一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『靖国問題』を読む。その1

2005-06-17 00:34:25 | Book Review
この本に対する書評のいくつかは、感情論に走っていると思うので(対象を「プロパガンダ」視するのは、もはや書評とは言い難い)、ここではごく客観的に整理する。

まず、著者の指摘する「靖国神社」の問題点は、

(1) 感情の問題
 施設の目的は、故人に対する〈追悼〉か〈顕彰〉か。
 *〈追悼〉:「悲哀の感情の中で痛みをともにすること」
  〈顕彰〉:「英霊に感謝しその勲功を讃美すること」

(2) 歴史認識の問題
 施設に祀られるのは、誰か、その範囲は何を基準にしているか。

(3) 宗教の問題
 靖国神社は、宗教施設かどうか。

(4) 文化の問題
 靖国神社への参拝は文化的習俗なのかどうか。

という4点になる(これが、そのまま章立てとなっている)。

著者のそれへの解答は、

(1)' 「靖国のシステムの本質が、戦死の悲しみを喜びに、不幸を幸福に逆転させる『感情の錬金術』にある」
 つまりは、個人的/共同体的な追悼ではなく、国民国家による顕彰であるとする。

(2)'「A級戦犯合祀問題は靖国に関わる歴史認識問題の一部にすぎず、本来、日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべき」
 靖国神社に祀られているのは、戊辰戦争以来アジア/太平洋戦争(抵抗運動弾圧事件を含む)に到るまでの日本人戦没者(戊辰戦争・西南戦争では「官軍」側のみ)と、旧植民地統治下で兵役に就いた戦没者である。
*註:「戦没者」=「国が戦争状態に入り、直接戦闘者として従軍し、戦死・戦病死・戦傷死した」者(山中恒『すっきりわかる靖国神社問題』)

(3)'「靖国神社宗教法人格を放棄して特殊法人になったとしても、伝統的な祭祀儀礼を維持するかぎり宗教団体であり、したがって憲法違反を犯さずに国営化することはできない」
 「神社非宗教」論(神社への参拝は「国民としての公の義務」であり「各自の私的信仰とは別個のことがらであるとする)は、「『国家の祭祀』への『宗教』の完全吸収』と呼ぶしかないものに」なる。それは今までの日本近代の歴史が明らかにしている。

(4)' 靖国神社が「敵側の戦死者を排除するのは、まさに『文化』を超えた国家の政治的意志によるのである」
 つまり〈靖国問題〉は、「文化」の問題(江藤淳は「生死観」の問題として捉えた)ではなく、「政治」の問題なのである、とする。

以上が、本書の問題の指摘と、著者の解答である。
これに対して、どのような見解をとるかは各自の自由である。
ただし、頭からの誹謗中傷は、書評として生産的ではないことを申し述べておく。

次回は、小生の見解を示すことにしよう。

高橋哲哉
『靖国問題』
ちくま新書532(筑摩書房刊)
定価:本体720円+税
ISBN4480062327