一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『昭和史発掘 4』を読む。その3

2005-06-29 00:30:30 | Book Review
●「天皇機関説」
今考えると、「天皇機関説」などがなぜ問題になったのか、分りずらい面がある。
というのは、今日の日本国憲法下では、天皇の大権(明治憲法の規定で保障された天皇の政治上の権限。統治権の他、国務大権、統帥大権、皇室大権があった)など、想像もつかないからだ。
ちなみに「靖国問題」と天皇大権とは微妙に関係している。

昭和10(1935)年に、政治的に大きな問題となった美濃部達吉(1873 - 1948)の「天皇機関説」とは、
「この大権は天皇が勝手に行使するものではなく、国民の利益の上に立って行使される。つまり、天皇の独裁の範囲を縮小し、それだけ議会の権限を拡大するという一種の議会在権的なものだった。美濃部は、天皇の意義をその人格的存在と、法人団体の代表者的存在(つまり、国家の「機関」)と、二つに分けたのである。」

もともと、明治憲法が矛盾した性格―「封建的な専制政治の面=天皇の大権を絶対無制限なものとする」と「民主主義的な面=天皇の大権は立憲的立場から制限されれうるものとする」との2つを持っていたため、そのどちらを強調するかによって、実際の政治運営も異なってくるわけだ。
特に、軍部は、天皇の統帥大権が絶対であれば、議会からの予算面や条約面での掣肘がまったくなくなるため、前者の立場を採っていた(条約面では、ワシントン条約やロンドン条約での、艦艇の制限を不服とする「艦隊派」という存在が海軍にあった)。
ここに、軍部の勢力が強まっていくにしたがって、美濃部攻撃=「天皇機関説排撃の動き」が激しくなる由縁があった。

時の野党である政友会は、内閣打倒のため、「天皇機関説」攻撃を利用した。
岡田(啓介。元海軍大将)内閣も、官僚内閣の性格が強く、軍部と妥協的だったために、美濃部を守ることの意味が充分には分かっていなかった。

陸軍大臣林銑十郎が、
「美濃部博士の吐いておられる憲法の議論は、軍の伝統上の精神、すなわち、われわれの最も尊重しておる軍人精神というものと符合しておらない」
と貴族院の答弁で述べるのは、不思議はないが、
首相までが、
「これ(天皇機関説)が国民道徳の上に悪影響を及ぼし、また不敬に亘るものとした場合、何らかの処置を要するについては慎重な考慮をする考えである」
とするのは、野党および右翼勢力に突破口を自から与えたようなものである。

結果、美濃部の著書『憲法撮要』『逐条憲法精義』は発禁、司法処分は免れたものの一切の公職を退かざるをえなくなった。

美濃部は隠棲中も右翼に付け狙われ、ある日、右翼団体幹部に襲撃を受け、足に銃弾を受けた。
手術入院中、病院に警視庁から電話が掛かった。
「いま、陸軍の部隊が首相官邸はじめ、ほうぼうを襲撃して……」
2・26事件の勃発を告げる警告の電話だった。

「『天皇機関説』攻撃はファッショの嵐となって、当の政友会の野望と関係なく、美濃部憲法を圧し潰し、雪崩のように政党政治自体をも破滅に追い込んだのである。」

この項、つづく。