや感じる事を自由に表現出来るブログの場に訪問者が訪れてくれる現実に充実感を肌で感じ感謝している。

 

 仕事での現役を退き、自分の存在感が段々と世間から薄れ行く中に在って「まだ生きてるぞ、まだ頑張っているぞ」と其の現状の中での ささやかな自己主張の思いが私を移動運用やブログに掻き立てるのかも知れない。私は実生活では決して積極的でも無いし、目立ちたがりでも無いが実像が見えないアマチュア無線の交信の場やブログという媒体の中でしか精一杯の自己主張が出来ない小心者なのだ。そして其の事が三日坊主の性格の私が2年間もブログを継続出来た理由の様に思える。



 今回、満2年目までに達成したい大きい目標が私には有った。其れは以前にも書いたが週間ランキングで5000番以内に一度で良いから入りたいと思っていた事、其の千載一遇のチャンスが先週に訪れたのだが結果発表は5115位に終わった。このブログ・サイトには190万人がブログを開設していて1週間、平均で5000番以内をキープするのは可也のハードルの高さ、アマチュア無線と言う特殊な分野では更に至難の技だが三周年目に向けての私の第一目標としたい。

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 足の痛みが完治

2013年07月10日 | 日記

 今日は21MHz帯が08時頃から聞こえ始め私のCQに2エリヤからのコールがあり交信を始めたがお互いのレポートは56-56、若干のジャミングが有りコンディション的に不安定に感じたので早めにファイナルを送って交信終了、其の後徳島市内の方からコールを戴き このバンドとしては珍しく久し振りの同県内の局との交信が始まった。日頃はローカル局が聞こえていても、双方共に遠慮が有り(何処か遠くの局との交信を求めCQを出してるのでは?)中々交信する機会が無い。呼んで戴いた事で1時間以上のゆったりとしたローカル・ラグチューを楽しむ事が出来た。充実した交信が出来たのでアマチュア無線を堪能し今日の午前中の運用はQRTした。



 午前中の散歩に行こうと外に出たが「梅雨明け十日」のピーカン天気「此れは散歩をする状況ではない!」と判断、テレビの有る居間に入りエアコンを入れて以前に番組を録画しながら見らていない番組を見る事で半日を過ごす結果に、太陽が可也西に傾いた18時過ぎに、朝出来なかった散歩に出た。何時もだと2~3人の人と会い挨拶を交わすのだが暑すぎる為か?本日は誰とも会う事は無かった。約5Kmくらいの距離をゆっくりと歩いたが家に帰り着く頃には全身が汗びっしょりと成り即、風呂に飛び込んだ。



 先般の、宮崎県の「えびの高原」で右足の親指近くを痛め、其の痛みが完治したのが10日程前の日から最初は1Km位から始め徐々に距離を伸ばし昨日から5Kmを歩く事を始めたが足の痛みは無いので明日は8Kmに挑戦してみようと思う。今日は珍しく午後以降は無線機の前に座る事は無く終わった。

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薩摩半島の旅とK君との再会 (2013/05/13)

2013年06月24日 | 日記
         


         
 

        


    



 十島村(口之島)からの上り便は鹿児島港に18:50分に入港した。鹿児島に着いたら指宿方面の温泉に入る事と、2年前に来た時に「特攻記念館」を訪れたが其の時、機会があれば時間を掛けて再度、見学したい思いが在ったので例により途中にある「喜入の道の駅」へと向かった。十島村では滞在中、パンやインスタントのラーメン、うどん、そばで過ごした為、御飯ものが欲しかったのでレストランに入り食事をする事に、久振りに暖かい食事をしたので長居をしすぎて「喜入の道の駅」に到着したら8時30分過ぎ、温泉の閉館は9時なので入浴は諦めて次の「道の駅いぶすき彩花菜館」(写真上段1~2番目)まで進みこの場所で車中泊とした。


 あけて13日は終日、知覧の「特攻記念館」の見学予定であったが昨晩は温泉に入る事が出来なかったので「指宿に来ながら其れはないだろう」と朝一番に温泉に行く事に、2年前に来た伏目海岸の竹山の近くにあるヘルシーランド露天風呂たまて箱温泉に向かった。其の場所には8時前ころ到着したが駐車場には一台の車もおらず、時間待ちを兼ねて駐車場の近辺を散策する事にした。最初に伏目海岸の温泉を利用した山川の製塩工場跡や砂風呂で有名な「山川砂むし温泉」を見学した。砂むし温泉も興味はあったが御客さんはおらず私一人では気が引けて相変わらずの小心者振りとなった。


 元の場所に帰るとヘルシーランドの従業員さんが外回りの準備をしていたので「温泉は何時から入れますか?」聞いたら「9時半からの営業と成ります。」との答え、まだ1時間近い待ち時間がある。仕方が無いので隣の温泉保養館方面に散歩に向かった。近くには温水プールや子供用の遊具やアスレチック設備が点在し一回りして帰る途中、運動場を横切る青年が見えた。長身の背格好や服装に見覚えがある。


 ヘルシーランドに通じる最後の上り坂で御対面、向こうから「お早う御座います」と挨拶が有り返礼の後、「元気で良い旅してましたか?」と言ったらビックリした様子、私は気付いていたが彼の方は解らなかった様子、彼とは1週間振りの再会、聞くと早朝に竹山に登り汗を掻いたので温泉に入りに来たとの事、目的は同じなので一緒に入る事と成った。下段1~2番の写真が「たまて箱温泉」の露天風呂、最初の写真に写っているベトナム人の様な傘を被った人相の悪いのが私(顔に似合わず小心者、後ろには開聞岳が見えているK君がシャッターを切った)2番目の写真のバックの山が竹山、中国の山水画に出てくる様なこの辺りでは変わった形をしている。


