一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

『贋作者列伝』を読む。

2005-11-07 12:30:36 | Book Review
1986年9月初版発行という、いささか古い本ではありますが、まだ市場に出ているようなので、ここで取り上げます。

なぜ、今さらそのような旧刊を扱うかと言えば、小生の音楽ブログ『「一風斎の趣味的生活」Blog版』で、伝ハイドン(現在は真作ではないということが明らかになっている)の『オーボエ協奏曲 ハ長調』に関しての記事を掲載したからなんですね。
まあ、この場合は、楽譜に後世の筆で作曲者名がハイドンである旨書かれていたという事情。ですから、「贋作」「偽作」というより、「真作」であると誤解されていた節がある。レオポルド・モーツァルトの『おもちゃの交響曲』が長い間、ハイドンの作品だと思われていたことに、事情は似ている。

それはともかく、「贋作」だの「真作」だのと言われるようになったのは、世の中に「作品」という意識が生まれてからの話。
つまり、作者の側に「自意識」が生れ、作品を享受する側にも「個性」というものを認めてから、ということになるでしょう(経済的な問題はさて置いて)。

よく言われるのが、建築家の名前は記録されても、その建築に使われた1個1個のレンガの作者名は問われない、との話。
美術にしても、音楽にしても、ある時代までは、そのレンガ職人と同じだったわけです。
それが、「職人」から「芸術家」になるにしたがって、「贋作問題」も持ち上がってきた。

それを種村季弘は、この本の「あとがき」の中で、
「オリジナリティをむやみに尊重するのは近代特有の呪物崇拝である」
と喝破している。
また、コレクターという存在、あるいは経済的な価値が作品に生まれなければ、「贋作」も生じない。
「ルネッサンスの画家たちはしばしばオリジナルを二点かそれ以上制作した。戦争や政治的動乱のために一点が破損または劫掠されても、スペアの他の一点が残されるための配慮からである。したがって作品のオリジナリティを保証する画家個人の署名も(まだ)意味をなさない。署名=オリジナル=コレクターの個人所有とうサイクルが発生するのは近代的自我の発生と同時である」

音楽の場合は、楽譜の出版によって、作曲者個人に作品への対価が発生してからのこととなります(その点は、本書で扱われている、デューラー署名の版画のケースに類似している)。

この本で扱われている贋作者は、したがって、上記デューラーの版画以外は、近代における人物。
一番有名なのは、フェルメールの贋作者、ハンス・ファン・メーヘレンでしょう(本書「愛国者vs贋作者」)。

それでは、贋作者の動機は、すべて経済的なものか、というと、そうではないのが興味深い。

中には、意識せずに作ったものが、贋作とされたものもある(制作者と利益享受者とが別の場合)。
ペッピ・リフェッサーの作った「ゴシック彫刻」がそのケース(「贋作を作らなかった贋作者」)。
彼の場合、彫刻は、
「祖父から孫へ、さらにまた生まれてくるはずのその孫の子へと、時代にほぼ無関係に家伝として永代継承されるべき数世紀来の彫刻技術」
に基くものだった。
それを手に入れた「ペテン師」に、美術館がまんまと騙されてしまったというわけ。

中には、愛国的動機から、というものもある(上記、ハンス・ファン・メーヘレンの場合)。
つまりは、「国の宝」であるフェルメールの絵画を、ナチスに渡さないために、
「巧妙な贋作をゲーリング元帥に信じられぬ高額で売りつけて協力者の仮面をかぶりながら無知なナチス高官を白痴(こけ)にした」。

以上のような贋作の動機も含め、藝術における「オリジナル」とは何か、ということにも読者に考えを及ぼさせる。
なかなかに、興味深い1冊であります。

種村季弘
『贋作者列伝』
青土社
定価:1835円(税込)


今日のことば(20) ― A. シュライヒャー

2005-11-07 00:00:05 | Quotation
「諸言語は自然の有機体であって、それは、人間の意志にかかわりなく成立し、一定の法則にもとづいて成長し、発展し、やがて老いて、死滅する。言語にもやはり我々が〈生命〉と呼んでいる一連の現象がある。」
(『ダーウィン理論と言語学』)

A. シュライヒャー(August Schleicher. 1821 - 68)
19世紀ドイツの言語学者。シュライヒャーは、「科学の世紀」である19 世紀において、ダーウィンの進化論を取り入れ、言語の変化の歴史の解明に用いようとした。印欧歴史言語学において言語の「系統」を、樹状図で表現した最初の人であることは有名。

上記の引用は、ドイツへのダーウィン思想の定着に努めた、生物学者のエルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel. 1834 - 1919) へ、シュライヒャーが送った公開書簡の一説。ここで、シュライヒャーは、言語を生物学的な比喩で語っている。一方、ブルークマンやジェーフェルスなどの青年文法学派(Junggrammatiker)は、このような生物学的な比喩を否定し、「音韻変化は例外のない一定の法則に従って起こる」というような物理学的な定式によって音韻や音韻法則を説明しようとした。

参考資料 田中克彦『ことばとは何か』(筑摩書房)
      〃  『国家語をこえて―国際化のなかの日本語』(筑摩書房)