新!編集人の独り言

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朝の続き

2010-01-02 23:00:30 | Weblog
という事で、酒飲んでます。
しばらく酒を絶っていたので廻りが速いですね。

さて、今朝の話と同様、お袋の話。

病院から遺体を葬儀場に移動する事になって、自分が立ち会いました。
兄貴は自転車で来ていたのと、荷物の搬送と事務手続きの前準備のために自宅に戻る事になったので、必然的にそうなりました。
事務手続きに関しては「お役人」のほうが絶対にいいですから、色々な意味で。
実務に関しては自分のほうがいいだろうと。

で、葬儀場での焼香となったのですが、お袋の顔見たら、うん、穏やかな顔してる。
というより普段の顔とは全く違うんですよね。

兄貴に言わせると
「そりゃあデスマスクと普段の顔は違うよ。筋肉の緊張がとれているから無表情というか、全部筋肉が緩くなって、重力に負けているんだからさ」
ああ、そうだよね。確かに。

ただ、なんだろう。ばあちゃんの顔に似ているなあと。

焼香している時はそれほど悲しくはなかったです。
どちらかというと安堵感のほうが大きかったのかもしれない。
それは介護からの開放によるものかもしれないし、お袋が傷みやダルさから開放された部分に関する安堵感かもしれない。
それは本当にわかんないけど、とにかく一つ何かが切れたものがあったと思います。

その後葬儀ディレクターと見積もりの相談をしていたんですが、誘導尋問みたいな感じになりますね、あれは。
初めての場合はエライ金額になってしまいます。
別にケチるつもりはないですが、無駄な金はかけたくはないですから。

送迎してもらったんですけど、その時に初めて感傷的になりましたね。
でも泣くとかじゃないんですよ。
何だろう、感謝の気持ちというかね、ありがとうという気持ちですかね。

明日、兄貴と通夜・告別式の最終打ち合わせ。
それで色々決定します。

兄貴に言わせると
「お前は感情に流されやすいから」
いいの、いいの。お通夜の涙担当という事で。

今はまだ気持ちが張ってます。
多分49日が終わって、お袋の居た、そして自分達がガキの頃住んでたあの部屋を引き払う時、多分泣くんじゃないかなあと思います。

少なくともひとつのことが終わったんだなあと思っています。
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お袋の話

2010-01-02 04:41:03 | Weblog
ということで一夜明けました。
本来なら病院からの緊急コールもないので、疲れた自分からすればぐっすり休むことができるはずなんだけど、そうでもなかったりします。
ただ、寝不足というのではなく、短時間でもかなり深く眠れた事。
やはりどこかでおふくろの事を考えていたりするんでしょうかね。

ということで、しばらくはお袋の事について書いていきます。
極々私的なことなので、内容は本当につまらない内容だし、他人が読んでもそれほど期待できるものでもありません。
でも、これは自分からお袋への鎮魂歌として書いてみたいと思います。

うちのお袋は昭和の始めに産まれました。
3人兄弟の真ん中で、上下が男兄弟に挟まれていたから気が強く、人に頭を下げるのが好きではなかったようです。
当時日本は今の韓国、北朝鮮を「満州」という地名にし、占領していました。
自分の祖父はその満州電鉄に勤務しており、家族そろって「満州」に行ってました。
よくお袋は満州で起きた様々な話を聞かせてくれましたが、多分当時の朝鮮人に対していい感情を持っていなかったようです。
多分この世代というのはどこかしら「韓国も北朝鮮も所詮は満州で、日本の支配下にあった国」という意識があるのかもしれません。
まあ、それ以上は多くを語らないのですが、多分そんなところなのだろうと思います。

戦争が終わり、ほぼ無一文で日本に帰ってきたお袋は当時の丸ビルに勤務し、それなりに頑張って働いてました。
やはり無一文からの出発なので、本当に休む事をしないで、黙々と働いていました。
責任感がものすごく強いので「学校や会社はむやみやたらに休むんじゃない。休む事で、他人様に迷惑がかかるものだ」というポリシーは持っていました。
また「出されたものは残さず食べる」というのもお袋の持論。
これは多分無一文になったとき、さらには戦時中にひもじい想いをしたという事もあるようです。

親父と知り合い、結婚したのですが、親父はどちらかというと商人の出。さらには女系家族の一番下という立場で、どちらかというと「女性ぽい」感じ。
「性格的には親父とお袋は男女逆だよねぇ」
こう話すとお袋も「そうだよねぇ。何で結婚したんだろ」って笑っていました。
ただ、そうは言いながらも今回うなされている時は自分でも兄貴でもなく、ただひたすら親父の名前を出して「助けてくれ」と言ってました。
普段は悪口しか言わない親父に対して助けてくれと言うのは、つまりはなんだかんだ言いながら親父の事を愛していたんだと改めて思いましたね。

お袋と親父のエピソードは色々あるのですが、ここでそれを全部書くとそれこそ「菊次郎とさき」みたいになってしまうので(笑)割愛しておきます。
本当にすちゃらかな内容で、まあ編集人の本質を知っている人なら「そうだよなぁ」とわかると思います。

お袋は趣味を持たない人で、一生懸命働いてきたという印象です。
苦労ばかりして、怪我ばかりして、入院もやたら多かった。
多分トータルすると10年くらいは入退院を繰り返していたかもしれないですね。
椎間板ヘルニアをやり、背骨の圧迫骨折をやり、肩の粉砕骨折をし、胆嚢摘出をし、その胆嚢の中にがん細胞を発見したという。
そのがん細胞が再発して今回の死に至ることになりました。
考えてみればこの胆嚢摘出の段階でお袋がそう長くないと自分の中で腹はくくっていたという部分はありました。
がんは5年再発しなければ無事乗り切ったと言います。
ただ、そういうことはきわめて稀でご多分に漏れずお袋も再発してしまいました。
ましてや今回の病気は胆嚢がん。
がんの中でも特に悪種というものらしく、除去しても早くて3ヶ月、遅くても1年で再発するがんなんだそうです。
そういった意味で、3年も無事だったのは奇跡に近い事なんだと先生は言ってました。

今回先生から命の刻限を聞かされたのは8月の終わり。
その時はどんなに長くても半年。それ以上はありえないと。
つまり、どんなに長く生きても2月には亡くなるという事です。
だからまず自分らが目標を立てたのは「最低2010年の正月は家族3人で迎えよう」という事。
ちょうど自分は仕事をしていなかったので、必然的にお袋の介護を担当するようになります。
ある意味ではベストなタイミングだったのかもしれません。
多分仕事をしながらのケアは難しいんじゃないかと思いました。
最後のほう、お袋とこんな会話をしていました。
「なんか世話ばっかりしてもらって、いつもすまないねぇ」
「それは言わない約束でしょ・・・ってシャボン玉ホリデーかよっ!」
冗談めかして言ってましたが、あの言葉は「本音」だったのかもしれません。

この話、まだ長いのでこの回ではここまでにします。
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