 温泉の客は2人だけ、話をしながらゆっくりと温泉を楽しんだ。彼は4年近く沖縄、九州、四国を徒歩で回っているらしく。冬は沖縄のサトウキビ畑をやっている83歳の御爺さんの所で働き、夏は四国の石鎚山で民宿のアルバイトをしながら其の間を利用して旅行しているらしい。彼の年頃は私の息子に近い、確かに私も若い頃は一人旅や長野の山小屋の住込みのアルバイトを考えた時期も有ったが既成概念や世間体を気にして実行出来なかったので今の彼の生き方が羨ましいと思う反面、彼の親の立場として考えると自分の息子が同じ事を遣ろうとすれば反対するだろうな?と複雑な気持ちに成った。


 然し彼には浮付いた所は無く折角、再会出来たので食事を御馳走しようと誘ったが「御気持ちは本当に有難いのですが同行と成ると車に同乗しての移動と成ると思います。其の事は私が4年間守り続けてきた拘りの徒歩での旅を始めた目的に反するので申し訳有りませんが今回は遠慮させて戴きます。」と言った。中々言える言葉では無い。其処には彼の括弧とした信念をみた。別れ際に「もし四国の徳島に来る事が有れば必ず連絡をくれ、其の時は御馳走する」と名前と携帯電話の番号を交換した。そして温泉の出口で別れたが日本最南端のJR駅、西大山駅へ向かう途中、重いリュックを背負い元気に歩く彼と出会い、車を止めて歩いてくるK君に向かいシャッターを切った。其の時の彼の はにかんだ笑顔を忘れる事は出来ない。


 沖縄の御爺さん所(他人)のアルバイトも御爺さんが働けなく成るまでは応援に行き、最終的には沖縄に永住する気持ちが有るらしいが其の間に徒歩で日本一周をやり遂げると言う彼には私の息子や今風の若者には無い野生的な魅力を感じた。人生の送り方に定石は無い。何かを求める瞬間から何かを失う。其の目的や目標が特殊で有ったり高い程、両方を得る事は出来ない。彼は一般的に見てリスクを伴う道を選択しているが、それ故に得られる物も有るだろうし、達成感も得られるだろう。他人事ながら後悔の無い様に進んで貰いたいし、何時の日か徳島で再会出来る事を楽しみにしている。
 

 下段、4~7番目までは最南端の駅、JR西大山駅、特別な駅では無いが2年前と同じで私が滞在する1時間余りの時間、観光客が途切れる事は無かった。皆さん開聞岳をバックに記念撮影をしていた。私は一部のQSLカードを入れた封書を島根に向け此の「幸せを届ける黄色いポスト」に投函した。果たして効果は有るのだろうか?有れば良いのだが・・・・・
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口之島(十島村)の歴史と フリイ岳

2013年06月20日 | 日記
      


    


 口之島は(鹿児島県鹿児島郡十島村)鹿児島市の南方204Kmの洋上にある離島でトカラ列島の一番北側の島である。元々は戦前まで先日に移動運用した現在の三島村の竹島、硫黄島、黒島の3島と現在の十島村の口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、子宝島、宝島の有人7島と無人島の五島を合わせて鹿児島県大島郡十島村と成っていた。其の後、太平洋戦争に敗れ1946年2月2日から北緯30度ライン(口之島の北部に北緯30度ラインは通っている)より南側がアメリカの占領下に置かれ現在の十島村である各島は1952年の2月10日に日本に復帰するまでアメリカ領と成った歴史がある。


その間、日本に残った上3島の竹島、硫黄島、黒島は鹿児島市内に仮の十島村役場を置いて運営した。下の7島が復帰した時、元々別の市郡を(三島村と十島村の間に屋久島、種子島が存在する)跨いでの行政運用は無理が有った為、上3島は大島郡三島村に下7島は大島郡十島村としてスタートする事と成った。そして1973年4月1日より鹿児島郡三島村と鹿児島郡十島村に成り現在に至っている。


 私は移動計画をする段階で三島村の命名は「読んで字の如く」其の侭で理解出来たが有人島が7島で何故、十島村なのか?少し疑問を感じたのでインターネットで調べて其の事が理解出来た。其の為、島に上陸すると島の北端で高さも有りロケーションの良さそうな北緯30度ライン近くのフリイ岳に興味が有り、真っ先に其の場所へと向った。港から勾配の有る道を登ると道が二股に成っていて左に曲がるとフリイ岳、直進すると集落へと向う道と成る。左に曲がるとフリイ岳の東側の洋上を眼下に見ながら進むと行き止まりの駐車場に着いた。この場所は綺麗なトイレも有り3.5MHzのフルサイズのアンテナを張るスペースも有り海抜も有って良かったのだが残念な事に5m程離れて平行に電線が走っている。この状態は過去の経験から必ず此の影響を受け上手くいかない事は解って居たので運用地としては向かなかったが数少ない公衆トイレが有る事で多分御世話に成る事が有るだろうと思いナビに登録した。


 2番目の写真に有る展望台へと進んだがこの日は青空の広がる良い天気、地理的に可也南に下がっている為に写真上段4枚目の遊歩道を登ると暑くて汗が噴き出た。階段や手摺は費用を掛けた良い作りでは有ったが観光客が少ないのか?人が通った様子も無く、定期的な点検が無いのか?途中の遊歩道は木々の枝や葉っぱが通路に覆い被さる状態に成って居たのは少し残念な気がした。


