「それが何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。」
(「萬朝報」明治31年11月6日)
齋藤緑雨(さいとう・りょくう、1867 - 1904)
小説家、評論家、随筆家。本名は賢(まさる)。正直正太夫、江東みどり、緑雨醒客、登仙坊などの筆名もある。明治法律學校中退。新聞界に入り、「今日新聞」「東西新聞」「国会」「萬朝報」などを渡り歩く。1879(明治22)年の『小説八宗』以降は批評家として、1881(明治24)年の『油地獄』以降は小説家としても知られる。1897(明治30)年『おぼえ帳』以下の短文隨筆集、1898(明治31)年『眼前口頭』以下の警語集(アフォリズム集)を書き始める。初期の批評では激しい罵倒を行い、あちこちから反感を買った。晩年に至っても新聞で筆禍事件をたびたび起した。
齋藤緑雨は、貧窮の中で亡くなった。「貧」に関するアフォリズム、
「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡(しゅうか)敵せずと知るべし。」(「青眼白頭」)
は良く知られている。
そのほか、政治・風俗・文学とその筆の対象は多いが、中でも、次のようなアフォリズムは、後の芥川龍之介の警句集『侏儒の言葉』を思わせるものがある。
「軍人の跋扈を憤れる人よ、去つて淺草公園に行け、渠等(かれら)が木戸錢は子供と同じく半額なり。」(「萬朝報」明治31年11月12日)
――「軍人は小児に近いものである。(中略)この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。(中略)わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」(『侏儒の言葉』「小児」)
参考資料 齋藤緑雨著、中野三敏編『緑雨警語』(冨山房)
(「萬朝報」明治31年11月6日)
齋藤緑雨(さいとう・りょくう、1867 - 1904)
小説家、評論家、随筆家。本名は賢(まさる)。正直正太夫、江東みどり、緑雨醒客、登仙坊などの筆名もある。明治法律學校中退。新聞界に入り、「今日新聞」「東西新聞」「国会」「萬朝報」などを渡り歩く。1879(明治22)年の『小説八宗』以降は批評家として、1881(明治24)年の『油地獄』以降は小説家としても知られる。1897(明治30)年『おぼえ帳』以下の短文隨筆集、1898(明治31)年『眼前口頭』以下の警語集(アフォリズム集)を書き始める。初期の批評では激しい罵倒を行い、あちこちから反感を買った。晩年に至っても新聞で筆禍事件をたびたび起した。
齋藤緑雨は、貧窮の中で亡くなった。「貧」に関するアフォリズム、
「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡(しゅうか)敵せずと知るべし。」(「青眼白頭」)
は良く知られている。
そのほか、政治・風俗・文学とその筆の対象は多いが、中でも、次のようなアフォリズムは、後の芥川龍之介の警句集『侏儒の言葉』を思わせるものがある。
「軍人の跋扈を憤れる人よ、去つて淺草公園に行け、渠等(かれら)が木戸錢は子供と同じく半額なり。」(「萬朝報」明治31年11月12日)
――「軍人は小児に近いものである。(中略)この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。(中略)わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」(『侏儒の言葉』「小児」)
参考資料 齋藤緑雨著、中野三敏編『緑雨警語』(冨山房)