消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

見沼代用水・柴山伏越に行く

2018年07月12日 08時13分25秒 | 日記
  柴山伏越、300年も前の偉業!
  むかしの人はホンマ偉かったなあ!


 江戸時代の昔、いまの埼玉県さいたま市、川口市の東郊外一帯は「見沼(みぬま)」と呼ばれる広大な溜井でした。
 紀伊藩主徳川吉宗は八代将軍に就くと、米増産=新田開発を大きな経済政策としました。
 「紀州流」と呼ばれる土木技術の達人、井沢 弥惣兵衛(いざわ やそべえ)を地元から召し出し、見沼の干拓を命じました。

 井沢は現在の和歌山県海南市から出仕し、見沼干拓を成し遂げ、溜井に代わる農業用水として遠く利根川から水を引くため、見沼代用水(みぬまだいようすい)を開削したのです。見沼に代わる用水、という意味です。

   見沼たんぼのあらまし
   沼代用水はこちら
   井沢弥惣兵衛とは?

 現在の埼玉県白岡市西郊外の柴山地区を流下する見沼代用水は、はるかに大きな川である元荒川に行き当たります。普通の川ならここで合流するということになりますが、代用水は行く先がありますので、元荒川を“通過”しなければなりません。
 掛樋で上を渡るか、下を潜るか、どっちかですね。いまの道路が鉄道線路を渡っているのと同じです。

 井沢は柴山で元荒川を横断するのに川の下を潜っていく「伏越=ふせこし」という手法を用いました。
 まったく驚くべき技術です。

 で、おらが別の意味でさらに感心するのは、自分で歩いてくる、駕籠で運ばれる、或いは馬か牛か豚に乗ってくる、といった移動手段しかないころ、よくもまあ、おらが行ったこともない和歌山くんだりから江戸、武蔵国にやって来て、こんな大工事を成し遂げたということです。これは、江戸時代、多くの青年が東国から長崎あたりまで勉学のため徒歩で出かけたというような記述を見るときにも感じることなのですが、ほんとにすごい!
 いまの乗り物を使ったとすれば、いったいどこからどこ、に匹敵するのでしょうか。

 というわけで、柴山伏越と、伏越近くの井沢の遺骨を分骨してある常福寺に行ってきた次第です。
 なんか、伏越の仕組みはどこがどうなっているのか、夏草に覆われてとんとわかりませんでしたがね…。(笑)

   
    これが元荒川。この川の下を見沼代用水が潜って向こうへ渡っているのだが…

   

   

     柴山伏越のあらまし