 展望台までは可也時間が掛かったが遊歩道を登り詰めると流石に戦時中は帝国海軍の見張り台として敵船監視に使用されて居ただけに見晴らしは最高で7MHzの逆Vだと張れるスペースも有り、無線運用には抜群のロケーションだが機材を持込むには大変な場所、QRPでの運用であれば最高の場所に思えた。3番目の写真は展望台の櫓の上、屋根が有った事と心地良い風が有ったので床に寝そべり1時間ほど休憩した。3~4番目は遊歩道の途中や展望台から島の南側を取った写真、最高峰の前岳628mHや横岳501mHが写っている。


 私の口之島での運用場所は二つの高い山の稜線の右端の平らに見える山の上230mHで運用した。最後の写真は運用場所から逆にフリイ岳方面を撮ったもの中央先端の山がフリイ岳、其の左側の稜線と海が交わる辺りが北緯30度ラインと成る。この島は火山島、硫黄島と違い島全体がグリーンに覆われていたが起伏の有る変化に富んだ島であった。
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 中之島での恥ずかしい話

2013年06月17日 | 日記
        


  5月7日に鹿児島県鹿児島郡十島村の中之島に着くと運用地を探しに出かけた。出発前の計画段階で運用場所の検討をグーグル・アースで行おうとしたが航空写真の鮮明度が悪く解らなかったので島の広い道を南に下がり乍、反時計方向に回る事に成った。途中で道は段々狭まって来たが全体的に道路状態は良く最終的に未舗装の場所まで上がる途中(標高360mH位と思う)に何箇所も対向用の広い場所が在ったが其の大半が方向性が悪くナビに登録はしたものの決定する様な良い場所は見つからなかった。


 其の後、港近くの高台に在る駐在さんの所に挨拶に向かった。今回の島での滞在日と目的を説明し快く了解を得られ、世間話の中で「御岳は登られましたか?」と聞かれ「まだです。」と答えると御岳は島一番の観光スポットで頂上からの景色はバッグンらしい事を聞いた。この御岳は979mHの高さでトカラ富士と呼ばれトカラ列島の最高峰である。お話では可也の高さまで車で登れ最上部に駐車場がある事をお聞きしたのでひょっとして良い運用場所が在るかも知れないと思い山に登る事にした。駐在さんの「気を付けてね」に送られて出発したのだが40分後に今回の移動運用中の最大のアクシデントが待構えていよう等、思いも拠らなかった。


 山を登り始めた最初の内は道路も広かったが1Kmほど登ると道は狭く成り、落石は有るは竹や雑木の伸びた枝を掻き分けて進む道と成った。離島で観光客が少ないのか?近々に車が登った形跡も無く道の途中はギザギザと尖った落石が彼方此方に散在していた。20分くらい登った所で同年輩の徒歩で登る登山客に会って会釈をして5分くらい登った所で少し道が広くなり登り始めて初めて下界が見えた事も有り不注意にも瞬間、よそ見運転をしてしまった。高い場所でよそ見をした為 本能的に山側に寄り過ぎていたのだろう視線を戻し「いかん」とハンドルを切ったがゴトンと音がして排水路の蓋の無い所で後輪を脱輪してしまった。


 正に「おお~神様」と言う状態!車から降りて確認すると後輪が排水路に落ちた為、後輪の車軸が完全路肩に閊えて路面からの隙間にはジャッキが入らない。残された道は排水路の底からタイヤに当て木を当てジャッキで持ち上げる方法しか無いと考えたが以外に排水路の深さが有りジャッキのストロークが足りない事が解った。以前の徳之島で砂に潜って脱出に苦労した経験からコンパネの40 x 80cmの板は4枚程、ノコギリも車に常に積んでいたが20cm近くをかさ上げする様な物は積んで居なかった。残る方法は大きい石を見付け嵩上げする方法だが小さい落石は有った物の大きいものは途中の道筋には見当たらなかったので山頂の方向に探しに歩き始めた。


 暑い中、徒歩で5分ぐらい登った場所で使えそうな大きい石を3個程、確保したが可也重い、2回に分ける方法も有ったが2往復は嫌だったので「火事場のくそ力」宜しく2個の岩に上に小さい岩を乗せ「欲張り競争」状態で来た道を帰った。其の後、登山客の人も手伝って下さり彼是、試してみたが上手く行かない。30分程、お手伝いを頂いたが車は上がらず。登山の予定が有る筈なので御礼を述べて登山に向かって貰う事にして分かれた。


 其の時「自分で頑張る気持ちは解るが早い段階で警察に連絡して助けて貰う様にした方が良い」とアドバイスを頂いたが自分の遊びで来て公に御世話に成る事は考え無かったし、自分で時間は掛かっても車を上げる自信は有った。幸いに食料は十分有るし今晩1泊しても自力で遣ろうと思った。兎に角、冷静に成ろうと暫く下界を眺めながら休憩した。


車を上げる前に少しでも車を軽くする為に、中の荷物を降ろす為にサイドのドアを開けようとしたが何故かドアが開かず、後ろのハッチバックから重い荷物を降ろし軽くしてから排水路の底に岩を敷き其の上にジャッキを乗せ後輪を引き上げ始めたが車重が掛かり始めると火山岩で出来た岩が少しずつ崩れ始めジャッキの底部の水平が崩れ始めジャッキが傾き、後少しの状態でジャッキが変形してしまった。万事休す、一度ジャッキを下げハンマーで叩いて変形を直したが一度変形した物は脆く直ぐに同じ状態に、ジャッキの予備は持って居なかったので万策尽きた。


