一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

「道行」雑考 その1

2005-11-22 22:37:26 | Essay
女性の外出姿(壷装束) 旅の最中には、市女笠(いちめがさ)を冠り顔を隠した。

本来的には「道を行くこと。旅行すること」との一般的な意味しか持たなかった「道行」という語であるが、それが「浄瑠璃・歌舞伎で、道中を描く舞踊。多く心中・駆け落ちが扱われる」ようになったいきさつを考えてみたい。

まずは、「道」を「行く」という文が、名詞化されて「道行き」となるのは見易いところ。
  
  川ばたの岸のえの木(榎)の葉をしげみ 道行人(みちゆきびと)のやどらぬはなし
  (川端の岸の榎の葉が生い茂っているから、旅人でそこで野宿せぬ者などはいない)
                   
などが古い例(「道行人」=旅人)。

それが、『太平記』(応安年間―1368 - 75の成立と言われている)になると、
落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中(うち)ぞ哀れなる。(「俊基朝臣再び関東下向の事」)
道中の経過を表す「道行文」が現われる。
能楽の方でも、世阿弥元清作(1363? - 1443?)と言われる『高砂』に、
高砂や此(この)浦船に帆をあげて 此浦船に帆を揚げて
月諸共に出で汐(しお)の 波の淡路の島陰や 遠く鳴尾の沖すぎて
早住の江に着きにけり 早住の江に着きにけり
との「道行」がある。

以上を考慮にいれると、どうやら旅の経過を視点を移動させながら(映画の移動撮影のように、というよりは「すごろく」のように、スポットを線で繋ぐ形で)語るという形態は、ほぼ室町時代初め頃には完成したと考えられるのではないだろうか。

ここで興味深いのが、「仏教の練り供養や神の巡幸を〈道行〉という」との事実である。
実際の旅はともかくとして、どうやら、このような文藝に表れた「旅」において、主人公は「神」となっているようなのである。

さて、ここで考えねばならぬのが、中世と呼ばれるこの時代、「旅」とはどのようなものとして、人びとに捉えられていたか、ということである。
「旅をしている間、とくに神社、寺院への物詣などの場合には、さきほどのお籠りなどと同様、旅人は間違いなく世俗の縁とは切れているのではないかと思います。それだけではなくて、道や辻のような場も少なくとも中世にさかのぼりますと、やはり同様の場だったので、そこでおこったことは世俗の世界には持ち出さない、逆にいえば、そこでおこったことはその場だけですませるという慣習があったことを、鎌倉時代の文書に引用された『関東御式目(おんしきもく)によって証明することができるのです。」
と、網野善彦『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)にある。
つまりは、旅の過程にあって、人は、一種のアジール* にいると見なすことができよう。
アジール 「アジールは人類学や宗教学では、古くからよく知られた主題である。神や仏の支配する特別な空間や時間の中に入り込むと、もうそこには世俗の権力やしがらみによる拘束が及んでいない。」(中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)


今日のことば(35) ― E. ホブズボウム

2005-11-22 00:44:59 | Quotation
(『伝統の創出』とは)「過去を参照することによって特徴づけられる形式化と儀礼化の過程のことである」
(『創られた伝統』)

E. ホブズボウム(Eric Hobsbawm, 1917 - )
英国の歴史学者。ウィーンとベルリンで幼少年期を過ごし、1933年に英国に渡る。
ケンブリッジ大学キングス・カレッジで学び、博士号を取る。ロンドン大学、スタンフォード大学などで教職に就き、1982年に引退。

「伝統」と言われているものが全て、本当に昔から人びとによって受け継がれてきたものだろうか。本書は、イギリスの例(スコットランドのタータンチェックやバグパイプ、英国王室の儀礼など)を挙げて、それが近代になってから人工的に造り出されたものであることを明らかにしている。
*「創られた伝統」と「生きた伝統」とを区別する必要性もある。ホブズボウムは本書の序論において、伝統社会における慣習(custom) を「本物の伝統(genuine tradition) 」または「生きた伝統」と呼び、その強靭さと融通性についても述べている。

本邦においても、大相撲や武士道といったものは、明治になったから創出されたものに他ならない。また天皇制においてもしかり。
今日、天皇制として漠然と考えられているものの多くも、歴史的経過を見れば、近代天皇制に基づくものであって、それは明治になってから、近代国家創出とともに「創られた伝統」である。

本書は、そのような「伝統」の見直しを、われわれに迫ってくる。

参考資料 エリック ホブズボウム、テレンス レンジャー著、前川啓治、梶原景昭訳『創られた伝統』(紀伊國屋書店)

