「国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。(中略)平たくいえば、金がなければ戦争はできぬということなり」
(旧海軍記録文書)
加藤友三郎(1861 - 1923)
海軍軍人、政治家。広島藩士の息子として広島に生まれる。海軍兵学校7期卒業。日清戦争時には巡洋艦〈吉野〉砲術長として、日露戦争時には連合艦隊参謀長として戦艦〈三笠〉に乗組み、戦闘に参加。
日露戦争後は、第一艦隊司令長官、海軍大臣を務める。大臣在任中に、戦艦8隻、巡洋艦8隻の〈八八艦隊〉の予算獲得に努める。これにより、国防費が国家予算の3割を超え、数年後には4割を超過する見込みだった。
大正10(1921)年、軍縮会議に海軍全権として出席。〈八八艦隊〉の計画を葬ることになる海軍軍備制限条約(ワシントン条約)締結に賛成する。
上記のことばは、この会議の直後に加藤が言ったことば。
「軍備競争は国家的財政破綻をきたし、とうてい総力戦に耐えないことになる」
との趣旨である。
なお、この文書の後段には、
「結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」
とある。
ワシントン条約締結(締結は大正11年2月)により、国防費は2割台に激減し、国家財政の危機は回避された。
大正11(1922)年6月、加藤は総理大臣となり、海軍軍縮、シベリア撤兵を実行したが、在任中に病死した。
『日本海軍史』に曰く、
「ワシントン軍縮会議はまさに『天佑』だったと言えよう」
と。
参考資料 半藤一利、横山恵一ほか『歴代海軍大将全覧』(中央公論新社)
(旧海軍記録文書)
加藤友三郎(1861 - 1923)
海軍軍人、政治家。広島藩士の息子として広島に生まれる。海軍兵学校7期卒業。日清戦争時には巡洋艦〈吉野〉砲術長として、日露戦争時には連合艦隊参謀長として戦艦〈三笠〉に乗組み、戦闘に参加。
日露戦争後は、第一艦隊司令長官、海軍大臣を務める。大臣在任中に、戦艦8隻、巡洋艦8隻の〈八八艦隊〉の予算獲得に努める。これにより、国防費が国家予算の3割を超え、数年後には4割を超過する見込みだった。
大正10(1921)年、軍縮会議に海軍全権として出席。〈八八艦隊〉の計画を葬ることになる海軍軍備制限条約(ワシントン条約)締結に賛成する。
上記のことばは、この会議の直後に加藤が言ったことば。
「軍備競争は国家的財政破綻をきたし、とうてい総力戦に耐えないことになる」
との趣旨である。
なお、この文書の後段には、
「結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。」
とある。
ワシントン条約締結(締結は大正11年2月)により、国防費は2割台に激減し、国家財政の危機は回避された。
大正11(1922)年6月、加藤は総理大臣となり、海軍軍縮、シベリア撤兵を実行したが、在任中に病死した。
『日本海軍史』に曰く、
「ワシントン軍縮会議はまさに『天佑』だったと言えよう」
と。
参考資料 半藤一利、横山恵一ほか『歴代海軍大将全覧』(中央公論新社)