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朴 天秀 「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」が面白い

2012年07月11日 | 初期国家・古代遊記

5月22日のブログで、太田博之「埼玉中の山古墳出土の有孔平底壺系円筒形土器」『考古学雑誌』90-2 2006年 のことをメモしていたのだが、朴天秀の論考や、彼の著『加耶と倭』を再読しようと、あれこれ探していたところ、偶然「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」の論考をネット上で見つけた。九州国際大学 国際関係学論集 第5 巻 第1・2 合併号(2010)に掲載されたものだ。倭人が造った前方後円墳をより具体的な事象と関連させて論じていて、とても興味をそそられたのだ。

 

以前に、日本の教科書記述をめぐり、日韓の過去の歴史や歴史解釈をめぐって鋭く対立していた。これを放置せず、乗り越えようと「日韓歴史共同研究委員会」がたちあがり、日韓の双方の歴史研究者が、互いに国際会議を積み上げ、共通理解できること、あるいはできないことを、友好的・かつ鋭く論じ合ったことが記憶に残る。古代から、近現代にいたるまで、各セクションにわかれ、大部な報告書が刊行され、今ではインターネット上で、その報告書を読むことができる。

下記のアドレスをコピーして、アドレスにペーストしてください▼

http://www.jkcf.or.jp/projects/kaigi/history/

 


日韓歴史共同研究報告書
  
第1期(2002~2005年)  報告書(2005年6月公開)

http://www.jkcf.or.jp/projects/kaigi/history/first/1-1/

第2期(2007~2010年)  報告書(2010年3月公開)

http://www.jkcf.or.jp/projects/kaigi/history/second/2-1/

古代部会においても、文献史家が中心で、なかなか共通理解にいたらず、日韓共通の古代教科書をつくるというのは、至難のことであると痛感させられた。

以前から、「広開土王碑」の解釈や、「日本書紀」の信憑性、「三国史記」の信憑性など、なかなか、双方の解釈に、大きな隔たりがあり、入り口さえ、見つからず、したがって、出口など も 見えなかったというのが実情であった。

しかし、考古学の分野では、「韓式系土器研究会」や、「九州考古学会・嶺南考古学会合同考古学会」など10年・20年と、共通理解を求めて研究が蓄積されてきた歴史があり、次第に、現在の国家領域観・価値観を無意識的に投影させず、「遺跡・遺物・事象」そのものを「どのような認識のものさしで測るか」ということ を より自覚的に考える人があらわれはじめていることは、注目してよいことのように思える。

そのような中で、2010年の朴天秀の論考は、論争の一つの、栄山江流域の前方後円墳を読み解く優れた展望をみせてくれたと思う。

「栄山江流域における前方後円墳の被葬者の出自と性格について韓・日両国で活発な議論が行なわれてきており、その被葬者像は在地首長説、倭人説に大別される。さらに後者は倭からの独自的な移住説、倭系百済官僚説などの説が提示されている。」

と 研究を整理をした上で、下記のような説を掲げる。


「栄山江流域における前方後円墳は継起的に古墳が造営された地域には出現しないという共通した様相を見せている。すなわち、在地的な古墳系列を持たず、5 世紀末から6 世紀前葉にかけて突如として現れることから、在地首長墓とは想定しがたい。」

「栄山江流域における前方後円墳の被葬者は、横穴式石室、繁根木型のゴホウラ製貝釧、栄山江流域産の土器の分布、江田船山古墳の副葬品のような百済系文物の分布から周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊池川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定できる。」

そして

「栄山江流域における前方後円墳被葬者の性格と役割」については


「新徳古墳出土の頸飾は武寧王陵で、銀張鉄釘と鐶座金具が使用された装飾木棺などは百済地域の首長墓で、使用されたものであり、馬具も百済で製作されたものと考えられる。また、月桂洞古墳でも 銀張鉄釘と鐶座金具が使用された装飾木棺が確認された。これらは百済王室からの下賜品と判断される。」