 頼みのジャッキが使えなかったら自力脱出は無理と判断、カーナビの周辺検索で自動車屋さんを調べたが情報が無い。この段階で駐在さんに頼る事しかないと判断し電話を掛けた。最初に島の自動車屋さんが有るかどうか?聞いたら「この島には自動車屋さんは無い」との事、困った状況を察した駐在さんは「車を上げる為の必要な物が有れば持って行く」と言って下さった。私としては非常に恐縮したが「島に訪れた人が困れば其れをお助けするのは私の仕事、遠慮する事は無い」と言って現場に来てくれる事に成った。30分位するとバイクで駐在さんが来られてダルマ型の大型のジャッキとバタ角の木片を渡してくれた。私の軽四の四辺形のジャッキと比較して底部や其の構造は頑丈で少々の重さでは壊れる事は無いと思った時、車は必ず上がると思った。


 今回のジャッキは伸ばしてみると可也の背丈が有るので排水路の底に直接ジャッキを固定出来たので傾く事も無く20cm長のバタ角をタイヤの間に入れジャッキを上げると意図も簡単にタイヤは道の高さ以上に成った。前記のコンパネをタイヤの前後に敷き、車に乗り込みエンジンをスタートし深呼吸した後に前進にシフト・レバーを入れジャッキを蹴飛ばす様にスタートしたら簡単に車は側溝から脱出する事が出来た。


 車が脱出し荷物の積み込みと成ったら駐在さんも暑い中、お手伝い頂き「大変だったね 遠慮しないで早く連絡くれれば良かったのに!」と言った後、「後を付いて来て下さい、展望台まで案内します。」と展望台まで先導頂き眼下の中之島の景色を見ながら説明をして頂いた。駐在さんは直ぐに山を下って行ったが私は感謝の気持ちで最敬礼でお見送りした。この5年間の全国での移動運用中にたくさんの職質問などで少々閉口気味で有ったが今回の事で警察官に対する気持ちが随分違って来た。


 一服した後、御岳を下り再度移動運用の場所を探しにキン岳の北側の道の行き止まりのマイクロ波無線設備のある場所の500mくらい手前の道端に車を止め(北緯29度50分02秒 東経129度52分22秒)キン岳の稜線385mHの場所で運用した。中之島での運用は5月7日の15:46JST~22:37JSTと翌朝05:12JST~07:46JSTと7MHz帯の運用で603局との交信で終わった。この十島村からの移動運用はプチ・アワードが始まってから2局目だったので今回の移動運用で初めて600局の大台を少し超える事が出来た。しかし私には無線運用よりも脱輪して困った事と自分の趣味の遊びで全国を移動運用中に公の機関の御手を煩わせる事だけは無い様に心掛けて行動してきた心算が今回は守れなかった事にショックを感じ単独での離島等への移動運用は年齢的にもソロソロ限界だな?と感じた。


 如何やら自分では気付いて居なかったが行動面や健康面で衰えが出ている事を実感した。今後は身の丈に合った場所での単独の移動運用は有っても今までの様な移動運用は止めようと思っている。今後、トカラ列島等の離島に移動運用に行かれる方は是非とも事前に駐在さんに届け出る事をお奨めする。私も最初に挨拶に行っていなかったら面識の無い所に電話をする事すら出来なかった様に思う。今回は事前に会って説明して居たし相手が私の事を知って貰って居た事が幸いしたように思う。兎に角、移動中は何が起こるか解らない。私も結果的に誰かが此の地の駐在さんの所に挨拶に行かれると語り告げられる様な不名誉な武勇伝を作ってしまったが離島の移動運用は我々が通常生活している生活環境とは可也違う事を知って貰う為にあえて恥を承知で此処に書き込んだ。


 
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最近の各バンドのコンディション

2013年06月13日 | 日記

  
 最近、7MHzも聞いているが朝7時前までは良く聞えるが其れ以後に成るとコンディションが段々と落ち始め やがてバンド全体にノイズぽっく成り駄目に成る。随分早い時間帯でコンディションが低下するので朝の国内コンディションがどの時間帯に開け始めるのか?確認する為に先週の金曜日に朝、3時頃から起きて聞き始めた。驚いた事に3時を少し回ると北海道と沖縄方面は良好に聞えていた。4時を回るとノイズレベルの低い中、各エリヤが良好に入感し始めた。早朝の為にQRVしている局は少ないが皆さん聞き覚えの有る局が強力に入感している。長い事、無線をやっていると此の時期の(5~6月)コンディションは何と無く記憶の中にあり、それに対する今年の状態に違和感が私には有ったのだが全体的に国内が開ける時間帯が前倒しに成っている為、コンディションの低下も早まっている様に思える。



 今回の鹿児島県の離島で移動運用をした時、7MHzの朝の国内向けのコンディションは予想外に早く7時前後に落ちた事が原因で総交信数に大きく影響した。出発前に2年前の同時期の沖縄と離島の運用の(同じ地区での運用)データーは事前に確認していたがこの時は9時~10時の間で7MHzをQRTしている。移動運用中の時間当たりの交信局数は私の場合は平均約60局くらい、勿論これ以上の時間帯も有るが長時間の運用の場合、経験上、これ以上の速さで運用を継続すると必ず呼び手の波が止まり、CQの連呼を余儀なくされる。

 

