一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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『明治の音―西洋人が聴いた近代日本』を読む。その4

2005-06-10 00:47:36 | Book Review
本書の第4章は、ポール・クローデルに当てられている。

クローデルの場合、他の4人とはかなり事情が異なっている。
というのは、彼は外交官であると同時に優れた文人でもあり、すでに日本についての知識を、絵画、伝統演劇、宗教、文学など幅広く持っていたからだ。

「クローデルにとって来日以前から日本というものは、自己の文学宗教観を再検討するための可能性に満ちた場としての意味を持っていた。」「詩人にとって日本は、いわば聴くことの修練の場としての様相も帯びていたのである。」

したがって、クローデルの場合、日本で新たに異文化に接触したのではなく、あくまでも「音」に対する自分の理念なり精神なりを再確認するための場が日本であったからである。

それでは、その理念とはどのようなものであったか。

著者が第1に指摘するのは、「叫び声の中に分節化される言葉の誕生以前の状態を見ること」である。
その表れをクローデルは、文楽の中に見た。
「浄瑠璃の音楽全体がそこに集中する太夫の発する音および声の効果」に彼は惹かれる。彼の耳には「それは、言葉となる以前の、人間の激しいさまざまな情動表現の表れに聞こえる。」

第2には、演劇における音楽のありかたである。
西洋でのオーケストラは「劇の言葉としばしばコントラストをつくってしまい、その感情、生命を失わせてしまう。」
これに対して、クローデルが歌舞伎に見た/聴いたのは、「劇にアクセントを与え、その感情を充分に表現できるようにすること」であった。

最後にクローデルが日本の自然に感じたのは、宗教的な神秘であると著者は指摘する。「ここでは自然全体が一つの神殿なのであり、自然がそのまま超自然である」とクローデルは言う。
しかし、カトリック教徒である彼は、それを認めつつ、大地をそのまま神とする宗教観を受け入れることはできない……。
これ以上は、話が難しくなり過ぎるので、ご興味のある方は、本書を読んでいただきたい。

さて、これら5人は、今まで触れてきたように、各人さまざまで共通項に括ることはできない。
ただ、言えるのは、彼らの誰もが日本の近代化された「音」には、否定的であるということだけだろう(クローデルは特に近代化に関しては述べていないが、求めているものは、古代からの「音」である)。
その理由は、またそれぞれ異なっているが、彼らにとって日本の近代とは、西洋の悪しき真似に過ぎないように見えたようだ(その点では、漱石や荷風の見解とも共通する部分がある)。
それでも、この国に住む者としては、近代化を完全に否定するわけにはいかないのも確かなことであろう。

そこで著者は、
「現在、多様な音が共通の公空間を支配すると同時に、一方ではウォークマンや携帯電話などにみられるように音は一つの自己の身体として私有化されている。
 今、『音を聴く』ことについては、さらに新たな観点が必要となるように思われる。」
と終章で述べる。
つまり、ここからは読者それぞれの課題であるというわけだ。
さて、どのように考えるべきか、いかがすべきか……。
一朝一夕に結論の出る問題ではないが、小生としては、日本の現代音楽のありようを通して考えていきたいと思う(「武満徹論」あるいは「伊福部昭論」などを一編ものするだけで、かなりの展望が開けるのではとの予感がある)。