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黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

喜ぶべきか?複雑な気持ちの閲覧数

2014年01月21日 | 日記


 昨日は久し振りに終日体を動かしたので疲れて早々と10時前に布団に入ったら即、「極楽行き」に途中に夢見る事も無く4時過ぎにパッチリ目覚めた。最近は目覚めて一番にする事はパソコンを起動しブログの閲覧数を確認する事、今朝も寝床のパソコンを調べて驚いた。昨日のブログは短い2行で終わっていたが通常よりも閲覧数の多い250件・・・・



 私のブログでは1日に280件が過去最高、250件以上は日頃でも珍しい、日頃 「のんべんだらり」と書いている日々より(それでも本人は其れ成りの時間を掛けて書き込みをしている)多い閲覧数に喜んで良いのか複雑な気持ちになった。今朝も7時出発の那賀奥の現場に出掛ける予定、最近のブログは写真が殆ど添付されていないのでカメラを持って行き天気が良ければ写真を撮ってきます。

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何も題材が無い日

2014年01月20日 | 日記


 今日は朝早起きして終日外出し、無線とは無縁の一日と成った。先程に帰宅し風呂に入って食事をしたら疲れがどっと出て来ました。今日は此の侭寝る事にします。おやすみなさい

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 息子との食事会

2014年01月11日 | 日記


 今日は家内が自身の姉夫婦と有馬温泉に出掛けた。私もお誘いを受けたが用事が有った為に息子とお留守番、夕食は作るのも面倒なので外食で済ませる事にした。最近は外食と成ると中華料理か回転寿司が御決まりのコースなのだが今回は息子の希望でホルモン料理店に誘われた。



 ホルモン料理など20年くらい行った事が無かったので ふたつ返事で息子の車で阿南市の中心に在る「情熱ホルモン」なる名前の店に連れて行かれた。店の前に立つと何度か来た記憶のある場所・・・・・其の店は子供達が高校生の時に家族で時々中華料理を食べに来た店、特に息子は子供の時からラーメンが大好きで有ったので お気に入りの店であった。社会人に成って大学時代の同級生が遊びに来た時に其の店に案内したらホルモン焼きの店に商売替えしていて結構美味しかったので其れ以来時々訪れている様子、店内に入って「何を注文する?」と言われても久し振りでよく解らないので息子に任せる事に、元々私自身も肉料理は大好きな方なので結構楽しんで帰って来た。



 日頃、同居している息子とは毎日顔を合わしているが親の私に似ず朝早くから夜遅くまで働く「仕事人間」で会社までは1Km位しか無い9時始まりの会社に朝は7時前に出掛け夜は早くても21時から22時過ぎに成らないと帰って来ないし休みの日は昼過ぎまで寝ているし起きたなと思うとマラソンの練習に出掛けて行くので日頃はゆっくり話をする機会が無い。

 今日は美味しい物を御馳走に成りながら2時間程、日頃、ゆっくり話が出来ない分、色んな事を話しながら楽しい時間を過ごした。息子の大学時代は同じ高松市内に私は単身赴任で居たので時々、夜に連絡をして時間が合えば良く食事に出掛けていた。実社会に出て6年目に入ると学生時代とは変わって話の内容や物腰が随分と頼もしく成って来た様に感じる。私が自分の息子の年齢時には男親と二人切りで食事に行く事など時代背景や照れ臭さで無かったが息子は余り気にして居ない様子、毎月1~2回は必ず家族三人で食事に行く事にしているが家内の居ない男同士の食事も此れは此れで良い物である。この様な事も息子に嫁が来たら無く成るであろうが?其の時は其の時で孫同伴の賑やかな食事会に成る事だろう。帰り道の車の中で其の情景を想像しながら其の様な日も遠い先では無い様に思えた。

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私の困った性格

2014年01月07日 | 日記


 今日も朝からSSN値は245前後で私が知っている限りでは最高の数値、只 太陽活動が激しすぎるのか数値の割には海外の信号は思うほど聞こえていない。今日も朝から少し聞いたが朝起きするほどのコンディションでは無く珍しく今朝は実績が無しで終わった。日中は玩具のパソコンの方に気持が行き、各種設定やテレビのチューナー基板を取付け録画する為のソフトのインストールと設定を行った。

 