今日のことば(34) ― S. ホームズ

2005-11-21 00:00:11 | Quotation
「音楽を演奏したり鑑賞したりする能力は話す能力よりずっと前から人間に備わっていたのだそうだ。音楽を聞くと微妙に心を動かされるのはそんな点に原因があるのだろう。ぼくたちの魂には、世界がまだ出来かけのころのぼんやりした記憶がわずかに残っているのだから」
(『緋色の研究』)

S. ホームズ(Sherlock Holmes, 1854 - ?)
英国のヴィクトリア時代(ヴィクトリア女王の治世:1837 - 1901) を中心に活躍した私立探偵。事務所兼自宅は、ロンドンのベーカー街211Bにあった。
彼の友人の医学博士ワトソンには、コナン・ドイル(1859 - 1930) という小説家の知人がいた。ワトソン博士がドイルに話した、ホームズの冒険譚が長編小説や短編小説集となり、一世を風靡したのは有名な話である。冒頭引用の『緋色の研究』もその長編小説の1冊である。

さて、引用した音楽観は、小説中ではC. ダーウィン(1809 - 82) の説として話されているが、音楽の起源論はともかくとして、かなり音楽の本質を突いていると、小生は思う。
「今日のことば(6)」で取り上げたE. シュタイガーによれば、「叙情詩は〈思い出〉と構造が似ている」という。〈思い出〉といっても、単なる個人的なものではなく、ユング的な用語を用いれば、〈集合的無意識〉に近い記憶のありよう。
つまり「世界がまだ出来かけのころのぼんやりした記憶」である。
禅家では、「父母未生以前の本来の面目」と称する。

そのような無意識/記憶に触れるよすがとしての音楽、という考えは、ホームズが音楽にかなりの造詣をもっていたことの1つの証しであろう(ちなみに、ホームズは、16世紀ネーデルランド楽派の作曲家オルランド・ディ・ラッススのモテットに関する研究論文を著している)。

参考資料 コナン・ドイル著、 延原謙訳『緋色の研究』(新潮社)
     小林司、東山あかね『真説シャーロック・ホームズ』(講談社)

今日のことば(33) ― E. サイード

2005-11-20 00:33:43 | Quotation
「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである。」
(『オリエンタリズム』)

E. サイード(Edward W. Said, 1935 - 2003)
パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。
エルサレム生れ。エジプトのカイロで幼年時代を過ごす。ハーバード大学で修士号・博士号を取得。コロンビア大学、ハーバード大学などで教職を続ける。

上記の引用のように、アジアや中近東の創られたイメージが、欧米諸国の植民地主義・帝国主義を正当化してきた、と批判、「ポスト・コロニアリズム」理論を構築していった。
9・11同時多発テロ後は、アフガニスタンやイラクへの武力行使に反対する論陣を張る。

さて、翻って日本の近代史を考えた場合、複雑な位相に立っていることが分る。
1つは欧米諸国からのオリエンタリズム的な視線を受け、また、もう1つは台湾・朝鮮などを植民地として、宗主国としての視線をその地域に投げかける、というオリエンタリズムの「客体」であるとともに、「主体」でもあったわけだ。
そのねじれた視線が、近代史の解明をやっかいにしているし、多くの言説にも混乱んを引き起こしている。
例えば、われわれは、アジア・太平洋戦争において、被害者でもあり、また加害者でもあるわけだが、ある場合には、前者の立場が前面に出、またある場合には、後者の立場が前面に出るといった具合である。

さて、その腑分けの手がかりにサイードの理論は役立つのか。それとも、われわれなりの「オリエンタリズム」批判を形づくらなければならないのか。

参考資料 E. サイード著、今沢紀子訳、板垣雄三、杉田英明監修『オリエンタリズム』上・下(平凡社)
     本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波書店)

今日のことば(32) ― B. アンダーソン

2005-11-19 11:28:41 | Quotation
「もっとも小さな国ですら、その成員は大半の自分の同胞を知ることも彼らに会うことも、彼らについての話を聞くことさえないだろうが、それでも彼らが一体であるというイメージは各人の心の中に生きている」
(『想像の共同体』)

B. アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson. 1936 - )
比較政治学者、アジア研究者。東南アジア(特にインドネシア)を専門対象としている。コーネル大学政治学部教授。
中国雲南省生れ。ケンブリッジ大学、コーネル大学で修士・博士号を取る。1965年からコーネル大学で教職に就く。
著書『言葉と権力』では「中国で生まれ、3つの国(中国・イギリス・アメリカ)で育てられ、時代遅れの発音で英語を話し、アイルランドのパスポートをもち、アメリカに住み、東南アジアを研究する」と自己紹介している。

