「日露戦争のころの日本陸軍の装備は世界の準一流で、第一次世界大戦以後に日本陸軍のそれは第三流であり、第二次世界大戦のころには信じられないほどのことだが、日露戦争時代の装備にほんの毛のはえた程度のものでしかなかった。(中略)その陸軍が強引に押しきって、ノモンハンからわずか二年後に米国と英国に宣戦布告をしているのである。こういう愚行ができるのは集団的政治発狂者以外にありうるだろうか。」
(『大正生れの「故老」』)
司馬遼太郎(1923 - 96)
本名福田定一(さだいち)。大阪外国語学校蒙古語科在学中の昭和18(1943)年、学徒出陣により戦車連隊に幹部候補生として入隊。〈九七式中戦車〉の後進性および戦車戦術の無謀さにより、日本近代化の歪みに深く思いを致すことになる。
戦後、新日本新聞社を経て産經新聞社へ入社。文化部勤務のかたわら、諸説執筆を始める。昭和34(1959)年『梟の城』で直木賞受賞。以後、各時代の多様な人物を描く数多くの歴史小説、エッセイ、紀行文などを発表。
参考資料 司馬遼太郎『歴史と視点―私の雑記帖』(新潮社)
丸谷才一『みみづくの夢』(中央公論社)
(『大正生れの「故老」』)
司馬遼太郎(1923 - 96)
本名福田定一(さだいち)。大阪外国語学校蒙古語科在学中の昭和18(1943)年、学徒出陣により戦車連隊に幹部候補生として入隊。〈九七式中戦車〉の後進性および戦車戦術の無謀さにより、日本近代化の歪みに深く思いを致すことになる。
戦後、新日本新聞社を経て産經新聞社へ入社。文化部勤務のかたわら、諸説執筆を始める。昭和34(1959)年『梟の城』で直木賞受賞。以後、各時代の多様な人物を描く数多くの歴史小説、エッセイ、紀行文などを発表。
参考資料 司馬遼太郎『歴史と視点―私の雑記帖』(新潮社)
丸谷才一『みみづくの夢』(中央公論社)