 我家の家族で見るテレビはUSBタイプの外付けのHDDにテレビ本体の録画機能で録画しているが此れはDVD盤に記録出来ないので不便を感じていた。其処で昨年の暮れに思い切ってブルーレイ・ディスクレコダーを購入しようと思ったが現在でも結構な値段で7~8万位する。矢張り購入と成ると以前の勤務先のメーカー以外は買わないのでランクにもよるが地元の大型家電店でも8万円近くしている。念の為にインターネットで調べても1.5~2万円くらい安いがそれでも6万前後はする。冷静に成って仮に購入してもディスク盤に残す程の番組が如何程有るか?仮に残しても其れを見直す可能性を考えると勿体無いと感じ諦めた。



 以前の我家のパソコンでは能力的にストレスを感じずに映像の編集をする能力は無かったが今回のパソコンはCPUやビデオ・カードの処理能力が一桁違う位の能力が有り「此れは面白そう」と又、私の悪い病気が再発した。此処2~3日はインターネットで各メーカーのBS,CS,地レジ対応のパソコン内蔵型のカードを彼是と検討し昨日に注文したら今朝一番に宅急便で入荷、こう成ると無線処の騒ぎでない。

 

 直ぐにパソコンの天板を剥がし取付と各種設定を行った。仕事柄かも解らないが何か新しい事をしていると何かワクワクしてくる高揚感が堪らない。現役中は仕事がら無償で新しい商品や個人では購入出来ない様な高額な商品を試したり使用したりする特典付きの仕事であったがリタイヤすると其の特典は無く、総て自腹と成った為に今は思う様に其々の商品を試す事が出来ない。今回はそんな潜在的なストレスが火をつけた。作業中は何か子供の頃に欲しかったプラモデルを手に入れ夢中にに成って組み立てている感覚、商品の魅力よりも一つの事に夢中に成れる其の充実した時間の経過を楽しんでいる感じ、そして結果的には1週間位して一通りの動作の検証が終われば「この様な物か?」と飽きてしまう様な気がするのだが・・・・・とにかく貧乏人のくせに困った性格である。

 

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今日は37回目の結婚記念日

2013年11月12日 | 日記

 今日は37回目の結婚記念日、別に祝うほどの事は無いが家内は先週土、日曜日と出勤だったので今日は代休を取った様で終日、家で一緒に過ごした。最近は腰が痛いの足が痛いのと騒ぐので「大概目に仕事を辞めたら」と私が言うのだが無線三昧の小面倒な爺さんと一緒に居るのが嫌なのだろう。仕事を辞め様とはしない。



 私達の結婚式は1977年11月12日で一日早ければゾロメと成って覚え易かったのだが少し残念・・・どこの家庭でもそうだと思うが順調な日々ばかりでは無かった。私達夫婦間の問題は大きい問題は無かったが子供達の躾や教育問題では悩む事も有った。特に長女が県外の大学の法学部に進学したいと言い出した時は私としては反対で有ったので何回か家族で話合ったが娘が押し切る形で進学、上に進学する予定の卒業式の前日に倒れ、病院に担ぎ込まれ先生に「生命の危険は無いが覚悟が必要です。」と言われた時は目の前が真っ暗になった。

 

 此の状態で娘を県外に置くことも出来ず徳島に連れて帰って療養、上への進学を諦めると就職活動をしていなったので健康に成っても最悪の就職難の時代で途中就職出来ない状況であった。臨時の県職員を勤めている時、此の侭では中途半端に終わるので資格取得の為に東京に出す事を決めて4年間の仕送りを続けた。親は親成りに期待して送金していたのだが?処が東京で恋愛し目的中場で結婚し家庭の主婦に収まってしまった。幸せに成る事は良いのだが反面、今思うとあの4年間は何だったのだろうか・・・・・と思ってしまう。しかし私も親に心配を掛けた方だったので「此れは順送り」と諦める事にした。



 長男は自分で行きたい海上保安大学の受験に失敗、次の年に再度チャレンジする為1年間予備校に行く事に成ったが自宅に置いては駄目と考え24時間監視付きの県外の全寮制の予備校に入れた。上と違い少し逞しさに欠ける性格だったが次の年に別の大学に入る時には大分逞しく成ったが成り過ぎたのか?入学して3日目に自転車で乗用車と衝突し緊急病院に搬送されたと電話が入った時は家内が動顛し現地に向かう間中、泣かれたのには参った。大学院を卒業した段階で技術職の息子に私は海外か都会に出る事を強く勧めたが意外と本人は地元に残りたいと言い出し紆余曲折はあったが御蔭様で地元の大手に就職して現在に至っている。矢張り私達夫婦の問題よりも子供達の問題でハラハラ・ドキドキした日々であった様に思う。でも過ぎてしまえば良い事も悪い事も懐かしい思い出と成って居る。