『想像の共同体』では、国家を「イメージとして心に描かれた想像の共同体である。そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される。」と定義したことで知られる。
つまりナショナリズムとは、民族意識の覚醒などではなく、何もないところから「国民」を発明するための操作に過ぎないとする。
そして、その発明に際して決定的な役割を果したのが、出版印刷業資本主義(print capitalism) であると指摘するのである。

その所説に異論はあったとしても、「近代国家=国民国家(民族国家)」について、あるいは「ナショナリズム」について、真摯に考える人にとっては、必読の書とも言えよう。

参考資料 ベネディクト・アンダーソン著、白石さや、白石隆訳『想像の共同体』(NTT出版)
     関曠野『民族とは何か』(講談社)

《アダム》の離婚歴

2005-11-19 00:05:59 | Essay
▲大地母神としてのイメージを伝える古代アッシリアの《リリス》の像。

リリス(Lilith)という女性をご存知であろうか。
英和辞典によれば、一つには、
「荒野に住んで子どもを襲う女性の夜の鬼神」
とあり、もう一つの意味としては、
「イヴがまだ作られていなかったときのアダムの最初の妻」
とある。
第一の意味が本来的にあり、第二の意味が派生した。
アダムが再婚者とは、今まで知らなかった、という方が大多数であろう。この解釈は、『旧約聖書』の成立事情と関係している。

『旧約聖書』には、大きく分けて3種類の伝承系統がある。
一番古いものが、神を「ヤハヴェ」と呼ぶ「J資料」、次が「エロヒム」と呼ぶ「E資料」、そして「祭司典資料」=「P資料」である。
「創世記」において、神の天地創造の部分が「P資料」、エデンの園が「J資料」、楽園追放も「J資料」という具合。
ここに、相互の矛盾が生じる原因がある。

天地創造の「P資料」によれば、人間の男女はほぼ同時に神によって創られたことになる。しかし、ご存知のように、「エデンの園」の記述(「J資料」)によれば、イヴはアダムの肋骨から創られたことになっている。聖書の記述をすべて正しいという立場から見れば、著しい矛盾である。
それでは、最初に創られた「女」はどうなったのか?

この矛盾を解決するために採られた解釈が、最初に創られた「女」は「不良品」だったため、アダムの気に入らず棄てられた、というもの(アダムの最初の妻は、離婚させられたわけですな)。
その「不良品」が、シュメールやアッシリアに元々ある神話伝承と結びついて「リリス」と呼ばれるようになったというわけである。

さて、この「リリス」は、「荒野に住んで子どもを襲う女性の夜の鬼神」とあるが、小生は、ここから「鬼子母神」を連想してしまう。
鬼子母神とは、仏教説話に出てくる存在で、
「鬼子母神は初めハーリーティ(訶梨帝母)という夜叉で、千人の子供の母だったが、しばしば人の子をとって食っていた」
という。

西アジア一帯に伝わる「女の鬼神」(実は《大地母神》。鬼子母神の場合「千人の子供の母」という「豊穣さ」という属性をも併せ持っている)という同一の神話パターンが、「リリス」と「ハーリーティ」という二つの具体的な形として現れているとすれば、なかなか面白いものがあるのではないか。

ちなみに、仏教の説く「鬼子母神」の由来は、
「その行い(人の子をとって食うという行い)を止めさせるため、お釈迦様が、ハーリーティの最愛の末の息子を隠してしまったため、気も狂わんばかりにその子を探し回るが見つからない。そこへお釈迦様が現れ『子供がいなくなるということがどんなにつらいものか分かったか? お前の今までの悪行がそのような形で現れたのだ』と諭し、ハーリーティは親の心を知り心を入れ替え、仏道に帰依した」。
そして、鬼子母神として、子供を守り、安産をさせてくれる慈愛の神となった、そうな。
ちなみに、ハーリーティの最愛の末の息子の名を「愛奴」という。


今日のことば(31) ― 岡倉天心

2005-11-18 04:42:45 | Quotation
▲天心の弟子、下村観山が描いた画稿(東京芸術大学所蔵)。

「アジア人ひとりひとりの心臓は、彼らの圧追によるいいようのない苦しみに血を流していないであろうか?ひとりひとりの皮膚は、彼らの侮蔑的な眼の鞭の下でうずいていないであろうか?

