先月、私の店のギャラリースペースで開催した
陶芸家 工藤和彦さんのうつわ展で、
私は野に咲く草花や庭で育てた花などを
2週間にわたって生け続けた。
初めて生けて思ったこと。
こんなに自然に手が動くうつわになかなか出会えない。
なぜ、どこが違うのだろう、
期間中、私はずっと考えていた。
北海道、旭川市の郊外で作陶する工藤さんとは
ひょんなことから4年ほど前に出会って、
なんとなくコラボレーションができそうな
根拠のない直感がはたらき、
この秋、ようやく実現したのだ。
工藤さんはもともと食器の制作が主で、
花の器はそれほどたくさん作っていないので、
今回の作品展の為に、新作をたくさん持ってきてくれた。
そのうつわはどれも美しいフォルムをしており、
そのまま飾っておいても絵になるが、
さらに花を生けたくなるような余裕がある。
生ける花によって、ひとつのうつわからいろんな表情が引き出せる。
そんな大らかさが工藤さんのうつわの魅力なのだ。
かたちもそうだが、その肌色のすばらしさを実感する。
やわらかい黄色、クリーム色は、
不思議とどんな花色も引き立ててくれる。
同系色はもちろん、反対色の青、紫色、
そして白い花もその純粋さがきりっと際立つ。
「黄粉引(きこひき)」と呼ばれるこれらの作品は、
工藤さんが自力で開発した土と技法によるものだ。
中国大陸から飛来し、北海道のある場所に蓄積された
推定2億年前の「黄砂の粘土」だというから驚きだ。
地質学的にはまだ解明しきれていない、謎の土らしい。
誰も試したことのない土を、10年近くも試行錯誤して
工藤さんはようやく自分のものにした。
高台の紅い色は、焼く時にくっつかないようにと
たまたま敷いたホタテ貝と反応して出た色だとか。
北海道の自然環境を存分に生かした技法。
やわらかな黄色と、力強い緋色。
工藤さんの作品は深い魅力をたたえている。
たっぷりした片口の大鉢。
大地に還っていきそうな感じ、
と来場者が表現した、迫力の大皿。
料理をする人の創作意欲を駆り立てるうつわ。
誰もが、素材を生かしたシンプルな料理を盛りたい、という。
花を生ける人もしかりである。
花のほうからすっと身を寄せていく、というくらい
自然にうつわの中に入っていく。
作品展の搬入時、工藤さんが配置していった器に
私は次々と花を生けていった。
用意したいろんな花材の中から、
迷わずとも花の方から「私ここ」と向かっていくようだった。
ある壺を前にして、私は初めて工藤さんにお伺いを立ててみた。
庭から採ってきたブルーサルビアの花を壺にさっと挿し、
こんな感じでどうだろう、と聞いてみたのだ。
「ああ、いいですね。」
と言ってもらえたので、壺に水をはって、
先ほどパッとあててみた時の、自然な感じを再現しようとしたら
なぜか うまく生けられなくなってしまったのだ。
まったく同じ花を使おうとしているのに。
あれこれやってみたが、その日は結局だめだった。
それから期間中は意地になって、
庭からブルーサルビアを採ってきては同じ壺に生け続けた。
肩の力がようやく抜けて、最後の日に
やっと自然な感じで生けることができた。
工藤さんは笑いながらこう言った。
「僕も変な欲を出して作るとうまくできないです。」
そういうことなのだ。
こういう風に生けてやろう、という自分の欲が出てしまったら、
花は堅くなってしまったり、これ見よがしな感じになってしまう。
試しにあててみたときの形を再現しようという欲が
つい出てしまったから、花本来の魅力を引き出せなかったのだ。
私が生涯目指しているのは、
草花の素性と魅力を引き出す、という生け方。
つまり自分の思い描く形におさめない。
デザインしない。
無欲で向かった時にはじめて、植物は応えてくれ、
内なる魅力を発揮してくれる。
工藤さんの造形力は、普遍的なバランスと美しさ。
やはり欲を消して、さっと造形する。
土の美しい風合いが引き出される。
そして、使う人の手にすっとなじむ。
自分の主張を前面に出さない。
でもその人の個性がにじみ出てくる。
それは確かな技術あってこその話で、
実はとても難しいことなのかもしれない。
花と器。
目指す方向性が似ているので、
いいコンビを組めるな、という手応えをつかむことができたと思う。
来年の秋もまた、二人で作品展をする計画だ。
今度はどんな器を作って来てくれるだろう。
私はその時、どんな花を見つけてこられるか、
心の眼も養っておかなければならない。