 私の両親は戦争を体験した厳しい時代を生き抜いた世代であったが無事、金婚式を迎えて旅立った。私も出来れば金婚式を迎えたいと思っているが考えると残り13年、80歳近くまで頑張らなければ成らない。私の大分使い込んだパーツが最近時々、不響和音を唱え始めた。残りがどれだけ有るか『神のみぞ知る』の心境だが此れからの日々を大変難しい事だが充実した形で過ごせればと考えている。今日は結婚して37年目に入る日 ふとその様な事が頭の中を過ぎった。

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落ち鮎釣り

2013年10月14日 | 日記

 



  今日も下流方面の散歩コースを4Km程歩いて来た。毎日同じ道を歩くのも芸が無いとと思い途中の河川敷から玉石のゴロゴロした川原を横切り写真の場所に向かった。此の場所は瀬(川に高低差が有り流れが速く成る所)に成っていて流れは可也速い大人でも此の場所に流れ込むと可也下流まで流された後でなければ岸に辿り付けない状況で一番狭い所では川幅が20m位に括れていて急深で岸から1~2mでドカンと深く成って其の深さは4m以上有る様に見えた。散歩中は対岸から何時も此の瀬を見ているが今日初めて其の近くまで歩を進めた。



 今は調度落ち鮎の時期、川釣りの太公望が数人釣り糸を垂らしたり釣り談義でもしているのだろう玉石に腰を下ろし談笑していた。最近幾ら気温が高い日々とはいえ体が冷えるだろうに川の中ほどまで進み腰上まで川に浸かり竿捌きをして居る人も居た。此の川も私が中学生位までは綺麗な川であったが私の子供が小さい頃、水遊びに良く連れて来たが家に帰って風呂場で体を洗ってやると少し生臭い独特の川の匂いが感じられた。上流の生活汚水が流れ込む性で水質が悪く成って居るのだろう。私の家は川釣りをするには大変便利な場所だがもともと殺生は好まない方だし前記の事から此の川の魚を釣って食べようとは思わ無い。(全国の河川からすると水質は此れでも良い方と思うのだが)



 従って釣り人の成果も確認する事無く写真を撮る為に一回りして家に帰ったが釣れて居る様には見えなかった。

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 晴天の中の清々しい散歩コース

2013年10月12日 | 日記

        

 


  今日は朝から青空の広がる上天気で久し振りに那賀川の下流方向への往復7Kmの散歩コースを選んだ。歩き出すと日差しは強いものの西からの強い風で余り汗も掻かず非常に心地よい。最初の写真の場所まで約、2Km位有り前回の時は 此の土手下の道は腰まで雑草が伸び通るのが大変だったが今日の早朝から草刈作業が始まったのか大型の草刈機(写真4)と10人ほどの作業員が出て作業を展開していた。


 私が通り掛かった時に保々作業が完了し、正にタイミング的に私の為に作業をして頂いた感じ、気持ち良く通り初めをさせて頂いた。写真2番目が散歩の折り返し点、此の建物は那賀川からの工業用水の取水口で大きい設備である。写真の3番目は下流方面から上流方面を撮ったもの中央の一番高い山が勝浦郡勝浦町にある中津之峰、海抜が約800mH程あり私が時々勝浦町で移動運用する場所で飛びは抜群で余り他局とのバッティングも無いFBな運用地である。

 

 中央に写っている橋が国道55線の那賀川橋で阿南市へ向かう交通の要所で有ったが最近は海岸近くを通るバイパス道路が主たる交通路と成り通行量は減っている。私のQTHは画面左側の橋を渡り切って直ぐの道(土手)を上流に2km遡った場所にある。ほん数年前までは写真向かって右側が旧、那賀郡羽ノ浦町で川の左側から阿南市で川によって分離されていたが現在は両側共に阿南市と成った。其れと同時に旧、那賀郡は高知県との県境から紀伊水道に(海岸線まで)跨っていた。奥から木頭、木沢村、那賀町(相生町、鷲敷町)羽ノ浦町、那賀川町と3町2村の広大な面積が現在は那賀町の一郡一町に成りアマチュア無線的には移動運用の面白味が無くなってしまう事と成った。



