消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

ローラ・インガルス・ワイルダー『大草原の小さな家』は差別ノベルか?

2018年07月20日 12時00分21秒 | 読書の楽しみ、読書の...
 誰しも“時代の子”たるを免れるのは困難
 註釈付きでOKってことにならんのかねえ!


   
    ローラ・インガルス・ワイルダー from Wiki

 上の画像の女性、ローラ・インガルス・ワイルダー(1867-1957)の小説『大草原の小さな家』を知っている方は数多いと思います。
 もっとも、書籍で読んだという方より、日本でも放映された米国のテレビドラマを見たという人のほうが圧倒的に多いと思いますけど。
 おらは、1975年から1982年にNHK①で放映された時期にはごくわずかしか見ることが出来ませんでしたが、ここ1、2年の間にネットの映画サイトで全部見ました。そして、画面に残る母親キャロライン役のカレン・グラスリーのファンになったのでした。リアルのカレンはもう亡くなっているのだろうと思って調べてみましたら、1942年生まれで存命でした。76歳か。父親チャールズ役のマイケル・ランドンは1991年に54歳で世を去っています。

 で、いささか旧聞に属するのですが、そのローラ・インガルスの作品に差別的表現があるとして、彼女の名前を冠した米国の文学賞が賞の名称からローラの名前を削ったという記事が目に付きました。

 ***************************
 「大草原の小さな家」の著者名、米文学賞から外される 差別表現理由に
 2018年6月26日 13:37 発信地:ニューヨーク/米国  AFP
 テレビドラマにもなった米児童小説「大草原の小さな家(Little House on the Prairie)」の原作者、ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder)の名を冠した児童文学賞「ローラ・インガルス・ワイルダー賞(Laura Ingalls Wilder Award)」の名称が、「児童文学遺産賞(Children's Literature Legacy Award)」に変更されることが決まった。ワイルダーの作品内に差別的表現が含まれていることが原因だという。
 米図書館協会(ALSC)によると、19世紀の米国の西部開拓期を描いたワイルダーの小説にみられる「固定観念的な見方の表現」が、包括性や一体性、尊重といったALSCの基本的価値観と矛盾していると判断されたという。
 ワイルダーの作品に関しては「西部にいるのはインディアンだけで、人は誰も住んでいない」という表現など、米先住民や黒人に対する差別的な描写があるとの批判が古くからあったが、ワイルダーの著書は現在も出版されており、多くの人々に愛読されている。
 ワイルダーの原作「大草原の小さな家」は1974年にメリッサ・ギルバート(Melissa Gilbert)主演でテレビドラマ化され、大人気を博した。(c)AFP

   今となっては、ローラは抗弁したくとも出来ないんですけどね。オリジナル記事はこちら

 *****************************
   「大草原の小さな家」はこちら
   作家ローラの出自はこちら
 

 おらは、この記事を読んで、1970年代に日本で吹き荒れた“言葉狩り”を思い出しました。
 これはどちらかというと、まともにモノを考えているのではと思われる人びとの中から吹き出してきて、相当の破壊力を持っていました。
 例えば、「片手落ち」などというのも槍玉にあがった一例です。
 先天的に片手がない人、後天的に片手を失った人への差別だ、という趣旨でした。
 いったいそのような障害を持つ人びとがどれだけおられるのか知りませんが、おらには言いがかり以上の意味は見出せませんでした。

 この度の米図書館協会(ALSC)の決定にも同じような感想を抱きました。
 記事にあるように、「西部にいるのはインディアンだけで、人は誰も住んでいない」という表現に見える「人」が「人間」なのか「白人」なのか、原語を確認する必要がありますが、ALSC側は要するに「インディアンは人間ではない」という趣旨が書かれている、と解釈したのでしょう。
 しかし、日本も含めどこの国も同じでしょうが、後から来た「人間」が先に住んでいた「人間」を「人間視」しないという例はしばしば存在します。アメリカインディアン (いまはアメリカ先住民というのですが) に限ったことではありません。
 馬や牛ではなく人間ではあろうが、人間扱いしない、ということです。
 日本で言えば大政奉還の年に生まれたローラが、あるいは当時の一般的なインディアン観から抜け出られなかった可能性はありますが、それをいまさら責めるのはいかがなものでしょうか。
 今の感覚で断罪するのは容易でしょうが、ALSC側の人間でさえ、ローラ・インガルス文学賞を制定した段階ではどうということもなく、なんの問題もなかったのですよ!


 さて、ひるがえって明治期以降の日本の作家の作品はどうなっているのでしょうか。
 かなりの“問題表現”を抱えている作品は枚挙に暇がありません。
 いま手許に、そうした好例、悪例?のサンプルがありませんので、比較的新しい時代、戦前、の堀辰雄の作品を眺めてみました。今でも時折読んでみる『風立ちぬ』と『美しき村』が収められた平成4年版新潮文庫です。

   

 そうしましたら、美しい村のほうには、やはり、今では決して使われぬ単語や表現がありました。慎重を欠くきらいがある版元だけに、なんの注釈も付いておりませんでした。
  *****
「あの子は白痴(ばか、とルビ)なのかい?」32p
「あれあ気ちがいの娘だ」32p
「峠の途中に気ちがいの女がいるそうだけど」42p
「松葉杖に靠れたまま汗を拭いている、跛(ちんば、のルビ)の花売りを見かける」60p
「花籠を背負い、小さな帽子をかぶった男が、ぴょこんぴょこんと跳ねるような恰好をして昇ってゆくのが認められた。よく見ると、その男は松葉杖をついているのだ。ああ、こいつだな、彼女がモデルにして描きたいと言っていた跛の花売りというのは!」61p
  *****
 以上、どういうふうな感想をお持ちになったでしょうか?