野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

白石太一郎 「馬と渡来人」 『考古学からみた倭国』 2009年 青木書店 1-4

2016年07月25日 | 初期国家・古代遊記

        ▲ 白石太一郎 「馬と渡来人」 『河内湖周辺に定着した渡来人』 大阪府立飛鳥博物館 2006

 

 

白石太一郎 「馬と渡来人」 『考古学からみた倭国』 2009年 青木書店 1-4

 

今回は、「馬と渡来人」 『考古学からみた倭国』 2009年 青木書店 に収録 について

白石太一郎氏が大阪府立近つ飛鳥資料館の館長時代の企画展示 2006年 での解説論文が、のち『考古学からみた倭国』 2009年に収録されている。

 ▲ 考古学からみた倭国』 2009年 青木書店

                                ・

                                ・

1970年代後半から、1980年代初めにかけ、馬具や土製の馬を出土した古墳を開発に伴う発掘調査をしたことがあった。現在のように、出土遺物の詳細な調査成果を全国的な規模で集成した研究成果はほとんどない状態の時代であるから、調査記録は、研究成果というよりは、単年度内に簡単な概要をまとめたものに過ぎなかったのだ。

2010年代に入った今日、1970年代ー1980年代の開発ブームで緊急発掘を調査した者の目でみると、現在の研究環境はうらやましい限りである。地方にはまだ、基幹となる博物館も、資料館もない時代である。知り合いのつてを頼りに、発掘報告書や、雑誌を捜しに右往左往していた時代だった。埴輪も大量に出土していた遺跡だったので、概要も埴輪遺物が中心となった。動物埴輪も多く出土していて、馬だけを中心に報告もできず、初期須恵器や、甲冑埴輪、人物埴輪、石製模造品など重要な遺物の調査もあり、当時もそうだったのだが全てに不満の残った調査概要であった。

ひとつひとつ今日の研究視点で、遺物を見直したいところだが、なにせ、焦点の定まらぬ雑学遊民のため、朝は地中海古代史、午後は、戦後日本占領史の中の「フレーム・アップ事件」、深夜は「陰謀学」等々と、相変わらず、わが頭の風呂敷の中身は容量越えの暴走状態となっている。

しかし、白石太一郎のライフワークを入手したからには、平日の午前中は、「考古・古代史・初期国家形成論」の関連の読書に絞ることにしよう。             

                                ・  

                                ・

「日本の初期国家形成と馬」 に私は関心があるのだが、このような関連を想定して論をたてていいものなのかも含めて考えてみたいということである。白石太一郎論説には手がかりがあるだろうか。

 

「河内湖周辺に定着した渡来人ー5世紀の渡来人の足跡」 

の中から、今日は、白石太一郎 「馬と渡来人」 のこと

この論文は、『河内湖に定着した渡来人ー5世紀の渡来人の足跡ー』というテーマ展示の中の一論説なので、そのテーマの全体は、この解説冊子を買って読んでもらうしかないが、この展示図録は好評で、すぐに完売してしまったようだ。最近の展示図録は、展示写真の図録とともに、研究者の要を得た論文が掲載されているので、古代史の論文にもよく参考文献に上がっている。この特別展示も遠く離れた東国に住んでいるせいか、どこかの論文に参文献として上がっていたので知り、入手したものだ。たぶん初期須恵器や、韓式土器研究関係論文、渡来人などの資料を探していたときに載っていたものだ。

特別展示での論文では短い論説なのだが、1-7まで項目番号が付されているので、これに沿って、このブログを読む人に役立つかどうかはわからないが、まず私のために要約してみる。(『考古学からみた倭国』では、1-5の項目に変更されている。9

 

1 馬は、初期の渡来人や渡来文化が果たした歴史的役割、その意義を説き明かすキーワード

 なぜこの時期の渡来人の多くが倭国がやってきたのか。

 彼らはどこから来たのか

 初期の渡来人と渡来文化の問題を考える

ここの項は、この論の目的・意図を記したもの、「特別企画展示もからむ、5世紀の渡来人の足跡ー」を大きくはずれない範囲で、渡来人・渡来文化の中の馬匹文化にフォーカスをあわせようと、提示している。

馬具や、その遺物から、馬を持ち込んだ渡来人の生まれ故郷がわかれば、これは面白い。期待がふくらむ。

 

2 白石太一郎の馬文化の出会いと関心のありかた

 白石太一郎は関西出身の考古学者なのだが、佐倉にある国立歴史民俗博物館に開館に伴う準備もあって勤務し、20数年間下総の佐倉に住んだと言っている。古墳時代の考古学にとって、馬の資料は大事なものなのだが、「近世には佐倉牧と呼ばれる幕府の軍馬を生産するための大規模な牧が置かれていたところ」 に、白石は長年居たことから、馬匹文化に対して広大な原野と長い時間とを合わせもって展望する見通しをもったようだ。

「近代にになって欧米から新しい馬匹生産技術がもたらされる以前の馬匹生産」 に対する彼の関心はこのようにして培われたのか、と、短い文の中に古代史の関心分野のありかたにそれぞれの個人的経験を含むところが面白い。

 