 

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 子供の時代の台風一過の思い出

2013年10月09日 | 日記

  昨晩は台風の影響も出始め無線を聞く事も無く23時前に就寝した。そして早朝の4時頃に凄い雨音で目が覚めた。風も何時もよりは強く吹いているが大風では無い様子なので一安心した。インターネットで台風の位置を確認すると米子市の沖を隠岐の方に向かっている。位置から判断して後2~3時間は影響が有るだろうが昼前には天気は回復しそうに思えた。8時頃に成ると雨が上がり中天から北側は青空が見え始め南側の半分は曇天の空模様と成っていた。



 10時を過ぎた頃に散歩を兼ねて何時もの那賀川の河川敷を歩いた。上流のダムの放流が有ったらしく広報車がダムの放流が始まっている事を知らせながら回っていたが川の水嵩は余り上がっていない。私の家から700m位上流には途中に瀬があり(此の距離で高低差が7mH位有る)その部分では可也のスピードで水は流れていた。



 季節は10月の初旬が終わろうとする時期なのに半ズボンと薄手のTシャツ姿で1Kmも歩かない内に早々と背中にじっとりと汗を搔く始末、草むらには黄色い蝶は飛んでいるし1週間前に朽ちた彼岸花の茎を草刈機で完全に刈ったのだが2度咲きか?家の周りには彼岸花が咲いている。御蔭で1時間の散歩が終わるとビッショリと全身に汗を掻き堪らず久し振りに残り湯の風呂に飛び込んだ。昼からは上半身は裸で過ごす程、蒸し暑い状態、夕方の天気予報では隣の美波町では31度を越す8月下旬の気温で10月としては過去最高気温を記録したらしい。



 可哀想なのは子供達、早朝の段階では色んな警報が出ていたので「遣った今日は学校が休みだ」と早合点した組も多かったと思うがタイミングが悪い事に7時30分頃には一部、空に晴れ間が出始めて残念な事に台風に寄る休校には成らなかった様である。私も子供の頃は台風が来ると学校が休みに成るか?成らぬかで一喜一憂をした思い出がある。台風の怖さより台風一過の青空の下、川が上流で堰き止められ水嵩が減った川に入り川えびや鮒を捕りに走り廻って居た事を懐かしく思い出す。小学校1~2年生までは川で採った鮒を串に刺して火で炙り食べていた事も有ったが何か「かすかすした食感」を微かに覚えているが今、其の味をハッキリ思い出す事は出来ない。今と違って何処とも随分質素な生活をしていた。多分、今時の猫なら跨いで通る代物だと思うが食べる事より捕る事自体が非常に楽しかった。今の子供なら臨時休校に成っても川に魚を捕まえに行く者等居ないだろう。そこ等に時代の流れを感じる。

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 台風情報で思い出す与論島での思い出

2013年10月08日 | 日記

  今日の早朝には雨が降る天気であったが9時前には雨も上がり雲が多かったが時折、青空が覗く天気と成った。台風の進路は気に成る処、一時間毎の進路をインターネットで確認しているが如何やら嫌なコースを辿っている。特に1時間くらい前から進路を東寄りに変えて北九州に近づく方向に曲がった。



 北九州に上陸して日本海(山陰地方)に抜けるコースの場合は四国は如何しても長時間風雨に曝される。台風の規模は強い台風だが暴風圏内が規模の割には狭いので少し救われる感じだが決して予断は許されない。今の所、徳島では風も吹かず雨も降らない状態だが今晩の夜半から影響が現れ明日の朝から昼前の時間帯が一番影響を受ける感じ、「嵐の前の静けさ」で不気味な感じがする。取敢えず雨の無い内の午前中に家回りの台風に対する対応を行った。



 午前中にテレビを見ていたら今回の台風は与論島を直撃したらしく瞬間最大風速で50m台の風を観測したらしい。風を受けた町筋の情景が流れていたが町筋と言っても小さい島なので其の場所が島のどの位置に在るのか直ぐに解かり懐かしく感じた。私が与論島に移動運用に言ったのは2011年の6月、沖縄本島を23日間掛けて移動運用し帰り道の最初の離島運用として与論島に初めて上陸した。