 前回の離島での同時期での運用中は其々の運用場所で総交信数が600を下回る場所は無かったが今回は一箇所の朝夕の運用で400前後の実績、矢張り朝のコンディションのフェードアウトの読み違えが実績低下の最大の原因と成った。因みに昨年の同時期に紀伊半島と京都、滋賀県を回った時のデーターでは9時前後に7MHzでの運用をQRTしている。運用場所が違っていたので余り参考にはしなかったが早朝のコンディションの前倒しはサイクル最盛期の影響が有るのかも知れない。


 関係あるのか解らないが?最近、18MHzや21MHz帯の国内の信号が朝の7時頃から聞えるコンディションに遭遇する。特に6月の第1週~第2週の週末が其の状態で有った。開け方は日々まちまちだが1日に1回は必ずと言って良い程、開ける。早朝の7~8時頃、昼前の11時前後、其れと日没前後から20時頃の時間帯は要注意の時間帯、先週の金曜日の21MHz帯等は11時頃から19時の時間帯まで上り下がりは有るものの長時間に渡り国内が開けていた。此れは期待出来ると土曜日も早朝より聞いたが金曜日程では無くガッカリしたが日曜日は少し持ち直し、18,21,24MHz帯は良いコンディションに思えた。両日の7MHz帯のコンディションは7時頃より落ち始め芳しく無く私は「聞えて居る時に確り遣るべく」18,21,24MHzのハイ・バンドの運用に集中した。


 最近のネット上のセキュリティーの問題で突然、相手の都合で2~3日の間、自分のブログに書込みが出来ない状態に成ったが(パスワードの変更を迫られたが変更が出来ずアクセス出来なかった為)復旧しました。


 

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十島村(中之島)への出発

2013年06月13日 | 日記


        



        



 「フェリーみしま」が鹿児島港に入港前に自動車での乗船組は先に車の甲板に降りたため陸に上がってから皆さんと御別れの挨拶をしようと思っていたのだが岸壁に着岸して上陸した段階では誰も見付ける事は出来なかった。この時、2年前に御会いした鹿児島の局が来られるかも知れなかったので路肩に少し車を停めて待機したのだが見付ける事が出来なかったので仕方なく国道に出る道の交差点前に来た時、K君がデジカメを構えて待っていた。近付くとストロボが光った後に「小父さん お元気で」と、にこやかに手を振ってくれた。態々私が来るのを待構えていたのだ。後続車がいたのでゆっくりと左折しながら「元気でね 良い旅を」と手を振りながら別れたが胸が熱く成った。


 其の日は鹿児島港を23:00分に出港する「フェリーとしま」で先程、錦江湾を北上したコースを十島村の中之島に向かいトンボ返りの日、今回は十島村に5月7日~12日までの長期滞在の為、水、食料、ガソリンの調達と明日の中之島での運用は山中に成るので温泉に入る事にした。鹿児島市内にも温泉は沢山有ったと思うが小心者の私は慣れない土地で迷わず確実に行ける「喜入の道の駅の温泉」へと再度向った。硫黄島では温泉に恵まれて毎日、無料の露天風呂に入る事は出来たが硫黄成分の強い源泉では頭や体を洗う事が出来なったのでサウナに入りしっかりと汗を流した。鹿児島港の南埠頭への帰り道、食料の調達もガソリンも前回と同じ場所で調達し我ながら進歩が無いなと感じた。


 十島村への交通手段は三島フェリーと同じ様に十島村の村営事業で有り「フェリーとしま」を利用する事になる。発着場は南埠頭で三島フェリーの直ぐ近くの反対側にある。出港は23:00分、フェリーの大きさもほぼ同じ位の大きさで村営事業なので最初に乗船書類を書くと後は名前の記入だけで良く予約や乗船情報が各港に通達されており此の点は煩わしく無く非常に便利で有った反面、口之島からの帰り便のフェリーを港湾内で待っていたのだが待合場所で何時まで待っても乗船券の販売がされないので島の人に聞いたら「此処では乗船切符は買えない」と言われ慌てて島の反対側の支所に走り辛うじて間に合う離れ技を演じる事と成った。車での乗船だったので直ぐに走って如何にか間に合ったが歩きだと30分以上掛かる距離、乗り遅れると更に2~3日間の滞在を余儀なくされる。矢張り本土での通常の考えや感覚で判断すると とんでも無い事が始まる。余談になったが「フェリーとしま」は定刻に出港したが夜遅い事も有り皆さん早々と毛布に包まり寝ていた。


 翌朝、最初の寄港地である口之島に夜明け前に到着し、乗船客の大半は此処で下船した。口之島を出港すると直ぐに日が昇り始め上段4番目の写真の中之島のトカラ列島最高峰の御岳が見え始めた。遠景から見える御岳は硫黄島の硫黄岳に良く似ていたが近付くにつれ緑に覆われた綺麗な稜線を持つ流石「トカラ富士」と言われる山であった。下段は中之島で見た花の写真、3枚目は運用場所、迂闊にもアンテナを撤去してから前日に写真を撮って居ない事に気付いたが後の祭りと成った。

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 思い出を有難う硫黄島への旅 (2013/05/02~06)

2013年06月12日 | 日記


        


          


          



 5月5日の硫黄島最後の夜は再度、東温泉の駐車場に戻りアンテナを設営して運用した。明日は鹿児島に向けての上り便のフェリーが入港する為、観光客にとっては最後の入浴タイム、日中は日差しが強いので夕刻の日が沈み掛ける時間帯に成ると顔見知りの観光客が続々と集結し始めた。一番手はベルギーの二組のカップル、続いて若いカップルが登場した「叔父さん此処で何をしているの?」と奥さんが初めて話し掛けて来て少しアマチュア無線の事を説明した後、「先程ベルギーの人達が降りて行ったよ」と言ったら「平気、平気、水着で入るから」と笑いながら降りて行った。

