スパシーバ  プーチン

魅力あるプーチン
偽ユダヤによって捏造されたプーチン像と歴史をくずす

「闇の正体は偽ユダヤ」海外記事の移行。 

プーチンの告白/プーチンの両親/私は自由

2015-06-27 17:01:06 | プーチン ・ ロシア

4.27 プーチン大統領、1999年大統領就任当時、大きな圧力を受けていた

「ロシア」テレビ放映の映画「大統領」のために取られたインタビューで、1999年、首相に初就任した際、かなり大きな圧力を受けていたことを明らかにした。タス通信が報じた。大統領はどうやって圧力を跳ね返したかについては言及していない。

「首相を務めていた私に(当時、大統領だった)エリツィン氏が大統領職を渡すというために、ホワイトハウスの私の執務室を訪れた際、そのうち(新興財閥)の何人かが私の目の前に座っていてこういいましたよ。『あなたね、ここで大統領をやる日は決してきませんよ』とね。」
これに対してなされた返答は、プーチン氏いわく、「まぁ、見ていなさい」だった。

☆ 稀有な存在プーチンを招くことができたのは、ロシアにはカルマが少なかったからだと感じる。 ロシアは徹底的に被害者であった。根源的な信仰で切り抜けけていった。 カルマがどろどろあるのなら、このような存在をその国に招きいれることは決してできなかったと思う。



4.30 プーチン大統領は「ロシアのピオネール(共産少年団員)」誌へ寄せた記事のなかで、大祖国戦争当時の両親について語った。


それによると、プーチン大統領の父親が参加した工作団がドイツ軍人を追跡していた際、待ち伏せに遭い、父親はすんでのところで命を落とすところだった。

「森林での追跡で父親は生き残った。それは沼の水の中に隠れ、数時間の間、アシの茎で息をしながら座り続けたからだ。父親の話では、沼の水中にいる間、ほんの数歩のところまでドイツ人兵士らがせまり、その声も犬が鳴く声も聞こえていたという。」

プーチン大統領は工作団にいた28人のなかで生き残ったのはたった4名だったと書いている。その後の戦闘でプーチン大統領の父親は重傷を負った。

父は一生、弾の破片を片足に抱えたまま生きた。全てを取り除くことはできなかった。」

「父親は歩いてもよいと許可をもらった際に、松葉杖を就いて立ち上がり、帰宅した。家に着くと、衛生兵らが団地の入り口から死体を運び出しているのが見えた。なんとそれは自分の妻、つまり私の母親だった。近寄ると、母はまだ呼吸をしているように思えた。
父は衛生兵に『まだ生きているじゃないか!』

『運んでいる最中に死んでしまいますよ。こんな状態ではもたないでしょう。』
父の話では、松葉杖を持って衛生兵に襲い掛かると、母をアパートまで再び運ばせたという(…)。 そしてとうとう父は母の病を治したのだ。」

プーチン大統領の父親は1998年に、母親は1999年に亡くなった。

プーチン大統領は、両親がファシストらに憎しみを抱いたことは一度もなかったと強調している。


「正直にいうと、私は未だにこれが理解できないでいる。母はとても優しい人だった。母は、『こんな兵士たちに一体どんな憎しみを抱けるというんだね? あの人たちは普通の人間で同じように戦争で死んでいったんだよ』と話していた。これは驚くべきことだ。ソ連の教科書、映画で育った私たちは憎しみを抱いていた。ところが、母にはどうしてそれが全くなかったのだろうか? 母の言葉を私はとてもよく記憶している。『あの人たちをどうしようっていうんだい? あの人たちだって私たちと同じように働いたんだよ。ただ戦線においたてられただけさ。』」

☆ お母さんの言葉にこみ上げるものがありました。 集合団地のようなところで生まれたとは読んだことがあります。


昨日、「滅びいくヨーロッパ王室」という動画を見ました。そして、このプーチンの両親とのギャップにうちのめされた。 プーチンは正真正銘 高貴な血 高貴な魂だった。


写真のなかに写る母親の顔、素朴さとやさしさはあるが、面影はプーチンにとても似ています。父親は人目で、「善人」の顔をしています。 

プーチンの、ウクライナで見せた姿は、恐ろしくも冷酷でも、やり手でもなかった。 そこで示されたのは、この両親が注入した強さと真っ直ぐさと、「目には目を」という精神ではない深いものだった。

王室のものたちの形相が目に焼きついているときに、プーチンの親の顔が、その者達との圧倒的な違いを見せた。 その違いが、ウクライナ、マレー機での西側と日本と、そしてロシアとの違いそのものだった。

プーチンは圧倒的なほんものの貴族です。



自由に


4.29 「女一匹シベリア鉄道の旅」の織田博子さんラジオ[スプートニク]に途中下車

サンクトペテルブルグからモスクワ、そしてシベリア鉄道へ、どこまでも続く絶景を眺めながら、乗客達とウォッカで乾杯! 9000キロの果てなき旅を駆け抜ける女性の一人旅を「女一匹シベリア鉄道の旅」(イースト・プレス)という素敵なコミックエッセイにまとめた、あの食を旅するイラストレーター織田博子(オダヒロコ)さんが、今度はウラジオストークからシベリア鉄道に乗って再びモスクワにやってきた。

そんな織田さんに、ラジオ「ラジオスプートニク」の日向寺康雄アナが独占インタビューした。その模様は、今日月曜日、第一回目の放送(日本時間21時から22時まで)の後半(ニュース、ラジオジャーナルに続き21時20分過ぎから)放送される「モスクワミュージックマガジン」、第二回目の放送(日本時間22時から23時まで)の後半(22時20分過ぎから)放送されるロシア日本交流番組「ドゥルジバ」の中で御紹介させて頂く。お時間があれば、どうかお聞き下さい。


☆ 私は自由。マスコミや教科書や政府が嘘か本当か知っていくことは自由にできる。魂は縛られていないから、悪かったら謝ることもできる。 私は自由。