 しかしタイミングが悪く其の年の台風1号に遭遇し連絡フェリーが欠航して初めての離島シリーズで足止めを食らった。其の時の台風は大型では無かったが与論島の直ぐ西側の海上を通ったので曇天の中を丸い円状の青空が(台風の目)が北に向かうのを確認できた。滞在は長かったので車で一周10分前後の島の周回道路を何周もしてあらゆる所を回ったので島内の景色は鮮明に良く憶えて居た。此の年は運が悪く奄美大島の最後の運用地の龍郷町でも台風2号に追い掛けられ与論島の経験から龍郷町の運用を途中で切り上げて宮崎の安養子さん宅に避難した事も思い出深い。

 

 過去の全国行脚は無線運用が中心ではあったが保々全国各地を車で回ったので全国のニュースや旅番組等を見ていると過去に訪れた場所の情景が映り出される機会が有るが其の度毎に色んな思い出や情景を思い出し懐かしく機会があれば再度訪れたいと思う。今日は与論の百合が浜で台風の余波の大雨が降った時に「雨宿りして行きなさい」とみやげ物売り場の小母さんに呼び止められて雨宿りしながら世間話した時、ジュースやコーヒー挙句にはラーメンまで御馳走になった事が有ったが「御元気なのだろうか?台風の被害は無かったのだろうか?」と思いながら忘れかかっていた小母さんの顔を思い出した。

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 テレビを見ながら思い出した学生時代

2013年10月04日 | 日記

  今日の夜にテレビを見ていたら「同窓会、有名人、母校に帰る」と言う番組が放映されていた。テレビ界に活躍している有名人が思い出の母校に帰り在学中の思い出を語る番組である。風呂上りに偶々放映されていた番組で有ったが最後まで見てしまった。



 私は以前のブログに書いたが小学校時代から大学に行けない事は解っていたので上の二人の兄が徳島県では名門の工業高校に入学し技術系の道に進んで居たので自分も当然の様に其の道を進む事は中学に入学する頃には既に決めていた。そして偶々中学生の後半にアマチュア無線の存在を知った事から電気の世界に興味を持った。当時、県南部には工業高校は無く私が中学2年生の時、阿南市に国立高専、と県立の工業高校が出来たが(古い話に成るが当時の阿南市は全国の13箇所の新産業都市に指定される予定で有ったので其の底辺となる技術者の養成目的で開校された)当時の国立高専の受験は学年で5番以内でないと受験できない空気があり私等は当然、門前払い、一級先輩も同期も何人か受験したが合格したのは学年で2番の成績の者だけでであった。当然に私の入学したのは県立の工業高校であったが余談だが家内側の二人の兄弟は高専の1回と3回生、時々に冠婚葬祭で顔を合わせるが未だに頭が上がらないHi



 私の場合は入学動悸が電気を学ぶ過程でアマチュア無線が出来れば良いな?と思っていたし、工業高校を出た程度では所詮ブルー・ワーカー、学業で及ばなくても実世界に出れば人並みに競争していく自信は何故か不思議と持っていた。従って在学中は試験勉強など殆どせずに一夜漬け専門、自分でも呆れる位勉強はしなかった。当然成績は言うまでも無く散々たる状態で有ったが大手の会社に行く事など無理だし全然考えても居なかったし寧ろ三流程度が自分にとっては分相応で実力が出せる場と思っていた。



 入学後は運動部にも所属せず帰宅組の生活、少し薄れかかって居た無線への思いが偶々1年の2学期に知り合った樫福君との縁で高校のアマチュア無線部を知り、入り浸ったのが運の尽き、無線の世界への更なる拍車が掛かった。個人では中々経済的に困難な開局は出来なくても高校の無線部でアマチュア無線を楽しめる事が解ると後は一直線に無線の世界に、のめり込んだ。無線部では良き先輩に恵まれ、もう一人の同級生の栗本君が加わり私の勝手に付けた「無線馬鹿三人組」が誕生、其の付合いは卒業まで続いた。三年間の在学中の学校行事(運動会や球技大会其の他)や無線部の三人組み以外の同級生との思い出等は殆ど思い出す事が出来ない。そして三人組みは其々のアマチュア無線を現在でも楽しんでいる。