 

 続いての登場は大学生風の二人組み、島では移動中に一番多く会ったが年齢差か?話す機会は無かったが何処で会っても「今日は」と笑顔で挨拶をしてくれた。続いては東京からの社会人、彼は沖縄周辺の離島を総て回っているマニアックな人で正月と5月の連休は南の島を回っているらしく英語も堪能でベルギー人とも色々話しをていた。驚いた事に島で私が移動中に見た彼は何時も走っていた。

 

 その次に現れたK君は20代の関西の人だったがアルバイトをしながら日本を歩いて回る夢を持った青年で既に4年以上、九州や沖縄方面を歩いたらしく沖縄や離島の話で盛上った。普通、旅行中に見知らぬ人と腑とした事から話をする機会が有るが御互いが知らない同士の気楽さから初対面でも打ち解けた話が出来る事が有るがその様な場合でも御互いの名前を紹介する事は少ない。御互いに二度と会う可能性の無い事を理解しているからこそ 其の短い時間を大事にしたいと思うのでは無いだろうか?

 

 この事はアマチュア無線での見知らぬ人との交信時と合い通じるものがある。彼とは縁が有ったのか?其の後、鹿児島の指宿の温泉でも再会し其の奇遇さに今回の旅行の中で唯一、名前と携帯電話番号の交換をする仲に成った。其の後、続々と民宿での宿泊の方が送迎車で訪れて賑わった様だが私の方は無線運用に夢中に成っていた。


 翌朝、6時頃まで運用した後、温泉に入り、此れで、早朝、昼、深夜と東温泉の露天風呂に入ったが其々に趣があった。其の後、港に向かい御世話に成った駐在さんに離島する挨拶に伺った後に港に行くと港湾の管理者の方が「徳島の日下さんですか?」と聞いて来たので驚いたが、初日に駐在さんと御会いした時に適当な運用場所が見付からない場合を考えて「港の岸壁での運用は可能ですか?」とお聞きした時に「港湾の管理者に聞いたら多分、OKが出ると思うよ」と言って下さったのだが港湾管理者と聞いた時に「かたぐるしい御役人」を想像した私は確認に行かなかったのだが、駐在さんが後で話をして頂いた様で有った。御本人は若い気さくな人で其の後、暫く世間話をした中でアマチュア無線の話もしたので今後、硫黄島での移動運用を計画している人は岸壁での運用も申し出れば可能だと思う。此処には公衆トイレも有るので私が硫黄島で一番困ったトイレの問題もクリヤー出来るはずだ。


 出港1時間くらい前に成ると観光客が港に集まり始め、顔馴染みの帯広からのお兄ちゃん、東京からの青年、関西からのK君と私の四人で階段に腰掛て会談を開始、楽しい時間を過ごした。K君は沖縄の蛇味線を持っており弾いていたが帯広のお兄ちゃんも沖縄の曲を意図も簡単に弾いたのでこの二人の沖縄通は本物であった。

 

 やがて上りの「フェリーみしま」の姿が見えると駐在さん、港湾管理者、民宿の方々や村民の方々が港に集まり岸壁ではジャンベ・スクールの生徒さんによる「ジャンベ」(ボンゴの様な手で叩く太鼓状の物)の演奏が始まった。そして車の積込みが始まり其々に別れて乗船し私がデッキに出たら見送りのジャンベの演奏が始まり若い女性が演奏に合わせ踊ってくれた。

 

 硫黄島は手軽に行ける観光地では無いし誰もが興味を示す様な観光スポットが有る訳で無く、島内では放牧がされていただけで水田も見当たらなかったし地場産業も有る様には見えなかったし、其れ故に島全体で観光に取組んでいる様子が強く感じられた。民宿の叔父さん等は「伊豆の踊り子」のラスト・シーンを彷彿させる感じで岸壁をジャンプしながら手を振り走り回っていた。民宿に泊まらなかった関係ない私でも思わず手を振ってサヨナラをした。港の突堤を過ぎるとフェリー三島は「ボォ~~・ボォ~」と汽笛を2回打ち島を出港した。


 この日は天気も良く海も凪いで居たので例のメンバーが甲板に集まり再び旅の話が始まったが其れは断片的に鹿児島港に入港するまで続いた。写真中段は離れ行く硫黄島と3枚目は薩摩半島の先端部に有る開聞岳、4枚目が鹿児島のシンボルの桜島、下段は沖縄航路のフェリーで2年前の沖縄~鹿児島間の離島の移動運用で乗船した其々の船、如何した訳か鹿児島港に揃い踏みで停泊していた。鹿児島港に入港したのは16時30分、長い様で短い三島村(硫黄島)への旅は終わった。





 


 

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硫黄島での一番の思い出

2013年06月11日 | 日記


 今回の三島村(硫黄島)の移動運用で一番の思い出は無線の運用では無く東温泉の露天風呂と成った。出発前のインターネットでの下調べで写真は見ていたが現物との間には可也の相違があった。今回の5月2日~5月6日の硫黄島に滞在中、東温泉には4回ほど入浴したが東温泉には夜間用の照明装置や源泉の温度調節や上がり湯に必要な真水の引き込みも無く、以前にも書いたが火山岩の間から滲みだす硫黄成分の強い源泉を其の侭、円形の浴槽に貯え地形を上手く利用した高低差のある3浴槽を源泉がオーバー・フローしながら流れ落ちる間の時間により空気で(自然冷却)冷やされる事を利用した実に理に叶った露天風呂であった。