3 古代牧の史料概要 令の「厩牧令」について 『延喜式』 政府管理の牧のリスト

「厩牧令」 

「牧には、牧ごとに長と帳が置かれた。帳とは書記の「あたるもの」

「100頭からなる群れごとに牧子二人を置くことが規定」 

「江戸時代よりも丁寧な管理」

『延喜式』 

古代国家が直接管理していた牧には、

「御牧」       左右馬寮が管理 「勅旨牧」とも呼ばれる。天皇家に必要な馬を生産する牧

            甲斐、武蔵、信濃、上野の四国に置かれる

「諸国牛馬牧」  兵部省が管理  軍馬を生産する牧

           駿河以下の十八国

 

 ▼ 『延喜式』にみられる牧の分布

 

▲ 『延喜式』にみられる牧の分布


▲ 『延喜式』 巻四十八 左右馬寮

「右もろもろの牧の駒は、毎年九月十日、国司・牧監若しくは別当の人等と、(中略)牧に臨んでで検印し、共にその帳に署け、歯(よわい)四歳巳上の用うるに堪えうべきものを簡び、繋ぎて調良し、明年八月、牧監らに附して貢上せよ。もし貢上するに中らざる者は、便に駅伝馬に当てよ。(中略)もし売却す有らば正税に混合せよ。」



 『延喜式』 巻二十八 兵部省

 ▲ 『延喜式』 巻二十八 兵部省


4 5世紀の小さな円墳に接して営まれた千葉県佐倉市 大作31号墳犠牲土坑例 と、馬具出土古墳の多い、長野県長野市大室古墳群の事例


▼ 下図は 千葉県大作31号墳の1号土坑で発掘された犠牲馬



小形の円墳の周溝の外側の土坑に埋葬された、馬の出土状況は、体と頭部の位置がずれていて、犠牲馬として、埋葬したと見られるという。5世紀末には、東国でもこのような小型の円墳にも馬具が着装された馬が古墳に伴っている。

このような事例から、白石太一郎は、延喜式に見られる古代の牧の多くはこの千葉の例でもわかるように、五世紀代に遡る可能性が大きいとみなしている。

 

 

5 馬具出土古墳の多い、長野県長野市大室古墳群の事例と飯田市下伊那地方の古墳事例

 

下図は長野県大室古墳群の合掌形石室

延喜式に名前のある、信濃の大室牧に関連するとされる地域の古墳で発見された合掌形石室

 

 

▲ 百済の横穴式石室と飯田市伊那谷の横穴式石室 

年代は百済の事例が新しいものの、石室の構造が似ている。壁面の下段に扁平な石材を立て、その上に石材を一・二段横組みする共通の壁面構成法をもつ。

白石は、伊那谷の古墳の横穴式石室が百済地方に求めうる可能性を指摘する。

 

6 5世紀の馬匹文化の受容状況 と朝鮮半島の動き

畿内ばかりでなく、東国地方においても、大がかりで、本格的なものであった。

南九州から、東国まで、5世紀代に馬匹の大量生産に努めたことが遺跡・遺物の分布で確認できる。

その指導にあたったのは、白石は百済系の渡来人であったらしいとしている。

朝鮮半島の動き


アジア大陸遊牧騎馬諸民族の南下

       ↓

4世紀中葉 高句麗の南下明確化

       ↓

国家形成を成し遂げた日の浅い百済・新羅は存亡の危機

新羅は恭順の意を示し、生き延びようとし、百済は倭国を味方に引き入れ高句麗と戦う姿勢を示す。

倭は鉄資源を朝鮮半島に依存し、また百済、新羅の存亡も大いに関心を寄せざるを得ない。

百済は、強力な騎馬戦力を持つ高句麗と戦うには、倭国に騎馬戦術を教え、馬具、馬匹それ自体を提供することが重要な政策であった。と白石は見ている。

4世紀末以降の騎馬文化の受容に倭国をあげて取り組むようになった。

これは、馬匹文化と無縁であった倭人が五世紀の後半には馬具の生産技術をわがものとし、列島各地に大規模な牧を設置したのは、高句麗との戦いのためであったとする。

馬具生産の技術は、鉄工、金銅、皮革、木工などの総合的技術。

        ↓

その他の多様な手工業生産に大きな影響

        ↓

百済・倭国双方の国家的要請が働いた、学問、思想の倭人への影響、戦乱を避けた渡来人、高句麗との戦いに海を渡った倭人が彼の地で学んだものもあった。

それらは、外交交渉、交易、文字、文化習得などに決定的な役割を果たした。

 

7 馬というキーワードで、5世紀を見ると

高句麗の南下という軍事圧力に対抗する 百済・伽耶・倭国の対応策の結果

5世紀に始まる馬匹文化をはじめとする諸文化の受容は倭国の文明化を進めたが、

倭国の文明化を促したのは東アジアの国際情勢の緊迫化にほかならなかった。

 

最後は、一気の結論なのですが、

馬は、倭国の国家生成に極めて速度を上げてその対処を迫ったというべきというか、

高句麗は、半島南部に厳しく迫っていたわけで、有無を言わさず、倭国は国家形成へ向けて大きく舵を切らねばならなかったということか。

首長国連合が、内的成熟により形成されるモデル国家というのは、ありそうでどこにもないのかも知れない。

古代の戦争と騎馬戦 、古代アジアの戦争と馬 という論点と絡む初期国家形成であり、平和裡の交易関係を純粋に取り出し、論ずることはできない可能性は高いということか。

白石太一郎の、百済の横穴式石室と伊那谷の古墳石室の類似、また馬具の系譜・編年などは他の説や、編年案もあるので、これは、また別の論者の案の検討も合わせ、別項で紹介してみたい。

今日はここまで

 

つづく



最新の画像もっと見る