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『邪馬台国の考古学』 東 潮 著 角川選書503 角川学芸出版 2012を読む1

2012年10月19日 | 初期国家・古代遊記

東潮 の『邪馬台国の考古学』角川選書503角川学芸出版 (2012年)が出版された。 国立歴史民俗博物館刊行の研究報告第151集(2009年発行)共同研究『三国志』魏書東夷伝の国際環境 が版元売り切れのため今年(2012)に入ってようやく古書店から入手した。巻頭論文である東潮の「三国志東夷伝の文化環境」を読んでいたところ、報告書の43頁に倭国王と邪馬台国系列という表が掲載されている。 この表には、倭国王系列の王墓として、卑弥呼(箸墓)ー壹與(西殿塚)ー行燈山ー渋谷向山 古墳系列と、邪馬台王系列 の墳墓として、勝山ーホケノ山ー石塚ー天神山ー桜井茶臼山ーメスリ山 を掲げている。そして、天神山古墳の同列(同時代という意味か)には黒塚が掲載されている。そしてその脇には 難升米 の文字がゴチックで添え書きしてあるではないか! その論拠は何か?「国立民俗博物館」2009年の報告書では三国志がメインテーマであり、黒塚のことは東潮のこの論文に詳しく説明されていない。 果たして「黒塚」は難升米の墓なのか。『邪馬台国の考古学』ではそれをあきらかにしているだろうか。 

 

東潮 は『邪馬台国の考古学』角川選書503角川学芸出版 (2012年)の刊行以前、すでにさまざまなところで、近年続く大和の初期古墳の調査に対して、立場を明らかにしていたようだ。
 
 近年大和の初期の王墓とされる箸墓が卑弥呼の墓ではないかという見解は、一般的な見解となりつつある。さらに、もし箸墓が卑弥呼の墓であるとするなら、さらに、魏志に記された、卑弥呼を支える、有力な倭人たちも、付近に古墳を築いたのでは と考え始めるのは 極自然なことであるだろう。
 
 東潮 は2000年の朝鮮学会創立50周年記念シンポジウム 「古代日朝関係史研究の現段階ー五・六世紀の日朝関係ー」 で、「倭と栄山江流域ー倭韓の前方後円墳をめぐってー」と題して発表している。『朝鮮学報179』のなかで、のちに、国立歴史民俗博物館刊行の研究報告第151集(2009年発行)共同研究『三国志』魏書東夷伝の国際環境 で使用される 「倭国王と邪馬台国系列の表」(編年表)の原形を提示していた。

この朝鮮学報創立50周年シンポジウム論文では、表には黒塚古墳の脇に難升米と記されていない。
 
しかし、発表本文ではすでに国立歴史民俗博物館刊行の研究報告第151集で示されるように、黒塚の被葬者は難升米である可能性が高いとしている。

原文を引こう。
 
  「倭国政権は239(景初3)年から248年に遣使するが親魏倭王をはじめ、率善中郎将・率善校尉が30余人  
  に授与されている。特に難升米への「黄幢」の授与は魏が軍事権(軍旗)を与えたもので、軍事同盟の象徴で
  ある。倭王卑弥呼を核とした政権が樹立された。
  難升米は、黒塚古墳出土の「U字形鉄製品」を「黄幢」と想定すると、その被葬者である可能性がつよくなる。
  黒塚古墳は西殿塚古墳築造以前ならば、箸中山古墳古墳に次ぐ規模での古墳で、しかも箸中山古墳と相似
  形といわれている。竪穴式石室の構造は椿井大塚山古墳より古い。」


 この記述だけでは、黒塚の被葬者は難升米であるとするのは、きびしい。

ここで、『邪馬台国の考古学』角川選書503角川学芸出版 (2012年)の登場となるのである。
『邪馬台国の考古学』の第7章は、「倭国王と邪馬台国王ー邪馬台国に存在した二系列の王」と題されていて、この章の最後に 「黒塚古墳と黄幢ー難升米墓か」という節がある。

黒塚古墳調査時の興奮が蘇るような記述がある箇所なので、例によって、掲示させてもらうことにする。

  「1997年、天理市黒塚古墳が発掘された。後円部につくられた竪穴式石室には、あざやかな朱がぬられ、
  木棺の両側に大量の三角縁神獣鏡と武器が配置され、頭部に画文帯神獣鏡と鉄製品がおかれていた。
  倭人伝にみえる「黄幢」と直感した。その難升米がもらったという黄幢ならば、銀印もあるはずだ。棺の枕元
  の画文帯神獣鏡の下にありそうだ、という木箱に期待した。しかし銀印はみつからなかった。
  ・・・
  ・・・
  U字形鉄製品が倭人伝の黄幢と特定できれば、たいへんなことだ、黒塚古墳の被葬者が難升米という可能性
  が高まるからだ。
  
  U字形鉄製品は竪穴式石室内の粘土棺外、被葬者の頭部側の空間からみつかった。
  棺外の北にあたる頭部には画文帯神獣鏡がおかれていた。もっとも重要視された鏡で、棺外とはいえ石室内
  で重要な空間といわれる。鉄製品はその東側に立てかけられていた。」


  このような黒塚古墳のU字形鉄製品の形態・出土状況、および、中国での壁画などに残されている図像などの検討から、東潮は「黄幢」の可能性として、6つの証拠を掲げている。

 1 U字形鉄製品に布が付着、鉄管の内部にひも状のものがある。旗の一種である。
 
 2 同形のものが同時代・同時期の遼陽壁画(北園壁画墓)に表現。逆U字形で房のようなものが垂れ下がる。

 3 石室内の頭部の空間で、画文帯神獣鏡とU字形鉄製品が出土。特異な空間。

 4 黒塚の年代が、箸墓に次ぎ、3世紀第2四半期頃と推定。難升米と同世代。

 5 多数の三角縁神獣鏡と鉄製武器が出土。魏製の甲冑を含み、被葬者は椿井大塚山古墳の被葬者など
   とともに、倭政権の重要な人物。

 6 黒塚古墳出土の三角縁神獣鏡の図像の笠松形文と呼ばれる節が表現されているが、頂部に二重・
   三重の楕円形が表現、幢のようである。


以上、この6つの視点により、東潮は黒塚の被葬者は魏に使者として派遣され、魏より率善中郎将という称号を賜った難升米の可能性が高いと考えているようである。
 そうすると、どうしても、難升米に与えられたはずの「銀印」も気になるところではある。もちろん、難升米がヤマトにいたのならば、卑弥呼に与えられたはずの金印もこのヤマトにあるということになるのだが。・・・


なぜ黄幢が、倭国にもたらされたのかに関しては、魏志倭人伝を、東アジアの激動する政治空間の時空でどう読むかに関わることで、これだけでも日本の研究者に多くの解釈があることがわかった。あとで、邪馬台国関連本からこの部分を探してみよう。

東潮が黄幢について中国古代文献史の研究から引用・要約している栗原朋信・武田幸男の見解は幸い、以前に入手していた文献の中にあった。『上代日本対外関係史の研究』吉川弘文館1978年、中央公論社版『世界の歴史6隋唐帝国と古代朝鮮』1997年、文庫版2008年刊行。
 武田の「世界の歴史6」は一般向けで、読みやすく買ったとき通読したのだが、3・11大地震以来我が家のどこかに埋没。最近になって再発掘調査されたのだ!。

次回は、黒塚発掘調査前の、日本の古代中国文献史家の「黄幢」の見解を探してみよう。

続く
  
  
 








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