ヨーロッパの脅迫そのものが、アジアを鞭うって、自覚的統一へみちびいている。アジアはつねに、その巨体をうごかすのに緩慢であった。しかし眠れる巨像は、あすにも目覚めて、おそるべき巨歩をふみだすかもしれない。そして、八億三千万の人間が正当な怒りを発して進むならば、そのひと足ごとに地球は震動し、アルプスはその根底まで揺れ、ラインとテームズは恐怖にさかまくであろう。」

(『アジアの覚醒』)

岡倉天心(1862 - 1913)
明治時代の美術行政家、思想家。本名は覚三。
フェノロサに哲学を学び、彼の日本美術研究を手伝う。大学卒業後、文部省に入り、明治23(1890)年、東京美術学校校長に就く。明治31(1898)年、美術学校騒動で下野、日本美術院を開き新日本画運動を行ない、横山大観、菱田春草ら近代を代表する日本画家も育てる。明治38(1905)年、ボストン美術館東洋部長となる。『東洋の理想』『茶の本』などの英文の著書を通して、アジアの文化、思想を世界に発信した。

『東洋の理想』の冒頭で「アジアは一つ」"Asia is one." と言った人物だ。このことばには、いくつもの問題があるのだが、それはさて置く。

今、言いたいのは、日本の近代美術に与えた影響のことだ。
歴史において1人の人間に大きな責任ありとするのは、いささか酷な話だが、今は彼を代表とする「ある制度」と考えておいていただきたい。

さて、天心の責任というのは、ある程度進んでいた近代美術の流れを、強引に自分の美意識ないし価値観の方向に引っ張っていってしまった、ということだ。

日本画の分野でいえば、江戸琳派はかなりのレベルで近代性を示していた。浮世絵にしても北斎を代表とするように、西欧の遠近法や陰影法を技術として獲得していた。したがって、明治初期の西欧文化との本格的な出会いによって、自主的に達成できたものがあったはずだ。
それを明治政府の美術行政に携わっていた天心は、狩野派主流の方向にもっていってしまった。

また、洋画を排斥する余り、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)から洋画の教育課程を排除した。したがって、本格的な美術を学ぶには、帰国した美術家につくか、自らが留学しなければならなくなった。
日本画、洋画という垣根が生じたのも、天心の美術行政に起因するだろう。

以上のことが、日本の近代美術を偏ったものにした。

一つは、美術においても派閥を作り、自らの派閥を主流化しなければならないという意識を、画家達に植え付けたこと。それは、ややもすれば美術における技芸ではなく、発言力の大きさを重要視することともなったし、権威主義的な傾向をも生んだ。

二つ目は、新しい傾向を国外に求め、それをいち早く持ち帰った者が、権威となれるという、輸入依存体質である。
先程述べたような、日本画・洋画という特異なジャンル分けを生んでしまったことも、日本美術特有の世界を形作った。

天心の評価は、生前の美術行政の面ではなく、死後、「アジアは一つ」という発言が、「大東亜共栄圏」を裏付けるものとして、誤読されることによって高まっていった。
そして、未だに、美術の面での功罪を含めた、等身大の天心像は描かれていないような気がする。

今日のことば(30) ― G. バシュラール

2005-11-17 01:19:33 | Quotation
「水は真に実質において死の代わりとなっている。(中略) 穏やかな水の中の死はいくつかの母性的特徴を持っている。(中略)ここでは水が誕生と死の両義的イマージュを混合している。 水は、無意識的記憶と予見的夢想とに充ちた全体なのだ」
(『水と夢』)

G. バシュラール(Gaston Bachelard, 1884 - 1962)
フランスの哲学者、科学哲学者。
彼の思想について論じるには、荷が重過ぎるので、ここでは省略して、いくつかバシュラールに関係する、意外な文章をご紹介する。

まずは、丸谷才一の堀口大学論「扇よお前は魂なのだから」から。
「水の女が堀口の詩におびただしく現れることは、彼の詩を好む人なら誰でもよく知つてゐる。たとへば『古風な幻影』は、

  夕ぐれわれ水を眺るに 
  流れるオフェリヤはなきか?
  シモアスの水に白鳥すまず 
  水衣(みづぎ)まとはぬレダとてもなきに……

とはじまり、

  オフェリヤの墓と思ひて水を見る
  夕ぐれの来て影をうつせば

で終る。(中略)
 この水の女への執着は、文学史的には堀口と浪漫主義文学とのゆかりのしるしになるだらうし、バシュラールふうに言へば「火よりも女性的で均一である元素」すなはち水、もつとさかのぼれば乳といふ母性的な水に対する彼の憧れの証拠」