 周りは岩場だが通常の人口的な露天風呂とは違い風呂の周りには囲いとか障害物は無く、何処からでも丸見えの状態、当然照明装置が無いので利用は日没前か夜明け前の利用者が多かったが周りが暗く成ると真っ暗で且つ民宿からは歩くと片道30分以上の道のりで仮に車で来ても(各、民宿の車での送迎も有る)車の駐車場からの7~800mは岩場の寂しい所を歩く事に成るので都会の人では尻込みする様な道筋であった。当然この露天風呂は男女混浴、従って女性は水着で入る事に成るのだろうが?私が入浴中にベルギーの2組のカップルが入って来たが二人の女性は水着姿で入って来た。後で他の観光客から聞いた話ではスッポンポンで入った女性の豪傑も居たらしいが明るい所では此方の方が恥ずかしく成ってしまうに違い無い。其の為に女性用の脱衣所、天井の無い石を積み上げて着替え時に身を隠す程度の場所が有るだけ、兎に角、野趣に富んだ露天風呂で有った。


 私が東温泉に始めて入ったのは其の日の午前中に坂本温泉に立寄り可也異物が浮かんでいたので少し躊躇は有ったものの話の種にと坂本温泉に入った時、苔と海水が混ざった状態で入った為、塩気で体がベタベタし気持ちが悪かったので体を洗い直す事にし東温泉に向った。時間帯は正午過ぎで有ったと思うが既に30歳前後の青年が先客として来ていた。お互いに観光客なので「今日は」の挨拶をすれば何処の何方か解らなくても自然に会話が進む、彼は北海道の帯広市から冬の間だけ毎年沖縄の精糖工場に働きに来て終わって帰る途中に離島を回っているらしかった。色々話している内に此れから私が行く(十島村)トカラ列島を奄美大島からフェリー便で北上して来たらしく御蔭様で十島村の観光地や温泉の情報等を詳しく聞く事が出来た。彼は小学校の近くでテントを張りキャンプ生活らしいが島の人達とも交流が有るらしく昨日も酒盛りに呼んで貰ったりして硫黄島の事が気に入って居る様子だが一番気に入ったのは「東温泉」で既に10日以上の滞在中に毎日来ているとの事であった。今回、硫黄島に5月2日に来た人とは小さい島内なので島を移動している時に其の人々と何度も会う機会が会ったが一番出合った場所は矢張り東温泉であった。特に夕日が落ちる頃は最高で海を見ながらの入浴は其の景色全体を見渡せると同時に他の露天風呂では味わう事の出来ない開放感は最高で民宿の送迎自動車はこの時間帯に集中していた。私は東温泉の駐車場で無線運用を2日程した関係で早朝に温泉に入りに来る人とも挨拶をしたり話をする機会が有ったが皆さん異口同音にこの露天風呂の事は絶賛していた。


 しかし、この露天風呂の最高の魅力は何と言っても真夜中の入浴、寂しい場所なので少し度胸はいるが私は夜の運用後に11時~1時前まで一人で入ったが最高だった。途中の道は真っ暗で岩場の為、足元も悪いのだが頭に夜のアンテナ設営作業用に持って行ったLEDのヘッド・ランプを取付け、手には同じくLEDのカンテラを持ち温泉場へと進んだ。到着したら岩場の少し離れた所にカンテラを置き其の薄暗い灯りの中で入浴しながら満天の星を見れた事は一生の良い思い出に成った。露天風呂の湯温の方も昼間と違い夜風に冷やされて調度良い感じに成っていたし体が温まると打ち寄せる波の音を聞きながら浴槽の縁に寝そべり夜空を見上げて最高の時間を過ごしたが物事総て良い事ばかりでは無い。其の時は暗くて解らなかったが蚊では無いのだが黒い小さい虫に刺されたらしく(其の時は痛くも痒くも無かったが)3日位してから足回りに赤い発疹が出来て其の痒さは1週間近く続く事と成った。

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 蛍の季節

2013年06月04日 | 日記



  




 先週の金曜日からアルバイトが始まり早朝から仕事に出ていますのでブログの書込みの時間が無く残念です。2~3日でアルバイトは終了しますので終わり次第に書込みを始めます。徳島地方は入梅後は曇天の天気が続き太陽を見る事は有りませんでしたが本日は晴天で非常に暑い1日と成りました。一度、太陽が出ると夏の雰囲気、今晩は風呂上りの涼みに庭に出ると初夏の風情の蛍が沢山飛び始めました。毎年、6月の第1週目近くに成ると飛び始めて我家で一番季節を感じる時です。今年も此れを見る為に5月21日に移動運用から帰りましたが其の段階で数匹がお尻を光らせながらゆっくりと飛んで居ましたが今日辺りは最盛期の感じ其れでもこの地に家を建てた時と比較すると1/10程度に減少して寂しい限りです。今年は鹿児島県の知覧の「特攻記念館」を2年振りに1日を掛けゆっくりと見学して来ましたが其の中で「特攻蛍」の事を知り今日は其の事を思い出しながら思いに耽りました。戦時中は御国の為とはいえ長音を出しながら敵艦に体当たりし自爆する瞬間を探るモールス信号が現在は個人が楽しむ趣味のアマチュア無線に使用される平和な日本に感謝せねばと思うと同時に昨今の近隣の国から他力本願で無く自国を守るという事を真剣に考えねばと思いました。

