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埼玉中の山古墳出土の有孔平底壺系円筒形土器

2012年05月22日 | 初期国家・古代遊記

太田博之「埼玉中の山古墳出土の有孔平底壺系円筒形土器」『考古学雑誌』90-2 2006年 を面白く読んだ。稲荷山古墳から出土した鉄剣は古代史上の大きな発見で、倭の五王についての新しい知見をもたらした。中の山古墳は稲荷山古墳に比べると大きさも小さく、考古学の世界では、「韓国の前方後円墳」ほどは話題になっていないようだ。  しかし、記紀における「武蔵」は韓半島と往来する人物なども記述され、地域史を考える上で「記紀」は一考の価値があるようだ。 

 

 中の山古墳から出土した「有孔平底壺系円筒形土器」は従来の埴輪の形状とは大きく異なり、系譜がよくわからず、さまざまな考え方があった。その後韓国や、九州地方にも形態の類似したものが確認され、より詳しく論議されるようになってきている。なぜこのような、類似した形態のものが、日韓にわたって存在するのか。

 これまでの研究史や、韓国出土の同系譜の円筒形土器については、この太田論文や、朝鮮学報179号・180号の各論考に詳しい。朝鮮学会の論考はシンポジウムの記録とともにのちに『前方後円墳と古代日朝関係』同成社 2002年となって、入手しやすくなっている。(でも、この本、一般人には、本体8000円税込みで8400円、なかなか手が届かない価格だ。このような本が、人口5万以下の小さな市立図書館の開架図書にに並ぶことがあったらなあと思う。いつになった可能になるのだろう、もし市立図書館でこの本が並んでないのなら、ぜひリクエストして市で買ってもらおう)

 さて問題が脇道にそれたので戻す。

 中の山古墳から出土した「有孔平底壺系円筒形土器」に類するもの出土しているのは大分県日田市天神山2号墳である。この古墳は全長63m、外堀出土の須恵器坏蓋が須恵邑編年のTK10段階ということで、築造時期は6世紀前半としている。人物形の石製表飾品も出土している。九州八女市岩戸山古墳群との文化的関連もあるのかもしれない。
 このほか「有孔平底壺系円筒形土器」が出土しているのは、福岡県嘉穂郡稲築町の次郎太郎2号墳。未調査のまま消滅したが、出土した須恵器器台が須恵邑編年のMT15段階、蓋坏がTK10段階ということで、築造時期は6世紀前半とされる。

 韓国で調査により出土した遺跡は伏岩里2号墳(全羅南道羅州市)墳形は最終的には長方形墳、「有孔平底壺系円筒形土器」のほかに、陶質土器もともなう。調査者は5世紀中葉前後の年代を想定している。長期にわたり改変された古墳なので、詳細な年代確定は困難なようである。日本の研究者は5世紀末から6世紀前半としているようだ。

 チュンナン遺跡(全羅南道咸平郡津良里)栄山江支流域
方形周溝とされる遺構から「有孔平底壺系円筒形土器」が出土。灰色の還元焼成の資料を含むことから窯焼成と考えられる。

このほか発掘資料ではないが、培材大学所蔵品、および伝界火島出土品(全羅北道扶安郡界火面)がある。胴部に黒斑あり野焼きの可能性が高い。

形態および焼成の変化などから、朝鮮半島出土の「有孔平底壺系円筒形土器」は、培材大学所蔵品→ 伝界火島出土品→ 伏岩里2号墳→ チュンナン遺跡の順で器高の長大化が進んだする。年代は伏岩里2号墳が共半遺物から5世紀中葉前後、チュンナン遺跡出土資料が6世紀前半から中葉頃。


中の山古墳から出土した「有孔平底壺系円筒形土器」は型式変化の流れ(方向)は共有しながらも、ある共通の祖形から個別的に派生していることを想定すべきという。

中の山古墳出土の「有孔平底壺系円筒形土器」は韓半島との交流を物語っているのは間違いのないことと思わせる。


では、古墳時代の武蔵・埼玉は韓半島との交流を文献の上で探せるだろうか。

これがあるのである。

『日本書紀』神功皇后の代(四十七年)に百済・新羅に派遣された千熊長彦が出てくる。
 千熊長彦はその氏の名がはっきり分からない人物である。一説によれば武蔵国の人で、・・・・というくだりがある。

また、雄略天皇十一年の鳥飼部の設置の説話の中に「信濃国直丁与武蔵直丁寺宿」とあり、雄略天皇(倭王武)の時、天皇近くへの出仕・上番していた様子が「日本書紀」の記述から伺えるのである。
 稲荷山古墳出土鉄剣はあまりにも有名だが、雄略天皇(倭王武)の頃には、東国地方は、ここに記された信濃地方の人たちも含めて、王権を支えるための職掌についているのではないだろうか。
そして、先の神功皇后の代の(武蔵国の)千熊長彦の百済・新羅派遣記事は雄略天皇(倭王武)よりも前の時期に東国出身者が王権のもとで海外派遣に動員された可能性を示唆しているのではないか。
 武蔵地方に確認される5世紀前半~中頃のタタキ痕のある製作技法でつくられた円筒埴輪は韓半島の土器製作の技法と関連している。武蔵地方の一部の中期中頃までの古墳の埴輪製作には渡来人が加わり倭の工人たちとともに製作していることが判明しているものがある。

 4世紀末~6世紀、王権の下で東国地方は、首長層の指揮に従い海外派遣も含めた軍事動員の対象となり韓半島を往復した可能性があると考えられる。

 また渡来人は様々な経緯で倭国にやって来たり、さらに韓半島に交易のため渡る倭人もいて、交渉と滞在が長ければ、韓半島の人々と婚姻関係も生じたであろう。

時代は下るが百済滅亡の時、百済からの亡命者の中には倭系風な人物の名もみえる。交流は一方的でなく、相互に多様であった可能性があるだろう。

倭と百済など韓半島南部の交流が進む中、中の山古墳が築造されている。
韓半島出自で有力階層出身の人物が、倭政権の下の(埼玉の海外交流の豊富な)豪族に迎えられ、埼玉地域政権の中で海外交渉や交易などの外交に関する職務に参画していた可能性があるのか。
中の山古墳の被葬者が生前にこの形態を指示し樹立したのでなければ、その後継者がなんらかのこだわりを見せ、「有孔平底壺系円筒形土器」を樹立したのか。ではなぜ、後継者がこの形態を採用したのか。6世紀末といえば、前方後円墳の終末、埴輪樹立の終末にもあたるが、このことと関係するのか。
 稲荷山古墳群には首長墓ー副首長墓のような系列がこれまでに指摘されている。二子山ー瓦塚、鉄砲山ー奥の山、将軍山ー中の山のような関係が成立するのかなどまだわからないことも多い。埼玉古墳群が長期にわたり維持できた背景には、地方政権においても統治システムや職掌などよく整備されていた可能性があると思われる。
埼玉古墳群の全容解明に大きな期待を寄せたいが。謎はなかなか解けそうにない。

(続く)
 
 












 




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