一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「つむじ曲がり」の効用 その21

2005-11-01 13:11:46 | Essay
ここで思い出していただきたい。
荘子の述べた〈用〉も〈無用〉(=「より大きな有用性」)も、このような文脈の中では、「理性・知性・功利・意識・世俗的現実」に立っての概念であったことを。
また、明治時代の多くの文学者が、インフェリオリティー・コンプレックスとして持っていた「無用者」感覚も、それと同じ土俵の上にあることを。

そのような荘子的な〈用〉〈無用〉の世界を超える可能性を、たとえ一瞬なりとも人々に感じさせるのが、〈カーニヴァル的世界感覚〉なのである。
なぜならば、〈カーニヴァル〉では、抑圧・疎外された内なる狂気・不条理・本能・衝動・情念などが、解放され、十全たる〈世界〉が顔をのぞかせるからである。

古来、芸術家は、その創造的なしごとを行うに当たって、自らその十全たる〈世界〉を生きることが必要であった。
芸術家は「人間本来のもつ豊穣性を平均的な人びとのように限定・狭隘化することなく、全体的に引き受けることによって〈完全な人間〉の姿を具現化することをめざしているのである。」(福島 前掲書)
*生まれた作品に、われわれが感動するのは、作品を通して、そのような〈完全な人間〉のヴィジョンを見るからではないのか。

もう、お分かりであろう。藝術作品以外に、芸術家のような存在が目指す〈完全なる人間〉の姿を、われわれ一般の人間に垣間見せるのが、〈カーニヴァル〉という特別な時間なのである。
*ここで、単に〈非日常〉=「〈ハレ〉の時間」ではないことに注意されたい。〈日常〉〈非日常〉あるいは〈ケ〉〈ハレ〉という分節のしかたは、〈用〉〈無用〉のそれと、ほぼ同じだからである)。

その時間は、〈聖〉でも〈俗〉でもなく、かつ〈聖〉でもあり〈俗〉でもある。
「胡蝶の夢」のように、その境界は定かではない。

以下、続く。


今日のことば(14) ― 石橋湛山

2005-11-01 00:12:18 | Quotation
「政治家も軍人も新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないという。勿論そうあらねばならぬはずである。我輩もまたまさに、我が軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。しかしながら我輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的でないとすれば、他国から侵略せらるる虞れのない限り、我国は軍備を整うる必要はないはずだが、一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのかということである」
(「大日本主義の幻想」、「東洋経済新報」1921年7月30日号)

石橋湛山(1884 - 1973)
早稲田大学文学部卒業後、明治44(1911)年、東洋経済新報社に入社。「東洋時報」から「東洋経済新報」に移り社説を担当した。上記の文章を書いた時、湛山36歳であった。
自由主義の立場に立った湛山は、軍国主義への道をひた走る軍部と対立した。昭和16(1941)年、東洋経済新報社社長に就任するが、軍部との妥協を排し、戦争中も持論を貫く。
戦後の昭和31(1956)年には、岸信介を自民党総裁選で破り、総理大臣となるが、病気のため2か月で辞職した。

さて、今日この文章を読んで思うこと1つ。
「一体何国から我が国は侵略せらるる虞れがあるのか」
との湛山の疑問に、明確に答えられる向きはあるのだろうか?

参考資料 半藤一利『戦う石橋湛山』(東京経済新報社)
     佐高 信『石原莞爾 その虚飾』(講談社)