野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

『国会炎上 1933年ドイツ現代史の謎』 ヒトラーは「国会炎上」の急報に「しめた!」と叫んだ 2-3

2013年05月06日 | ドイツ国会議事堂炎上・ヒトラー

  ▲ドイツ国会議事堂 四隅の角櫓と中央のドームが印象的な建物 中央ドームは焔が突き抜け崩壊した 

                                                    四宮恭二 『国会炎上』  11頁より

その2-3では国会炎上直後から警察発表の放火犯逮捕と消防隊発表との複数犯説、との二つに分かれていたのだが、その事情を深く知っている立場の者が次々と消されていく人々を追う、またナチ政権側の人の中でも、不用意に国会炎上事件の秘密を漏らした人々、史料を収集していた人までが粛清されていったことを四宮は探る。

今回は国会事務総長ラインホールト・ガレーが、パウル・ロェーベに、火災の夜のことを話したことを(恐怖のためか)全部なかったことにしてくれと懇願された 元ドイツ国会議長 パウル・ロェーベ の 戦後の回顧談のこと 恐るべき粛清のこと

国会事務総長ラインホールト・ガレー の罷免

ラインホールト・ガレーは、国会火災の夜、消防総監のゲムプとともに国会前の記者会見に立ち会って説明に当たっていた。

元国会国会議長パウル・ロェーベ「エルクレールング 言明」 (1963 戦後にかかれた著)によると

「元国会国会議長パウル・ロェーベはブレスラウにいたので、国会火災の報を受け早速ベルリンの帰り、翌日国会にかけつけ、その議長時代からの事務総長ガレーに案内されて、館内を見て廻り、ファン・ルッペが進入したという窓も一見した。」

「ガレーは、3000冊の蔵書が炎の犠牲にならなかったことを、不幸中の幸いだったとも言っていた。彼は、後日国防相ブロームベルクや、その幕僚からも、事態について、突っ込んだ質問を受けたようだった。ロェーベ自身もガレーとは長年のつきあいだったし、火災後は、彼を事情通の第一人者の一人として、いろいろのことを訊いたし、彼もまたロェーベを信頼して、例えばこんなこともしゃべった。ーーーー

27日(火災当夜)の二、三日前、から、国会議長公邸には、見知らぬ当直員が設営していたことを門衛が確認していた。ただガレーは、予審でも、法廷でも、この宿営のことについては、一言も述べていないのだが、何かそれらしい部隊が公邸にいて、しかもその部隊は、単なる警備とはまったく違った任務を与えられていたらしいことは認めた。ーーーーー」

「国会大火の二、三日後、取り乱した態でロェーベのところにやってきて、彼がこれまでロェーベに打ち明けたことはみんな忘れてくれ、と懇願した。例えば、大火の二日後、ゲーリンクがすっかり真剣な調子で彼にほのめかして、あのとき犯人が、地下道を通って進入するのは、とても不可能だと言ったこととか、また同じくゲーリンクから、国会事務局内でささやかれる「馬鹿ばなし」についてまで、ガレー個人の監督責任を問うことを申し渡されたことなどである。ロェーベは、事態をよく理解したので、生命のの脅威を感じていたらしいガレーに、なにごとも良心に従って判断するよう忠告してやったというのだが、オーベル・フォーレンについても、あとで、自分がふるえ上げっていたほど、軽率なことをいろいろしゃべったそうである。なお、そのときガレーから聞いたところによると、すでにそのころ、夜警の門衛が、余計な、嘘をついたかどによって、監禁されていたらしい」 (Hofer,W,Bd2,Anhang,S,447)からの引用 四宮 (124p~126p)

「ゲーリンクの指令による当時の捜査は、およそこの調子だった。だから、彼の警察官たちの前で、真実を述べるとは、いったいどんな意味をもっていたのだろう。そんな場合には(もし真実を述べるとすれば、)われわれは、われわれ自身の死の宣告に署名するようなものだったろう。ナチの監獄の内情を知らないものは、ほんのひとこと言い過ぎると、どんなことになるかが、解っていない。国家の法廷をあずかる裁判官たちのうちにも、規定された審理の経過について、一部には、非常に悲しむべき、地位におかれた者があったということは、われわれには公然との秘密だったのだ」 (ホッファーが著書で引用のロェーベのことばと思われる ブログ主 ) (Hofer,W,Bd2,Anhang,S,447ー448) 四宮(126p~129p)

その後、

1933年6月21日~26日 コェペニックの血の週間

と言われる大量虐殺事件が起きる。死者91人、負傷者約500人合わせて約600人が、SA第15師団旗下の団員による国家テロの犠牲となった。

「過酷な拷問や、惨絶な殺人行為の犠牲者側には、コェペニック在住の社会民主党員や、共産主義者ら、本来の反ナチ的敵対者が多かったことはもちろんだが、

どうしたことか、この事件の場合、これら本来の、「敵」のほかに、ナチ自党内およびSA内のいわゆる「反党的分子」と見られる者がいたことは注目される」 という。 (四宮 133p) 

 どうも四宮が、調べたところでは、この多くの犠牲者の中には、共産党員・社会民主党員への、とどめの一刺しの虐殺行為とともに、また、ナチス側のSA隊員の軽率な国会炎上の秘密を漏らした人々への処分も含まれていたとみている。 

[コェペニックの反ファシストたちをあれほど執拗に苛酷にやっつけたのははほかでもない、、これら反ファシストたちが、国会に放火したのは、ナチどもだったことを知っていたからであり、事実コェペニックでは、これがほんとうであることが、とりわけ真剣に言いふらされていた。」 (Hofer,W.,  Reichstagsbrand, Bd.2,a.a.O.S.317)(四宮・137P)

