一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

『明治の音―西洋人が聴いた近代日本』を読む。その3

2005-06-09 05:42:29 | Book Review
本書第三章で取り扱われるラフカディオ・ハーンについては、もはや紹介する必要もないかもしれない。

音に関して言えば、次の一節は有名だ。
「大橋を渡る下駄の響ほど忘れ難いものはない。足速で、楽しくて、音楽的で、大舞踏会の音響にも似ている。そう言えば、それは実際に舞踏そのものだ。人々は皆がみな爪先で歩いている」(『神々の国の首都』)
それほど、親日家として知られたハーンは、ついには日本に帰化することにもなる。

であるからこそ、ハーンは日本の近代の音を嫌った。
「絨毯―ピアノ―窓―カーテン―ブラスバンド―教会! これらのものをどんなにわたくしは憎悪することでしょう !!」

これに対して、日本の音についての、ハーンの「耳」の特徴とは何であろうか。

著者は、まず「夜の領分に属するものとしての聴覚」を挙げる。
「聴覚は昼の視覚に対して夜の領分に属している。」
しかも、その聴覚は「現世から死者の世界へそのまま通じるような声」によって開かれるのである。これは、後の『怪談』につながるハーンの特性であろう。
「形として残り得ない音が逆に持つ幻惑力の強さ、ハーンはそれを強く意識した作家である。」

次に「共鳴する声」を著者は挙げる。
ハーンの妻節子の回想によれば、「耳なし芳一」を執筆しているとき、
「私はふすまを開けないで次の間から、小さい声で、芳一芳一と呼んで見ました。『はい、私は盲目です。あなたはどなたでございますか』と内から云つて、それで黙つて居るのでございます。」
という場面があったという。
また、山鳩の声を模倣するのを好み、
「『あの声聞きますか、面白いですね』自分でも、テテポッポ、カカポッポと真似して、これでよいかなどと申しました。」
という。
「その(日本語における擬声語の)豊かなヴァリエーションも含めてそれに接したハーンにとって、こうした言葉は諸存在と彼自身がより直接に反応するかけがいのない触媒であったに違いない。」

この章の最後に、最晩年のハーンに特徴的なこととして、
「自らがそうした微小の存在と近いところにいることの確認、あるいはそれとの同一化へと向かうことである。」
とある。
ハーンにとって日本とは、世界を放浪した上でやっと辿り着いた、自らのアイデンティティーを確認できる「音の場」であったようだ。

〈この項、つづく〉