 私が在学中の電子工学の教本は大半が真空管の回路、トランジスターの事も少し勉強した様に思うが余り記憶にない。アマチュア無線の試験も確か真空管回路であった様に思う。卒業して実社会に出て1~2年からトランジスター回路が中心に成り在学中の勉強は私の職種には余り役に立たなかったがアマチュア無線を遣った過程での「遣って見なければ解らない、兎に角挑戦し取り組む中で習得する」アマチュア精神は随分役立った。其の意味では学業で得たもの寄りアマチュア無線を楽しみながら会得したもの方が確りと根底に有る様な気がする。高校在学中の無線三昧も決して無駄では無かったと言う事だろう?ただ在学中の思い出が無線三昧の日々しか無いと言うのも今と成っては残念な気もする。
  


 

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 季節外れの蝉の音

2013年10月02日 | 日記

 昨日も秋としては暑い日で有ったが今日は半袖シャツに半ズボンのスタイル 其れでも少し体を動かせると鼻の頭に汗が滲む状態に最初は体調不良で少し熱が有るのかと思ったら気温が高かった様で昼からは家の横の「ヨノミの木」から季節外れの蝉が鳴き出す始末、人間の世界にも調子離れした人間が時々居るが既に10月に入ったのに昆虫界にも季節を忘れた調子離れた蝉が居たものである。最初は信じがたく「ほんまかいな?」と疑ったが矢張り「ツクツク ホーシー」と鳴いている。先程家内が帰って来たので「あれは蝉の音やな?」と聞いたら「その通り、外は暑いよ、今日は仕事してたら自然と汗が出るような天気だったわ」との返事、一体今日の気温は何度位あるのか?日の当たらない部屋の寒暖計を16時現在で見たら27℃を上回っている道理で暑いわけだ。



 蝉も夏の初めに27℃を超す辺りから活発に鳴き始める事を聞いた事が有るが季節外れの「蝉の音」は蝉が調子外れでは無く季節が調子外れの為に蝉が反応したのだろう。私は65歳に成るが此の時期に喧しい蝉の音を聞いたのは初めて、人間だけでなく最近の世の中の出来事を見ていると、森羅万象に変化が起こって居る様な気がする。

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 硫黄島の東温泉を思い出すカンテラ照明での入浴

2013年10月01日 | 日記

 今日は此の時期としては気温が上がり可也気温が高かった。そのため何時に無く早い入浴と成ったが風呂に入って1分位経つと天井の照明がパカパカと点滅をしだした。脱衣所の明かりが浴槽から見ると死角に成り風呂場は結構暗い。其の状態で照明が点滅すると結構気分が悪くなるもので辛抱出来ずにスッポンポンに成り、代わりの照明を探した。懐中電灯が見付かったが照明には不釣合いなので隣の無線室を見渡すと硫黄島の東温泉で使用したLEDのカンテラが転がっていたので早速、風呂に持ち込んで窓辺に置いて少し薄暗い明かりの中で入浴する事に成った。



 私は照明が暗いと貧乏臭く見えて(本当は貧乏人なのだが)大嫌いなので風呂場の照明も可也明るいものを取付けているが中身は丸型の蛍光管で防湿タイプで高い天井に取付けているので脚立無しでは交換出来ないし、今日は此のスタイルで行くしかないと思った。カンテラの光源は1mくらいの高さに有り室内が薄暗く且つ物の影が長くなり温泉地の露天風呂の岩場の影の様な雰囲気となり此れは此れで偶には良いなと思えた。



 次に入ったのは家内、風呂から出てきたら「偶には違った雰囲気で良いね」と言っていた笑っていた。以前に台風の襲来で停電し、ろうそくの明かりで風呂に入った事が有ったが其の時も違った雰囲気で特に子供たちが大喜びした事が有った。今日は偶々のトラブルで日頃とは違った入浴に成って久し振りに硫黄島(鹿児島郡三島村)の東温泉で頭にヘッド・ランプと少し離れた岩場にカンテラを置いての薄暗い中で深夜に入った露天風呂での情景を懐かしく思い出した。間も無く息子が帰って入浴後に何と言うか?少し楽しみだ。