また

「丹芝里横穴墓群の被葬者は、出自、出現時期、性格が栄山江流域の前方後円墳の被葬者と相関関係を見せ、前方後円墳被葬者の出自と百済王権との関係を雄弁に物語っている。」

とするのである。

そして、極めつけは次の日本書紀の記載

「479 年、『日本書紀』雄略23 年の記録によれば、百済「の三斤王が死去した際、
東城王の帰国を筑紫国軍士500 人が護衛したという」
 (この文 朴天秀による日本書紀雄略23年条 要約部分)

雄略天皇23年条にはこうある。

以下中央公論社版 井上光貞監訳 佐伯有清・笹山晴生 訳『日本書紀』による。

「二十三年の夏四月に、百済の文斤王が薨じた。天王(原資料は大王か)は昆支王の五人の子の中で、第二子である末多王が、幼年なのに聡明であるので、勅して内裏にお召しになり、親しく頭をお撫でになって、ねんごろに誡められ、その国の王となさった。そうして兵器を賜い、あわせて筑紫国の軍士五百人を遣わして、国に送らしめた。これが東城王である。この年に百済の調賦が、いつもより多かった。筑紫の安致臣・馬飼らが、船師を率いて高麗を撃った。」


これを

「栄山江流域の前方後円墳の石室構造が北部九州系である点、北部九州地域における百済産の威身財、栄山江流域の倭系古墳に甲冑や刀剣などの武器・武具が顕著に副葬されるという考古学資料と符合する。したがって、護衛のため韓半島に渡った彼らが帰国せずに栄山江流域に配置され、百済王権に仕えたと推定される。」

とするのである。

「栄山江流域における前方後円墳被葬者の役割」 については

「百済は栄山江流域最大の中心地である潘南地域は、在地首長をとおすことで間接的に支配し、その周辺は外郭から前方後円墳の被葬者のような倭系の百済勢力を移植することで、在地の豪族勢力を牽制するといった両面的な政策をとっていたと考えられる。」

と考えるのである。

また継体6年条に関しては下記のように考えている。



「512 年、『日本書紀』継体6 年、任那四県の記事に見られる哆唎国守の穂積臣押山の存在であり、倭人が百済の地方官として、対大伽耶攻略、対倭交渉に活動していたことを物語っている。」


「百済による倭王権と九州北部の豪族勢力に対する両面的な外交戦略は、韓半島と日本列島における百済の影響力を強化し、その一方で北部九州勢力も、日本列島における影響力を強化するというように、相互に理にかなったものであった。その仲介役を担った栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、百済王権に臣属しながら倭王権と百済王権間の外交で活躍した人物と推定することができ、欽明紀に見える倭系百済官僚の原型とも言える。」


「6 世紀前葉における突如とした九州勢力の興起を象徴するのは、北部九州系石室の拡散と、華麗な装飾古墳の存在である。その背景には、栄山江流域における前方後円墳の被葬者を仲介とした北部九州勢力が、百済の先進文物の受け入れの窓口的役割を担ったことに起因する」



「栄山江流域の前方後円墳被葬者を含めた北部九州の有力豪族の対外活動が頂点に達し、倭王権をおびやかすようになった。倭王権をおびやかすようになった。その結果が527 年に起きた磐井の乱(戦争)と考えられる。その後、百済による栄山江流域の直接支配と百済の対大伽耶攻略が一段落する状況下で、当地における前方後円墳の造営は停止するようになる。」

そして、終わりにこのように論考を結ぶ。

「栄山江流域における前方後円墳被葬者が倭人かどうかの議論は、もはや意味がない。彼らがどうして海を渡ったのか、その歴史的な背景の解明こそが、 今後の研究の課題である。これには栄山江流域における前方後円墳のみではなく、加耶地域の倭系古墳を含めた総合的な分析が必要である。以上のような分析をとおし、百済王権、大伽耶王権、九州勢力、そして倭王権における錯綜した関係の解明とその歴史的な意義を提示することをこれからの課題としたい。」