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今回の移動経路と最初のハプニング

2013年05月25日 | 日記
 

 今回の移動運用は隠岐方面と予め定めて出発したが移動中に以前から調べていた十島村へのフェリーの予約情況を確認する気持ちに成った。十島フェリーの運行予定表は持っていたので連休後の5月6日出発の(23:00出航)便の予約状況を電話で確認すると乗船可能との返事が返って来た。意外な返事で有ったので今度は駄目もとで三島村フェリーの5月2日出航の5月6日(18:30鹿児島港)に入港の予約状況の確認の電話を入れたが相手が休みで連絡が取れず取合えず4月29日の深夜に高速に乗り、愛媛県の今治市まで向かい「しまなみ街道」(本四橋)を渡るコースを取り、取合えず広島まで向かい30日の朝に三島村フェリーの予約情況を確認し取れれば鹿児島に直接向かう事に、駄目なら隠岐に向かい運用後に鹿児島(十島村の運用)に向かう二段構えで今治市のPAで車中泊とした。


 翌朝に(30日)予約確認をすると意外な事にゴールデン・ウィークの中心の5月2日~5月6日の往復の予約が出来たので鹿児島に向かう事と成ったが少し日程的に余裕が有ったので前々から訪れたかった周防大島(プチ対象地)に立ち寄る事にした。


 此処で今回の旅行中のハプニングの1発目が起こった。高速道路の料金の割引を利用する為、深夜に徳島ICに入ったものの今治~本四橋間は高速連結をされて居らず仕方無く一番近いICを降りてETCゲートを出ようとしたらゲートのバーが開かず缶詰状態に後続車が次々と並ぶ情況に情況が解らず私はパニック状態、カードは勿論ETCの電源も入って折、問題は無いのだがリセットを掛けてもゲートは依然として開かない状態、車を降りようとしたら「危険ですから車から降りずに待って下さい係りの者が参ります。」とアナウンスが有りやがて係りの人が現れて強制的にゲート・バーを開けてくれた。「ETCカードを確認させて下さい」と係りの人は持って行ったが直ぐに帰って来て「ETCカードに入門ゲートの情報が入力されていない。」と向こうの都合の話をしたので此方としては「徳島ICのゲートは問題無く開いたのでその様な事を言われても当方としては困る其方の機械の問題だろう?どの様な事情で成ったのか十分説明をして貰わないと此れから鹿児島まで行くので今後、この様な事が有ると不安なので十分調べて欲しい」と申し入れを行った。


 暫く調べた後、当方の機器及びカードには問題は無いので確率的には今後は発生しない事と公団側の読取り機器の誤動作が有ったらしい事を認め「極稀なトラブルなので安心して御利用下さい。」との事で有った。其の後、今度は「しまなみ街道」の入口のゲートに入る時は冷や冷やもので在ったが問題無くゲートが開いたので少し安心したが今回の移動中に高速道路への出入りには其の度に緊張感が走る事と成った。
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 明日から暫しブログを休みます。

2013年04月27日 | 日記

 今日も朝から色々と手直しをしていたら時間が過ぎるのが早い事、気が付くと午後1時、約束事が有ったので阿南市内へ出掛けて用事が終わった後、食料品と衣類の買出しをした。歳いった爺さんの一人旅、毎回の事だが今回もジャージ姿で押し通す事に決め、下着を1週間分買い揃えた。一歩外に出たら何が有るか解らないので此れだけは気をつけねばと思っている。


 帰って来て新品の春用の薄手のジャンバーを着替えれば良かったのだが其の侭、作業を開始して移動時の夜の発電機を止めた後の室内照明用のインバーター電源(12Vから100VのACを作る)入力の12Vラインを開閉器の端子へ接続する段階で上蓋(オペレート卓)を取り外せば良かったのだが面倒臭かったのでカーペットの上に横に寝転んで結線作業をした。作業が終わって起き上がろうとすると横に成った時の右肩にカーペットが付いて一緒に捲れ上がって来た。最初は一瞬、何事が起こったか?解らなかったが、出掛ける前に木材を張り合わせる為にゼリー状の瞬間接着剤を使った物がカーペットの上に有ったと言うか 落ちて居たらしく 寝転んだ時に右肩で押したらしく液が漏れてジャンバーとカーペットが接着する一歩手前に成っていた。生地が薄いので無理に剥がすと破れてしまうので注意深く外したがカーペット側の一部や糸くずがくっ付いた状態で分離は出来たもののジャンパー側の生地は液で侵かされてケロイド状態、範囲は狭いのだが他所行きには使えない状態、「あぁ~」と思わず溜息が出た。今回の旅行で気温の低い時は此れを着用する予定で有ったのに・・・・・・


 発電機とバッテリー電源とのテストは終わった。交信テストはして居ないが多分大丈夫だろう(改装作業中はテストも兼ねて常時無線機は2台共に鳴らし続けていた)。明日の何時頃出発か決めていないが明日中には出発する予定、運用は確りしたアンテナでコンディションが続くまで遣るので聞えて居たら呼んで戴ければ有り難いです。


 其の様な訳で明日からのブログは暫し休みます。旅行は何か連絡が有り呼び戻されない限り、予定の軍資金が無く成るまでの予定ですが家内には「気の済むまで帰って来なくても良い」と言われていますが何せ先立つものが御座いませんので意外と早い御帰還に成るかも知れません。
今回は大した所には行きませんが「風の吹く侭、気の向く侭」の旅が出来ればと思っています。

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