次は、蕪村を引用しての安岡章太郎。バシュラールの名は出てこないが、
「そういえば、蕪村の『春風馬堤曲』には、
  むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
  慈母の懐抱別に春あり
の句がある。川と母とは、誰しも心の中で一緒になって思い出されるものらしい。」
(『僕の東京地図』)

参考資料 ガストン・バシュラール、小浜 俊郎・桜木 泰行訳『水と夢―物質の創造力についての試論』"L'eau et les reves : essai sur l'imagination de la matiere" (国文社)
     『丸谷才一批評集』第五巻「同時代の作家たち」(文藝春秋)
     安岡章太郎『僕の東京地図』(文化出版局)

今日のことば(29) ― 藤原定家

2005-11-16 01:55:33 | Quotation
「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事にあらず。」
(『明月記』)

藤原定家(ふじわらのていか/さだいえ。1162 - 1241)
平安末期から鎌倉初期の公家・歌人。藤原俊成の次男。
後鳥羽院の再興した和歌所の寄人となり『新古今和歌集』の撰者となり、また『新勅撰和歌集』を撰進した。『小倉百人一首』の元となった『百人秀歌』を、子藤原為家の舅宇都宮頼綱のために撰んだと言われる。

『明月記』は、治承4(1180)年から嘉禎1(1235)年まで書かれた定家の日記。
これは、定家の19歳から74歳までに当たる。
上記の引用は、治承4年9月の項目。治承4年の源頼朝の挙兵(平氏は慌ただしく福原遷都を決行する)を聞いての感想。
「紅旗」とは平家の赤旗、「征戎」とは戎(えびす:野蛮人)をたいらげること。つまりは、世の中では平家が源氏を討つとか言って騒がしいが、そんなものはオレの知ったものか、との意味になるだろう。

定家自身のノンポリ宣言なのか、それとも文学は政治や軍事には何の関わりもないとの自負なのか、解釈はいろいろあるだろう。
小生、個人的には、後者の解釈を採りたい。つまり、生活人/社会人としては、俗事にまみれて生きていかざるをえないが、文学者としてはそのような俗事を離れた存在(同時代人西行のような、世間から見れば「無用者」)でありたい、という若き定家の宣言と思うのである。

もっとも、この項目自体、後になっての定家の書き入れとの説もあるのではあるが……。

   見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやのあきの夕ぐれ 

参考資料 堀田善衛『定家明月記私抄』(筑摩書房)
     今川文雄『訓読明月記』(河出書房新社)

今日のことば(28) ― A. ペルト

2005-11-15 00:00:47 | Quotation
「私の音楽は、あらゆる色を含む白色光に喩えることができよう。プリズムのみが、その光を分光し、多彩な色を現出させることができる。私の音楽におけるプリズムとは、聴く人の精神に他ならない。」

A. ペルト(Arvo Part. 1935 - )
エストニア生まれの作曲家。英国のジョン・タヴナーなどとともに「宗教的ミニマリズム」と称せられる作風で知られる。
タリン音楽院で学び、卒業後は放送局のレコーディング・ディレクターとして働くかたわら、作曲活動を行ない、1961年に作ったオラトリオ『世界の歩み』で、モスクワの作曲コンクールに優勝。以後、新古典主義や十二音技法、ミュージック・セリエルなどに基づく作曲を行なうが、長い休止期間を経て、「ティンティナブリ(「鈴の音」の意味)様式」と言われる作風にたどり着く。

引用のことばは、必ずしもペルトに限ったことではないだろう。
また、音楽のみについての話ではないと思う。
広く、藝術作品とそれを享受する人びととの関係として捉えた方が、示唆することころが大きい。
もっと広く言えば、前回のレインの項で述べたような、藝術作品を挟んだ「自己と他者」との関係とも言えよう。いや、藝術作品に限る必要もないかもしれない。
それを「ことば」と置き換えてみよう。

「ことば」は完全ではない、とよく言われる。しかし、われわれは「ことば」によって分節された世界に生きているのだから、それに頼るしかしかたがないのも確かなこと。
むしろ、問題なのは、「ことば」自体にあるのではなく、それを発する人間と、それを受ける人間との関係性にあるのでないか。

ペルトを聴きながら、そのようなことを考えている。

参考資料 ARVO PART "TABULA RASA" (ECM)
     ARVO PART "ARBOS" (ECM)