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本日の到着便 古代編 『ヒストリア』228号 河内大塚山古墳と「辛亥の変」 2011年大阪歴史学会 その1ー1

2015年06月22日 | 初期国家・古代遊記

                                   ▲『ヒストリア』228号 2011年 大阪歴史学会

 

 

本日の到着便 古代編 『ヒストリア』 228号  特集 河内大塚山古墳と「辛亥の変」 2011年 大阪歴史学会 その1-1

河内大塚山古墳は、未完成の王墓(安閑陵古墳)だったのか!?

どのような論拠から?未完成の古墳といえるのだろうか。

今回はヒストリア228号 特集論文の紹介。

刊行当時この特集号は話題を呼び、評価が高く、すぐ入手したかったのだが、3.11の震災後の大混乱故、整理が思うようにはかどらず、考古・古代史関資料分野極力圧縮する必要に迫られる。

古代史の分野も少し手を広げ過ぎていた大風呂敷を小さく折りたたみ、どうしても調べ残したいと思っているいくつかの狭い分野に関心を集中したいと思っているのだが。

倭の五王時代のあと、また前方後円墳が和泉・河内・三島から大和地方に復帰する様相をみせるのだが、その後、前方後円墳が終焉する6世紀時代後半期ころまでを扱う気になる名著・論著は読んでおきたいと思う。その流れで、継体→欽明前後の特に不明な史実を、考古・文献史を交え、相互交流の場が展望できる知見は得られるのだろうか。

 

 ▼ 『ヒストリア』228号  特集号 内容 論文3本

 

まずは、岸本直文 「河内大塚山古墳の基礎的検討」 から

今回の特集号の総論的論文か、考古学で古墳形態の変遷や、古墳時代編年をめぐる総括的論文を近年集中的に著しているので、今回の特集にまさにぴったりかもしれない。岸本さんの動くところ、論争が活発となり、論者は参加する気配。おおいにけっこうなことである。この論に関してまだ、この業界の最新情報を得ていないので、どうなっているのだろう。

この特集で考古学・文献史双方の論議は活発になってきているのだろうか。

  ▲河内大塚山古墳背景写真+墳丘図面 橿原考古学研究所提供 (9頁)

 

1993年に修正された、河内大塚山古墳の測量図や現地立ち入り成果を踏まえて、岸本は、河内大塚山古墳を以下のように記す。

陵墓図からは

墳丘長 約335m、後円部径約180m、前方部幅約220m、周濠肩部まで含めると、主軸長約410m、前方部幅約350m。

立ち入り所見では、墳丘部は狭く、直径25m程度、最高点が標高45.5m、墳丘裾部標高26m、汀は1m下がり、約25mとすれば、汀から後円部の高さは20m強。後円部南に、横穴式石室の天井石と一般に言われている「ごぼ石」が存在。

前方部

広大な平坦面。剣菱形の前方部前面。前方部の高さ4~5m、後円部との比高差15~16m。

周濠

底面は平らで、しかも浅いようだ。堆積によって浅くなったのではなく、掘り込みが浅いようだ。

未完の巨大前方後円墳と考える論拠

前方部が低平であること、後円部の下段と同じ高さであること。これは周濠掘削による下段成形のままの状態と推定。葺石がないこと、埴輪がないこと、6世紀末の畿内ではまだ埴輪が残存するのに、この古墳にはない。造り出しがない

以上のような所見から、築造途中の停止を裏付ける。と見ている。

 

岸本直文は大仙古墳 → 土師ニサンザイ古墳 →  今城塚古墳 → 河内大塚山古墳 → 五条野丸山古墳への推移を考えている。(下図参照)

河内大塚山古墳は、古墳の墳丘形態からは、今城塚古墳と、五条野丸山古墳の間の形態的特徴を持つという。石室構築位置の下降、後円部の縮小などが読み取れる。

 

  ▼右 今城塚古墳とニサンザイ古墳の古墳比較 、左 今城塚古墳と河内大塚山古墳 (19-20頁)

 

 

 ▲上 五条丸山古墳と河内大塚山古墳 (20頁)

 

継体正妃の手白香皇女墓は西山塚古墳と考えられているが、そのほかについても、王墓と正妃との対応は下図の通り、王墓と正妃の墳墓の規模はかなり格差があるのがわかる。

▲『ヒストリア』228号 2011年 大阪歴史学会 岸本直文論文 22頁

 

河内大塚山古墳は、古墳測量図、古墳形態の現地調査などから、築造を停止したものと考えている。

これは、文献記事では、『日本書紀』継体25年条の『百済本紀』引用の「辛亥の変」に対応する。

継体天皇陵(今城塚)は完成し、埴輪祭祀も発掘調査で樹立していたことが明らかであることから、岸本直文は、継体の死、葬送以後のこと

 政変は「安閑の排除と考える。」 (22-23頁)としている。

 安閑没年は『古事記』、『日本書紀』 ともに535年であるので、政変は535年とみる。

 継体没年はいろいろ説があるが、河内大塚山古墳の造営が進み、埴輪工房も大がかり稼働を一定年限行っているので、『古事記』崩年干支により527年とみるのが理解しやすい。

このことから

 欽明が532年に即位した可能性は否定できない。527年に継体が没し、安閑が王位を継承するが、一方で532年に欽明が立てられ二朝並立状態となり、535年に安閑が殺害。(22ー23頁)

岸本直文はこのように解くのであるが、「ヒストリア」特集号執筆者ほか2名はこれに対して、河内大塚山古墳と「辛亥」の変をどう考えるているのだろうか。

 

つづく、

次回は十河良和 「日置荘西町窯系円筒埴輪と河内大塚山古墳  ー安閑未完陵説をめぐってー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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