一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『明治の音―西洋人が聴いた近代日本』を読む。その2

2005-06-08 00:02:53 | Book Review
3人目のピエール・ロチは、前述したように海軍士官で、乗艦がたまたま寄港したために日本に滞在しただけで、積極的な訪問を志したわけではない。その点で、他の4人とは、かなり事情が異なっている。

したがって、この国の人びとに対しては評価が厳しく(というより当時の西欧人の偏見そのままに)、「小さな日本人」「猿のような日本人」「醜い日本人」「西欧とは正反対の思考をする得体の知れない日本人」と述べられている。

それでは、この国で耳にした音についてはどうか。

「ロチが書き留める音の多くは、陽気さと表裏一体となった物悲しさ、誇張ばかりで実質の伴わない滑稽さ、響きの大きさが逆に強調してしまう空虚さ、不可解さなどを結局のところ喚起する音として解釈される。ロチの日本に対する不安な印象、軽蔑、苛立ちを強めていく役割を果たしている。」

これを著者は、3つに大分した「日本や日本人についてのイメージの層」の中で、第1の層とする。
「日本人、特に庶民が日常見せる姿からのイメージ」
であり、先に述べた「物悲しさ」「滑稽さ」「空虚さ」「不可解さ」を喚起する音に対応する。
これに対して、第2の層は、
「聖地日光に対する例外的な賛辞などから窺えるような古い日本」
のイメージである。
これに対応する音は、
「いくつもの滝や急流、せせらぎのなす水の音」に加え「大鷹や猿の鳴き声、蝉の声、さらに巨大な鐘や祈祷の太鼓の混じる音響性」
なのである。
この傾向は、ロチの「仙境や妖精の国、夢想の国を求める姿勢となる。」
であればあるほど、第3の層に属する文明開化の音は、ロチの嫌悪感と当惑とを誘った。

しかし、文明開化の音を嫌ったのは、一人ロチのみではない。

〈この項、つづく〉


*バッハとセザール・フランクについてのロチの見解
「彼らの音楽は天上の世界への幻視、あるいはそれについての確信すら与えてくれるとロチは続ける。/だが、こうした音楽に対して」、三味線の音楽は、「『あらゆる日本風なものの凶暴な、恐ろしい、そして決して同化できぬ内心をわれわれにかいまみさせてくれる……』」