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 秋の風情、今と昔

2013年09月30日 | 日記

 最近は日の暮れが随分早くなった。「秋の日は釣瓶落としが如く」の表現がぴったしの状況に成って来た。子供の頃に日が暮れるのも忘れて遊びに夢中に成り夕方薄暗くなり親に呼ばれて家に帰る時、西の空が茜色に燃えていた頃を懐かしく思い出す様な今日の天気であった。



 私の子供の頃は、今頃が農繁期の最盛期で稲刈りの頃であった様に思われる。(今は8月の中旬に稲刈りは始まる)子供ながらも稲刈りの時期には田んぼの中に発動機や脱穀機を持ち込んでの脱穀作業時に脱穀機の傍に稲の刈り取った束を集めたり脱穀した籾を入れる畚の交換の手伝いをよく遣らされた。

 

 子供の頃は遊びたいさしきで手伝いは嫌で堪らなかったが反面に刈入れが終われば家の近くの田んぼで籾の天気干しが始まるので田んぼ一面に藁を敷いた干し場が出来る。日中は籾の干し場と成り辺り一面に「筵(むしろ)」が敷き並べられ、其の上に籾が広げられて天日で乾燥させていた。そして其の作業は10月の後半頃まで続いた。今と違って随分手間隙を掛けた米作りがされていたように思う。秋は日が短いので夕方前には其れ等が俄か仕立ての小屋に取り込まれると後は子供達の格好の遊び場所に早代わりして、かけっこも良しドッチボールや三角ベース・ボール用の一寸した運動場に成った。一枚田が子供が独占できる遊び場に成るのだから此れ位楽しい事は無い。周りには甘柿が熟れて色付いているし金柑の実も実っているし廻りに其の他の結構な果物も有って楽しみでもあったし今と違って戦後の子沢山の時代で遊び相手に困る事は無かったので夕方の周囲が暗く成るまで遊び呆けられて良い時代であった。



 此の時期の夕方に成るとあちら此方で小高く盛り上がった籾殻の山に火が着けられ燻りながら籾殻の燃える匂い等は秋の此の時期を一番感じさせる風景であったが最近は野火に対する規制が厳しかったり農業機械の発達で稲藁が無くなった事や区画整備や農面道路の整備に伴う軽トラの出現と普及で田んぼの中での脱穀作業が無くなり殆どが自宅や其の周囲の作業小屋で行われる為に此の時期の、正に秋を感じる風景は見られなくなった。籾の乾燥も機械乾燥に成り最近は天日での乾燥など見た事も無いし、其れに伴う子供達の遊び場も消えた。今日は夕方の景色を見ながら腑と子供時代の懐かしい思い出に耽った。

 

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 久し振りの家族総出の運動会

2013年09月22日 | 日記

     


  今日は小学校と全町民運動会の合体した運動会が開催された。最近の小規模の町村では町民運動会が開催されている事自体が珍しいのでは無いかと?と思うのだが?私達の団塊の世代では児童数も多く世の中には町村をあげて楽しむ行事も無かったので小学校時代では運動会は年間の行事の中で最大行事とも言える物であった。私の生まれた町では小学校と町民運動会は完全に独立していたし生徒数や町民の人数が多い町だったのでプログラムも多種多様で夕方の薄暗く成るまで続いた。



 現在、住んでいる町は私が生まれた町と比較した場合、人口規模で言うなら30%程度の規模、小学校の在校生数も200名程度の学校で有る。昔は其れなりの生徒数が居たので小学校と町民運動会は独立した形で運用されて居た様だが私の子供が小学校に通い始めた頃には(20年位前から)両者が合体した形に成っていた。



 小学校の生徒数が各学年、1クラスの定員を割る様な数に成ると運動会のプログラムの消化も午前中に終わってしまう状態に成り昔程の盛大さは無い。町民も現在は他の個人的な楽しみに流れたり、何より子供や孫が通っていない小学校の運動会に昔ほど人々が集まらなく成ってしまった。



 此の地区は昔ながらの運動会は各在所毎に張られたテントに分かれて児童や親達が座り応援をする形を採って居るので今朝は5時に運動場に出向きテントの設営の準備、偶々朝方の天候は雲が厚く雨が降るかも知れぬ微妙なお天気状態、世話役としては非常に気を揉む処、去年は予定当日は大雨、順延の場合の予定日も雨に成り最終的に開催は平日に小学校単独の運動会と成った。其の事も有り、学校長と協議会の会長は既に運動場に居られたが「午前中は雨に成りそう。」と心配顔、「しかし、去年の事も有り雨が降って居ない状態なら決行!」と判断、煙火を上げて運動会決行の合図とした。



