「アジア人ひとりひとりの心臓は、彼らの圧追によるいいようのない苦しみに血を流していないであろうか?ひとりひとりの皮膚は、彼らの侮蔑的な眼の鞭の下でうずいていないであろうか?
ヨーロッパの脅迫そのものが、アジアを鞭うって、自覚的統一へみちびいている。アジアはつねに、その巨体をうごかすのに緩慢であった。しかし眠れる巨像は、あすにも目覚めて、おそるべき巨歩をふみだすかもしれない。そして、八億三千万の人間が正当な怒りを発して進むならば、そのひと足ごとに地球は震動し、アルプスはその根底まで揺れ、ラインとテームズは恐怖にさかまくであろう。」
(『アジアの覚醒』)
岡倉天心(1862 - 1913)
明治時代の美術行政家、思想家。本名は覚三。
フェノロサに哲学を学び、彼の日本美術研究を手伝う。大学卒業後、文部省に入り、明治23(1890)年、東京美術学校校長に就く。明治31(1898)年、美術学校騒動で下野、日本美術院を開き新日本画運動を行ない、横山大観、菱田春草ら近代を代表する日本画家も育てる。明治38(1905)年、ボストン美術館東洋部長となる。『東洋の理想』『茶の本』などの英文の著書を通して、アジアの文化、思想を世界に発信した。
『東洋の理想』の冒頭で「アジアは一つ」"Asia is one." と言った人物だ。このことばには、いくつもの問題があるのだが、それはさて置く。
今、言いたいのは、日本の近代美術に与えた影響のことだ。
歴史において1人の人間に大きな責任ありとするのは、いささか酷な話だが、今は彼を代表とする「ある制度」と考えておいていただきたい。
さて、天心の責任というのは、ある程度進んでいた近代美術の流れを、強引に自分の美意識ないし価値観の方向に引っ張っていってしまった、ということだ。
日本画の分野でいえば、江戸琳派はかなりのレベルで近代性を示していた。浮世絵にしても北斎を代表とするように、西欧の遠近法や陰影法を技術として獲得していた。したがって、明治初期の西欧文化との本格的な出会いによって、自主的に達成できたものがあったはずだ。
それを明治政府の美術行政に携わっていた天心は、狩野派主流の方向にもっていってしまった。
また、洋画を排斥する余り、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)から洋画の教育課程を排除した。したがって、本格的な美術を学ぶには、帰国した美術家につくか、自らが留学しなければならなくなった。
日本画、洋画という垣根が生じたのも、天心の美術行政に起因するだろう。
以上のことが、日本の近代美術を偏ったものにした。
一つは、美術においても派閥を作り、自らの派閥を主流化しなければならないという意識を、画家達に植え付けたこと。それは、ややもすれば美術における技芸ではなく、発言力の大きさを重要視することともなったし、権威主義的な傾向をも生んだ。
二つ目は、新しい傾向を国外に求め、それをいち早く持ち帰った者が、権威となれるという、輸入依存体質である。
先程述べたような、日本画・洋画という特異なジャンル分けを生んでしまったことも、日本美術特有の世界を形作った。
天心の評価は、生前の美術行政の面ではなく、死後、「アジアは一つ」という発言が、「大東亜共栄圏」を裏付けるものとして、誤読されることによって高まっていった。
そして、未だに、美術の面での功罪を含めた、等身大の天心像は描かれていないような気がする。