ここで思い出していただきたい。
荘子の述べた〈用〉も〈無用〉(=「より大きな有用性」)も、このような文脈の中では、「理性・知性・功利・意識・世俗的現実」に立っての概念であったことを。
また、明治時代の多くの文学者が、インフェリオリティー・コンプレックスとして持っていた「無用者」感覚も、それと同じ土俵の上にあることを。
そのような荘子的な〈用〉〈無用〉の世界を超える可能性を、たとえ一瞬なりとも人々に感じさせるのが、〈カーニヴァル的世界感覚〉なのである。
なぜならば、〈カーニヴァル〉では、抑圧・疎外された内なる狂気・不条理・本能・衝動・情念などが、解放され、十全たる〈世界〉が顔をのぞかせるからである。
古来、芸術家は、その創造的なしごとを行うに当たって、自らその十全たる〈世界〉を生きることが必要であった。
芸術家は「人間本来のもつ豊穣性を平均的な人びとのように限定・狭隘化することなく、全体的に引き受けることによって〈完全な人間〉の姿を具現化することをめざしているのである。」(福島 前掲書)
もう、お分かりであろう。藝術作品以外に、芸術家のような存在が目指す〈完全なる人間〉の姿を、われわれ一般の人間に垣間見せるのが、〈カーニヴァル〉という特別な時間なのである。
その時間は、〈聖〉でも〈俗〉でもなく、かつ〈聖〉でもあり〈俗〉でもある。
「胡蝶の夢」のように、その境界は定かではない。
荘子の述べた〈用〉も〈無用〉(=「より大きな有用性」)も、このような文脈の中では、「理性・知性・功利・意識・世俗的現実」に立っての概念であったことを。
また、明治時代の多くの文学者が、インフェリオリティー・コンプレックスとして持っていた「無用者」感覚も、それと同じ土俵の上にあることを。
そのような荘子的な〈用〉〈無用〉の世界を超える可能性を、たとえ一瞬なりとも人々に感じさせるのが、〈カーニヴァル的世界感覚〉なのである。
なぜならば、〈カーニヴァル〉では、抑圧・疎外された内なる狂気・不条理・本能・衝動・情念などが、解放され、十全たる〈世界〉が顔をのぞかせるからである。
古来、芸術家は、その創造的なしごとを行うに当たって、自らその十全たる〈世界〉を生きることが必要であった。
芸術家は「人間本来のもつ豊穣性を平均的な人びとのように限定・狭隘化することなく、全体的に引き受けることによって〈完全な人間〉の姿を具現化することをめざしているのである。」(福島 前掲書)
*生まれた作品に、われわれが感動するのは、作品を通して、そのような〈完全な人間〉のヴィジョンを見るからではないのか。
もう、お分かりであろう。藝術作品以外に、芸術家のような存在が目指す〈完全なる人間〉の姿を、われわれ一般の人間に垣間見せるのが、〈カーニヴァル〉という特別な時間なのである。
*ここで、単に〈非日常〉=「〈ハレ〉の時間」ではないことに注意されたい。〈日常〉〈非日常〉あるいは〈ケ〉〈ハレ〉という分節のしかたは、〈用〉〈無用〉のそれと、ほぼ同じだからである)。
その時間は、〈聖〉でも〈俗〉でもなく、かつ〈聖〉でもあり〈俗〉でもある。
「胡蝶の夢」のように、その境界は定かではない。
以下、続く。