 やがて各、常会の世話役がテントを持ち込んで設営を始めると運動場も大分明るくなり賑やかに成った。我家は世話役なので家内と息子と私の家族総出での仕事、昨年に新調しながら雨で出番の無かったテントの建て方に迷いながらも駆け付けた皆さんの協力を戴きながら如何にか設営した。



 其の後、一度家に帰り午前中の途中から運動会に参加、小学生らの元気に走ったり競技する様子を見ていたが其れなりに面白かったり楽しかった。昼の食事を境に午後からは一般の得点種目が始まり、事前に御願いしていた方々に競技前の(子供が在校生で無くとも出場を御願いする人も有り仕事をしている人達も居て)電話連絡や競技毎の選手の集合状況の把握など結構気も使う。そして昼からは青空も広がる好天にも恵まれ日差しもきつくなり日焼けで顔が火照り大変な状況で有ったが嬉しい事に、一般採点種目では私達の地区が優勝することが出来て世話役としては面目が保たれる結果と成った。最初は「今時、町民運動会も無いだろう。子供の通学していない人達にリレー選手や競技に出場の御願いをする事は大変で大概目にして欲しいわ」等と思っていたが競技や各種リレーが始まると夢中に成って応援していた。子供が卒業して約20年、運動会とは無縁の世界に居たが久し振りに童心に帰れた気がした。


 

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 彼岸花の季節

2013年09月16日 | 日記

   


  昨日は終日、強い雨が降り続いた。日中の風は思ったほど強く無かったが今朝は曇天で風が有ったが11時頃から青空に変わったが北西の強い風が時折、吹き付けている。先程、家の前の那賀川を見に行ったが思った程に水嵩は無く 何時もよりは1~2m位高い水位かな?と思われる濁流が勢いよく流れている。我が家のアンテナ関係も目視で確認したが問題はない様だしローターの指示とアンテナの方位もずれる事無く先ずは一安心と言ったところである。



 来週の週末は彼岸の入り、今日、外に出ると彼岸花が開き始めていた。4日程前に茎の頭が地面から少し顔を出したなと思ったらスクスクト伸び今日当たりは30~50cmまで伸び早いものは花が開き始めた。子供の頃は「マンジュシャゲ」と呼んでいたが此の花ほど、子供から親の敵の様に扱われた花は無かっただろう。秋の此の季節に成ると道端の色んな場所であの毒々しい赤色の花は異彩を放ったし、其の茎の弱さから蝙蝠傘の先や棒などで刎ねるとスパッと首が飛ぶ快感は男の子なら誰でも経験の有る事と思う。道端の彼岸花は花を落とされて哀れな茎だけが立ち並ぶ通学路と成っていた。確か此の花には毒があり首を落とす時の飛沫が目に入ると目が見えなく成る等とよく親に脅かされて居た事もあって子供には忌み嫌われて居た事が其の原因と思われるのだが、「子供心の怖いもの見たさの気持ちも」影響している様にも思えた。



 我が家の前の道筋には例年、此の花が顔を出すが5年くらい前までは我が家の前の道は通学路で少数では有ったが子供が通って居たので彼岸の日辺りでは首の無い(花を落とされた)茎が並ぶ昔乍らの景色が広がっていたが最近は少子化が進み花が朽ちるまで首の付いた彼岸花が並ぶ道と成っていて是は此れで寂しい風景である。



 然しながら此の花の開花の正確さには脅かされる。毎年彼岸の此の時期に成ると遅れる事無くあの真っ赤な花で存在感を表す、年によっては残暑厳しい今年の様な秋もあれば晩秋に近い様な年も有ると思うのだが彼岸の頃に成ると必ず間違いなく花を咲かせると同時に季節を彩り其の開花の正確さと生命力を感じる。今年はまだ花が咲き揃っていないが悪童の餌食になる事も無く彼岸花にとっては正に「天下泰平の世」とでも言うべきで有ろうか?「天高く馬肥ゆる秋」と言う言葉が有るが今日の昼からの空は台風一過の真っ青な秋空が広がった言葉通りの秋を思わせる天気であった。


 

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