一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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『戊辰戦争―敗者の明治維新』を読む。

2005-11-25 10:40:17 | Book Review
今回は、ストレートな書評ではなく、見解の相違を明らかにする。
勝海舟の行動および意図に関することである。

新政府軍の江戸城総攻撃を控えて、海舟は幾つかの手を打った。
海舟の腹は、開城止むなしとするもの。
そのために、海軍兵力での決戦を回避、「主戦派の暴発を極力抑えてきた」。
というのも、徳川家の存続を図るためには、「戦争をせずに談判交渉で、できるかぎり有利な譲歩を政府(一風斎註・維新政府)からかち取ろうともくろんでいたからである」。

打った手の1つは、イギリス公使パークスに働きかけること(この件に関しては、半藤一利『それからの海舟』に詳しい)。
この工作によって、薩摩側に立っていると思われていたパークスが、
「恭順している者を攻撃すべきでないとし、また居留民の安全も保証できないようでは新政府を信頼できない」
と言いだしたのである。

もう1つの手は、宮廷への工作である。
静寛院(皇女和宮)から宮廷の親近者や公家へ、輪王寺宮(後の北白川宮)から大総督宮(有栖川宮熾仁親王)へ、山内容堂・松平慶永(春嶽)などの諸侯へ、といった工作ルートであるが、海舟はこの工作には深くは関与はしていないようだ。しかし、その工作の成否に関しての報告は受けていたことであろう。

しかし、最悪の事態を想定する必要はある。
それが「焦土作戦」だった。
「もし敵が自分らの嘆願を受入れずに、あくまでそうした策(一風斎註・自軍の進んだ後の市街に火を放ちながら、一挙に江戸城目がけて襲いかかるという新政府軍の作戦)を用いるなら、自分の方から敵の進路の市街を焼いて妨害しよう」
という作戦。

――余談ではあるが、勝は長崎海軍伝習所時代に、オランダ人士官からナポレオンに攻め込まれたモスクワ郊外での、ロシア軍の作戦を聞いていた可能性がある。

ここからが、小生の異論である。

著者は、「難民を救うように手配した」勝の策を、
「それにしても江戸の市民こそいい迷惑である。彼らは家財とひきかえに一体なにを得ることができるであろうか。勝にとっては徳川家およびその家臣の存亡がなによりも優先し、一般の市民などは生命さえ助かれば、まずそれでよいと考えていたにすぎなかったのである。」
と評価する。

けれども、「一般の市民」などは、この時代存在しない。
火事に慣れた下層町民に家財などはあってなきがごときもの、「生命さえ助かれば」それで充分だったのではないのか。
また、彼らにとって火事は、その後の復興によって手間賃も上がり、仕事のチャンスも増える、絶好の機会でもあったのである。

であるから、家財を失うことを恐れるのは、上層町民あるいは「お歴々」と称せられる上級旗本層だけなのだ。
ましてや、気の効いた上層町民などは、深川辺りに復旧用の資材を用意している。
となると、焦土戦術で一番迷惑するのは、かえって上層旗本層だけではないのか(中層、下層の旗本・御家人などは、下層町民と事情はさほど変わりない)。

どうやら著者は、江戸時代の常識を忘れ、近代戦(「沖縄戦」辺り)を想定して、「一般市民」は常に被害者である、という固定観念にとらわれ過ぎているのではないかと、小生には思えてならない。

佐々木克
『戊辰戦争―敗者の明治維新』
中公新書
定価:本体735円(本体700円)
ISBN4121004558


今日のことば(36) ―― 内田魯庵

2005-11-25 00:08:28 | Quotation
「我々は高等遊民其の物を決して国家の為に恐れるものではない。たゞ、高等遊民を恐れて、高等の智識に走らんとする国民の大勢を抑へんとするものあるを恐れるのである。」
(『文明国には必ず智識ある高等遊民あり』)

内田魯庵(うちだ・ろあん、1868 - 1929)
小説家、翻訳家、評論家、随筆家。本名は貢(みつぎ)、幼名は貢太郎、別号は不知庵。1887(明治30)年以降は、魯庵の名で知られた。若くして『罪と罰』を翻訳、『くれの廿八日』『血ざくら』などのほか、多くの小説を書いたが、1901(明治34)年から丸善株式会社に入社、図書顧問として輸入図書の大半に目を通したといわれる。この丸善には終生務め、雑誌『學鐙』の編輯にも当たった。また、書誌学者としても重んじられた。

国民に有用性を求める、明治日本のような「一流国に追いつく」ことが目標の国家にとって、「無用」としか思えない「高等遊民」の存在が増えることは、「亡国の兆し」としか考えられなかった。
したがって、高等教育機関での学問と言えば、国家の官吏として必要なものが主流。文学などは、「高等遊民」をつくるだけの無益な学問視されていたのである(柳田國男にとって、民俗学は「経世済民」の学の1つであるという意識が抜けきらなかった。彼は、東京帝大法科大学卒業後、農商務省に入省。その後、法制局参事官、貴族院書記官長を務めたという官僚生活を送っている)。

このような官学アカデミーに対峙する知識人として、「高等遊民」という存在を捉えることができよう(官学アカデミーの内部にありながら、「高等遊民」の積極的な価値を認めていたのが夏目漱石)。

このような構造に、旧幕臣系の知識人という存在が重なり合ってくるのが、明治という時代の特徴の1つ。内田魯庵も、幕臣内田正の長男という、準「旧幕臣系の知識人」と呼んでもいい存在である。

山口昌男によれば、
「近代日本の諸学(人類学・考古学・民俗学・美術史……)は、学校のようなタテ型でない趣味や遊びに根ざした市井の自由なネットワークに芽吹き、魯庵はその象徴的存在だった」
という評価になる。

参考資料 山口昌男『内田魯庵山脈―〈失われた日本人〉発掘』(晶文社)
     山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)