▲柄谷行人「反復強迫としての平和」『世界』 2015年9月号
本日の到着便 柄谷行人「反復強迫としての平和」『世界』 2015年9月号 その3
柄谷行人「反復強迫としての平和」はその1とその2があります。 ▼ここ
本日の到着便 柄谷行人「反復強迫としての平和」『世界』 2015年9月号 その1の1
本日の到着便 柄谷行人「反復強迫としての平和」『世界』 2015年9月号 その2
柄谷行人 「反復強迫としての平和」 の講演草稿の抄録
1 カントの平和論が意味するもの → 8月8日 当ブログ 抄録あり
2 歴史的段階としての新自由主義 → 8月9日 当ブログ 抄録あり
3 フロイトの転回と平和論 →本日 8月10日 当ブログ
4 憲法九条と無意識 →本日 8月10日 当ブログ
5 結語 →本日 8月10日 当ブログ
3 フロイトの転回と平和論
「フロイトはカントに冷笑的だった。しかし、後期フロイトは彼の意に反してカントに類似している」
「前期フロイトの考えでは、戦争における野蛮さは、ふだんは抑圧されていた、「感情生活」が、国家そのものがその抑制を解き放ったために露出したものにすぎない。」
したがって、
「われわれは、この盲目性が、興奮が醒めると同時に消えさるのを希望することができるのだ」 フロイト「戦争と死に関する時評」『フロイト著作集5』人文書院
「しかし、第一次世界大戦後、毎夜戦争の悪夢を見て飛び起きている戦争神経症患者と出会い、現実的原則と快楽原則という二元的枠組みでは説明できない事項に気がついた 」
「反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快楽原則をしのいで、より以上に根源的、一時的、かつ衝動的であるように思われる。」 「快楽原則の彼岸」」『フロイト著作集6』人文書院
「戦争神経症における反復強迫は、たんにショックの名残ではなく、それをくり返すことで、ショックを乗り越える活動」
「現実原則あるいは社会的規範によっては、攻撃欲動を抑えることはできない。したがって、戦争が生じる。では、それはどのように抑えられるのか。」
「フロイトが、このとき認識したのは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃(自然)だ、ということ」
「フロイトは、1933年どうすれば戦争廃止できるかというアインシュタインの問いに答えて、戦争を廃止するためには、各国の主権を制限する国際連邦を形成するだけでなく、人々が戦争行為に嫌悪を感じるような文明化(文化)が不可欠であると述べた」
「戦争への拒絶は、単なる知性レベルでの拒否、単なる感情レベルでの拒否ではないと思われるのです。少なくとも平和主義者なら、、拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはずなのです。戦争への拒絶、それは平和主義者の体と心にあるものが激しい形で外にあらわれたものなのです。私はこう考えます。このような意識のあり方が戦争の残虐さそのものに劣らぬほど、戦争への嫌悪感を生み出す原因となっている。と。」 (『ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡』
4 憲法九条と無意識
「憲法九条は護憲勢力によって守られているのではない。その逆に護憲勢力こそ憲法九条によって守られている」
「日本人は九条を強制されたあと、それを自発的に支持した。そして絶え間ない批判、世論操作にもかかわらず、それを維持した。これをどう説明すればよいでしょうか」
「憲法九条には強い倫理的な動機があります。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではないのです」
このような問題に関して、フロイトはいう。
「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果その結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明のままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって、強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。」 1924年、「マゾヒズムの経済的問題」 『フロイト全集18』 岩波書店
「近年、安倍内閣は、東アジアで挑発的に振る舞い、諸国の間に憎悪と恐怖のスパイラルを作ろうとしてきた」
しかし、九条を変えられない。
「もしそうすれば、安倍内閣は吹っ飛んでしまうからです」
「結局、日本人は憲法九条から離れることはない。したがって、私は今後の状況について悲観的であるとともに、楽観的です」
5 結語
「憲法九条は、憲法前文にあるように、国際社会を前提しています。具体的には、戦後に生まれた国連です。ところが、現在、国連はかつてもっていた力も無くしてしまった。そのため帝国主義的な状態が露骨に出てきた。」
「したがってカントの平和論が再び大きな意味をもつようになった。」
「私は最初にこう述べました。カントが『永遠平和のために』を構想したのは、元来、市民革命のためだった、と。」
「一国だけで、革命が起こるなら、それは周囲の旧体制(絶対王政)の国家から干渉を受けて、挫折してしまう。だから、カントの平和構想は、世界同時市民革命の構想」
「資本=国家への対抗運動」の世界的連帯」と「国連のような現実的制度とどうつなげるか。」
「新たな「国連改革」が必要」
カントのいう「世界共和国」の道を笑うのは簡単だが、迫り来る戦争と破滅を越えるのはカントの「自然の狡知」を認めることになろう」
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アメリカのネオコンの論客ロバート・ケーガンは、2003年イラク戦争の時、米国の軍事行動に反対した「国連」を「「古いカント的な理想主義」として非難し、それに対しホッブスを対置させた。またアメリカ国防長官のラムズフェルドは、イラク戦争を非難して、参戦を拒んだドイツとフランスに対し「古いヨーロッパ」と罵った。
しかし先の2回にわたる世界戦争の残酷を身体の底から学び、歴史的身体として引き受けざるを得なかったのは、アメリカではなく、ヨーロッパであったのは間違いのない史的真実ではないだろうか。カントの「自然の狡知」が働いたのだ。
アメリカの好戦派の論理は、民主党のオバマ政権になってからでも変更はほとんどない。かつての帝国主義・ファシズムとなんら変わるところもなく、支配したい欲望のおもむくまま、このところ、毎年のように国民国家を破壊するのを支援している。ウクライナの社会状況を子細にみたらすぐにわかるだろうに。欧米も日本のメディアも同じように、ウクライナの社会混乱をプーチンの陰謀のせいにしている。
さて、柄谷行人は、世界史の構造を解読する大枠を見いだした後
パックス・アメリカーナの終焉の省察
「反復強迫としての平和」
日本国憲法成立の世界史的経緯などを指摘した上で、
近年の柄谷の自分自身の仕事をふりかえりながら、 またそれにとどまらない平和のための実践的課題を示した講演要旨であると思う。
柄谷行人のアジア・欧米の枠を越えた歴史の構想力に拍手を送りたい。
柄谷はもう70代の半ばにさしかかっているはず。
団塊の皆々様
「世界同時市民革命の構想」の見通しについて関わることなしに、ひとり孤独に耄碌してはなりませんぞ。
▲ カント 中山 元 訳 『永遠平和のために/啓蒙とは何か他3編』 光文社古典新訳文庫 2006年 定価648円+税
長らく、カントの『永遠平和のために』は、岩波文庫のものが親しまれてきたのだが、中山 元によって、カントを講壇哲学者から、市民のものに取り戻してくれた。柄谷行人のカントとマルクスを交通させる試みとともに、中山元の一連の仕事も評価したい。
つづく