きままな旅

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2018/10/18 岐阜県関市の美濃古刹(大雲寺、新長谷寺)を訪ねる。

2018-10-21 | 尾張文化の会

2018/10/18 岐阜県関市の美濃古刹を訪ねる。
 『尾張文化の会』のメンバー34名と岐阜県関市の美濃古刹を訪ねた。(No403)
 行程は小牧東IC→MAGロード→富加関IC→大雲寺→新長谷寺→昼食(まごろく)→宗休寺・弁慶庵・千手院→富加関IC→美濃加茂ICで降り一般道で帰ってきた。
 当初の帰り行程は土岐JCT周りで有ったが多治見IC近辺で大渋滞の情報をドライバーが集めて判断をして一般道に切り替えた。国道41号から尾張パークウェイを通り順調に返って来ることができた。適切な情報を収集して結果は大成功であった。
 今月は岐阜県関市の「打刃物の町」である名刹を訪ねた。

✿大雲寺(だいうんじ)日蓮本宗
 開基はさだかではないが慶長6年(1601)ころ大島光義が建立したと云われる。
 寺宝として大島光義の甲冑などゆかりの品を所蔵している。本堂裏には大島家歴代の墓があり、菩提寺と云う。
 
 石標  本堂

 古い甲冑
〇大島光義雲八(うんぱち)伝説
 生涯現役と言われた武将で、ある戦場で織田信長は光義が「おばなの穂」の指物をして戦った姿を見て「雲八」の名を与えたと云う。93歳で関が原に出陣し、弓一筋で大名(美濃国関藩主)となが、関藩は4年で廃藩になった。織田信長に仕えたのが還暦近くであった。以後は秀吉や家康にも仕え、93歳にて関ヶ原合戦の東軍にも従ったという遅咲き武将です。
 また、光義の弓伝説は80歳代の時に弓の名手とうたわれ雲八は当時仕えていた豊臣秀次(秀吉の甥)から「八坂の塔の天井の小窓に弓を射こんでみせよ」と命じられたとき、一直線に小窓へ10本中10本命中させたと云われる。

 雲八の墓所

✿新長谷寺(しんちょうこくじ)吉田観音(きっだかんのん)真言宗智山派
 吉田観音と呼びばれ、市民に親しまれている名刹である。貞応元年(1222)、後堀河天皇の勅命により、弘法大師(空海)の四世護認上人の開山と云う。本尊は秘仏の十一面観世音菩薩(国重文)が祀られている。
 阿弥陀堂には鎌倉時代の木造厨子入阿弥陀如来立像(国重文)が安置され時々ご開帳があり、木造厨子入阿弥陀如来立像は青墓の長者大炊の娘で、源頼朝の愛妾延寿(えんじゅ)が頼朝の死を悼み寄進したと伝える。
 七堂伽藍(本堂、鎮守堂、薬師堂、大師堂、阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔)が室町時代後期で重要文化財(国指定)であり、すべて檜皮葺の屋根で本堂を中心にコの字型に配置されている。
 
 仁王門(境内は撮影禁止です)
 
新長谷寺のパンフレット
✿宗休寺(そうきょうじ)「関善光寺」天台宗
宝暦3年(1753)創建と云われ、寛政10年(1798))信州善光寺大勧進等大和尚が当山に出開帳が行なわれたのが縁となり善光寺を模した本堂、戒壇が建てられることとなり、文政元年(1818)に建立された。本尊は阿弥陀如来(善光寺如来)である。
・本堂(市文化財)
・大仏殿(市文化財)には木造阿弥陀如来坐像(丈六)及び両脇侍坐像が安置されている。
・大梵鐘(県重文)は明時代の作品で県下最大の鐘楼である。
・大日堂には印形の珍しい宝冠大日如来(約5m)が安置されている。

本堂(市文化財) 卍型の戒壇巡りは有名です。

大梵鐘(県重文)

大日堂
 
大梵鐘(県重文) 梵鐘の裾に特徴がある。

安桜山(あさくらやま)山頂への参道と常夜灯

✿千手院(せんじゅいん)曹洞宗
 正応元年(1288)に奈良県より関に移ってきましたとき創建と伝える。
 開基は関の刀鍛冶の祖である元重公の娘婿「千手院包永(かねなが)」です。
 元は春日神社の北に在ったが、元禄年間に現在地(西日吉町)に移転してきた。
 鍛冶兼常家の菩提寺であり堂宇には歴代の位牌が祀られている。
 ・槍(市文化財)は関鍛冶祖の一人でもある兼永中治郎が、奈良から関に移住し、特に心魂を傾けて鍛えたものと伝える。江戸時代の寛保3年(1743)旧地は春日神社の北に在ったが、火災にかかり堂宇・宝物などことごとく焼失したがこの槍のみ残った。延享3年(1746)正月に、関鍛冶の兼門惣三郎がこれを焼き直し研磨したものである。(ふるさと再発見より)
  
石標   本 堂(関市指定文化財「槍(鎗)」のポール)
・本尊の十一面千手観音菩薩は保存状態も良く本堂修復のおり、仮置きの時調査された。製作当初のものと思う墨書があった。2016年4月の発見で「元禄16年」(1703)と浮かび上がった。
 詳しくは千手院HPの「千手院の日々」より。
 
本尊の十一面千手観音菩薩(お寺の方に見せていただいた写真です。)
元重の碑は千手院の境内にあります。
〇刀鍛冶の元祖、刀祖「元重翁」の碑
 関に刀鍛冶が発祥したのは鎌倉時代であり、寛喜元年(1229)伯耆国(ほうきのくに)檜原より元重なる刀匠が関に来て、ここで刀を打ち始めたのがそもそもの発端と伝えられている。
 
元重翁の碑
✿弁慶庵(惟然記念館)
 広瀬惟然(ひろせいねん)は江戸時代の俳人であり、その惟然(芭蕉の弟子)がここ関に居た時に住んでいたのが「弁慶庵」である。
芭蕉と惟燃は芭蕉が岐阜を訪れた折、その門人となり、元禄時代には近江、京都、伊賀上野など芭蕉の旅のお供をした。
特に芭蕉晩年に師が病の床に伏すと看護にあたり師の遺言により遺骨を義仲寺に葬り恩師の菩提を弔った。
 
慶庵の入口   惟然句碑(かうゐるも大切な日ぞ花盛)
  以上 

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