朴天秀は、栄山江流域における前方後円墳被葬者を明確に倭人であるとする。

今後の彼の課題追求に期待したい。

またひるがえって、

「日本書紀」に見られる、倭国の民族中心主義的・小帝国主義的な要素を的確に取り除き、その中に存在する史実を、吟味しなければならないと考えられる。「三国史記」「広開土王碑」も同様な吟味が必要だろう。

栄山江流域の前方後円墳や北九州の考古学的成果は、高句麗と百済との475年前後の戦いによる、百済の危機・加耶諸国、新羅等も含めて巻き込んだ、倭国の政治的激動をも考察の対象にせざるを得ないようである。
そのような錯綜した関係だったからこそ、なかなか読み解くことが困難だったのかと思える。
 それにしてもこの時期を精査し、時系列を整序するために、10年単位程度まで細かい倭と韓の共通土器編年などはどうしたら可能になるのか。

北九州の前方後円墳の一部に見られる、栄山江流域に共通する要素の 「有孔平底壺系円筒形土器」あるいは埼玉県埼玉古墳群 中の山古墳の「有孔平底壺系円筒形土器」も東アジアの錯綜した古代(初期国家)国家のせめぎ合いの中でもたらされたものであるだろう。

 ここまで、朴天秀の論を写してきたのだったが、それでは朴の論は、栄山江の5~6世紀の動きを語りつくしているのかといえば、まだそうとも言えないのではないか。
在地系の墳墓と百済との関係、栄山江流域の一般集落と在地系墳墓の関係、栄山江流域の前方後円墳と在地系墳墓との関係など、まだまだ、緒についたばかりの部分もあるだろう。

朴天秀は、前方後円墳の被葬者を先に紹介したように倭人(百済王権の関与のもとの)としたが、百済王権の府官制というか、百済王権の力が、5世紀後半の時点で栄山江流域の全体に直接及んでいたのかということになると、在地性のある墳丘墓などをも考慮すると、「慕韓」という領域、百済には直接的には属さない領域がまだ存在していた可能性もあるだろう。

『日韓歴史共同研究報告書』2010年 の中で、森公章は、「倭系百済官僚」説に触れ、百済の臣としてなら、なぜ前方後円墳の形態の墳墓で、百済王権に臣従する者の古墳が、百済王権の墓より大きいのかという疑問に答えられないとして、土生田純之の説を紹介しながら、疑問を投げかけている。
5世紀「慕韓」という、百済王権下にはまだ属していない領域について、森公章も触れていた。

 つい最近、『第15回 九州前方後円墳研究会 発表要旨 沖ノ島祭祀と九州諸勢力の対外交渉』九州前方後円墳研究会 2012年6月12日発行 を入手した。

読み始めたばかりなのだが、高田貫太の「朝鮮半島における「倭系古墳」築造の歴史的背景について」という論考が目にとまった。

そこでは、被葬者像を「倭人か、在地人か」という出自にひとまず収斂させずに考えるということ。高田のことばにしたがえば
「築造の契機や被葬者・造営集団の活動を、ある特定の政治勢力の意図によるものと画一的に把握してしまう危険」 を超えること でもあるということだろう。
 

 彼は「境界を往来する人」という ことば を文末に掲げている。

なかなか含蓄のあることばである と 思う。
 
 政治的境界・文化的境界 このような境界を往還する人々を、一国の共同体の価値基準・規範から把握しようとすれば、おのずと限界や論理矛盾が生じるのではないか。

「歴史上、共同体や国家の生成として、存在したと記述はされなかったが、存在しなかったとはいえない、境界にある人々の文化融合・運動の痕跡というもの」 が おそらく世界の歴史には 無数に あったのではないか。


 (続く)












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