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『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 定価1400円+税

2017年05月30日 | 本日の新刊ー雑誌

          ▲『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 定価1400円+税

 

『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 

 

『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 

 

 ▲ 『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 定価1400円+税

 

 ▲ 『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 目次1

 

▲ 『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 目次 2

 

本日到着便、「人類学」ではなく、「人類史」の特集

いまや人類史は、DNAの構造から、言語学、認知考古学、文化人類学まで、膨大な分野に貪欲でないとさっぱりわからない時代になってきた。

それでも、「人類史」や「人類学」のことばを聞くと今でも気になるのは、1960年代末から1970代にかけて、西江雅之さんの「文化人類学」の講義や、山口昌男の『未開と文明』を読んでしまったおかげなのだ。周りの高校や大学の先輩たちは、マルクス・吉本隆明・埴谷雄高に夢中だったから、マーシャル・サーリンズの「未開人は豊かだった」『石器時代の経済学』収録などと口にしようものなら、軟弱と言われ、まるで相手にされないのだった。

今は隔世の感があるが、人類学はまた、あまりにも微細で微妙な問題に入り込んでしまい、哲学臭もあって、1970年代の頃とはまた違った疎外感に襲われる。

通読するのも、用語事典を引きながらになりそうだが、人類はどこに行こうとしているのか、どこからやってきたのか。また人間の暴力と戦争は現在でも喫緊の課題なのだが、人類は誕生以来暴力と戦争を本性としているのか、どのような研究の蓄積がもたらされているのか眺めてみたい。

松本直子 「人類史における戦争の位置づけ・・・・考古学からの考察」

というのがあった。今日はここから読み始めることにしよう。

▲ 松本直子 「人類史における戦争の位置づけ・・・・考古学からの考察」 から、

『現代思想』 2017年6月 特集 変貌する人類史 青土社 187頁

暴力と戦争を区別して考える場合、松本直子は、子供が大人と一緒に殺されるということを区別のメルクマールにしている。

「子供も一緒に殺されているということは、明らかに集団間の対立があり、他集団の人間であれば、性別年齢問わず殺戮の対象とするという戦争的な規範があったとする。(166頁)

それでは、縄文時代、戦争と判断していいようなデータが得られたのか?

上の表の通り、時代別の人骨における「受傷」のある人骨を分析して、松本直子が言うには、

縄文時代の「受傷」人骨のうち、子供は今のところ含まれていないようだ。

縄文1万年のうち、2576の人骨データから判明したことは、暴力による受傷例は23体で、大人の1275体に限定しても、その比率は1.8%で低かったという結果であった。

日本では、縄文時代、稀に殺人事件はあっても集団間の戦争があった可能性はきわめて低いことを示しているとする。

人類社会の本来の戦争死亡率14%という説を発表したボウルズの見解は、つまみ食い的な見解にすぎないと松本直子は言っている。

戦争が多かったとされる、弥生時代でも1000年間で3298体のうち、「受傷人骨」は100体、比率にして約3%。武器を持った農耕社会においても、暴力による死亡率が高くないとしている。

 

「平和のために考古学は何ができるか」と後年考え続けた故佐原 真さんも、そうだったのか、私の見解と同じだ、縄文人は戦争を好まない、縄文人は本格的な争闘を回避できる発想を持っていたと言うだろう。・・・・・・・・弥生時代には、戦争はあったが、想像以上に「受傷人骨」は少なく、佐原さんもこれには、びっくりしているかも知れない。

 

つづく



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