ナチス・ヒトラーによる、知りすぎた者・反抗する者に対する粛清は、「コェペニックの血の週間」 だけではなかった。

 

1934年6月30日~7月2日 「ロェーム粛清事件」

 ヒトラー支配再強化のための邪魔者殲滅作戦 (四宮のことば)

SA幕僚長、エルンスト・ロェームを首領とする一派のSAの反ヒトラー一揆の陰謀を理由として、これらの一派に全面的粛清の断を下すとともに、これにからめ、党内外人物、ナチにとって、好ましからざる関知者への抹殺を実行した一連の殲滅作戦。

殺された関知者の中には、前年の、コェペニックの血の週間であやうく難を逃れた人も、ついに抹殺された例も少なくなかった。

四宮は、ジャーナリストのオットー・フォン・ハイデブレックが語ったこととして、次のような粛清された重要な人物を掲げている。

コベリンスキー (SS隊長)

ハンス・ペーターフォン・ハイデブレック (オットーの兄、シュスティーンSA軍団長)

ゲオルク・フォン・デッテン (SA軍団長,SA最高指導部政治局長)

エドムント・ハイネス 

オイゲン・フォン・ケッセル (警察大尉)

エーリッヒ・クラウゼナー博士 (プロイセン内務省元警保補局長)彼は一揆とは何の関係もなく、ひとえに、国会炎上の背後事情の関知者として排除されたことは間違いない。ただ彼の死は、オーベルフォーレンと同じように公的には自殺とされた。(四宮・146p)

オイゲン・フォン・ケッセル (警察大尉)については、弟のハンス・フォン・ケッセルが、書いている。それによると、彼は、6月30日の直前、兄オイゲンと相談して、、国会火災とオーベルフォーレン殺害に関するとりまとめた調査録を、ベルリン駐在スイス代理大使に託して、外国へ持ち出す計画をたて、スエーデンへ出国し、情報をばらまく予定だった。これが、6月30日オイゲン(兄)が殺害されたことにより挫折し、証拠は、ゲシュタポに押収されてしまった。このいきさつだけは、戦後ブエノス・アイレス駐在のスイス大使となったエドアルド・フェーア博士によって確認された。 公的記録には例によって自殺とされているが、弟ハンスによれば、内務省でゲシュタポに逮捕され、その住居は家宅捜査され、その場で射殺されたという (四宮147p~148p)

 この「ロェーム粛清事件」の犠牲者表の中に、エルウィン・ヴィラインの名が、ハイネス、エルンスト・フォン・モーレンシルト、ザンダーなどこれまで放火の正犯として名の出た、SA隊長連中に混じって、ちゃんと載っている。

ヴィラインといえば、1年前のコェペニック事件では、拷問の血の仕置人の先頭にたって人々を戦慄させた、当時のSA旗団付の暴力医師として、蛮名を馳せた男。

それが、まる1年後のロェーム事件では、政府やナチ指導部にとって、生かしておけない処刑者の一人として、SSの標的とされたのである。 (四宮・165P~168P)

これらの一連の粛清事件により、国会炎上事件に関わる下部実行犯グループはほとんど一掃されて、事情を知る政権内部の高官や、永久に沈黙を決め込む関知者のみになっていくのだろう。

ヴィラインという男はナチ医師会長の地位をめぐってSS隊付医師ロナルド・コンティとの間に名誉裁判抗争があり、この事件を担当していた、ヘルムート・シュタングという法律家に集められた書類に基づく証言などから、国会放火参加の輪郭が明らかになってきた。

「ヴィランが告白している、放火への参加事情は、こうだったらしい。

彼は、まず、10人から14人くらいまでの選り抜きのSA及びSSのグループを率いて、火災前36時間ないし48時間に国会議長公邸にくり込み、ひそかに待機した。つまり、共産党の蜂起にそなえて公共建造物を護れという指令だったのだ。ところが、事の起こる直前になって、グループは国会建物に共産党が放火したから、この火事を「大きくさせろ」という突然の新たな命令を受けたわけだー 」 (四宮・166p~168p)

どうやら国会放火行動班の総指揮は、SA隊付き医師、ヴィランがとったようである。彼もその部下も、国会侵入には地下道を利用したらしい。(四宮・167p)

国会放火実行犯の名前がたびたび上がったヴィランを含む行動班は、上にあげた一連の事件により、国会炎上の背後関係を彼らが知りすぎていた故に、計画を立てたナチス高官の命により粛清されたのだろう。

ところで、多くの行動班を待機させる部屋は国会議長公邸にあったのだろうか。また国会議長公邸から、国会へ通じる地下道はほんとうにあったのだろうか?

また、1933年2月25・6日頃に、国会議長公邸や地下道で、これを裏付ける目撃証言はあったのだろうか。

多くの実行行動グループは1930年代までに粛清され、政権内の情報収集者までも消えていった中で、戦後まで生きのびた人の中に確実な証言はあったのだろうか。

四宮は、当時国会議長公邸のボイラーマンだった人物の証言がそれであるとする。

 

  ▲国会議長公邸 の平面図  四宮 『国会炎上』 (382p~383p) より

 

  

  ▲ 国会議長公邸と、国会議事堂との一関係 1が国会、2が国会議長公邸 四宮 『国会炎上』 (380p) より

 

続く

国会炎上事件の当時、国会議長公邸でボイラーマンをしていた、ハインリヒ・グルーネワルトは、きわめて重要な証言を戦後になってもたらした。国会議長公邸から、国会へ通じる地下道をめぐる謎 は次回へ 近日中にUP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る