のんきいきいき So(走) Happy! -櫻庭健一の日記-

いつも笑顔と感謝を忘れずに
甘っちょろいと言われても希望を捨てず生きる
過去の少しの試練はそれで乗り越えたのだから

早野龍五さん・糸井重里さん共著「知ろうとすること。」お薦めです!

2014年11月30日 07時34分11秒 | Weblog
昨日一気に読み切った本。
早野龍五さん・糸井重里さん共著
文庫本「知ろうとすること。」

お薦めします。
対談形式ですのでさくっと読める。
「本は苦手」という方でもすらすらと読み切れるかと。

原発事故後の放射線の影響。
この問題に関しては諸説、いろいろな考えがあることは知っています。
東京大学の理系の教授が事実を積み上げて語る言葉には説得力がある。
私も今は文章を書いたりしていますが、元々は理系の人間です。
「ちゃんとしたデータ」の裏付けがないと信用できないタイプ。
そして私も含め人間は、大丈夫だと頭でわかっていても、硬直思考になってしまうことは多々ある。

この本の中でのたとえ。
振り子の先に刃物を付けて振る。
振り幅のすぐ外にいれば安全。
科学的にはそう。
でも人間としては平気じゃない。
理屈だけで割り切れるものではない。

これもこの本でのたとえ。
本屋さんで平積みの本。
「汚れていないなら一番上の本を買う」
そういう行動は必要なんじゃないか。
汚れていないとわかっていても一番上の本は避けてしまう。
漠然とした不安。
そこから一歩踏み出さなきゃならないのじゃないか。

この本。
多くの方に読んでいただきたいです。
原発事故後の放射線の問題。
日本人なら人ごとではないはず。
先入観を持たず、食わず嫌いをせず。
まずはこの本を読み切っていただきたい。
その上で
「この本に書いていることはおかしい、信用できない」
と感じたのであれば、それはその人の見識、価値観。
人間は皆違うのだからその考え方も尊重しなければならないでしょう。
でもまず最後までこの本を読まないことには話にならない。

きちんとしたデータを踏まえず、漠然としたイメージだけで
「福島県産農作物(検査で安全が保証されていることが大前提でも)は危険」
「福島(居住が許される場所であることが大前提でも)近辺に住むことは危険」
今でもそういう感覚の人は多いのじゃないかな。

私自身、不勉強で申し訳ないのだけれど。
福島県産のお米はすべての米袋についてセシウムを測定していることを初めて知りました。
2012年度、0.0007%が基準値超え。
それもちゃんと書かれている。
当然このお米は市場には流通していない。
基準値の根拠についてもきちんと書いてある。

ひとつこの本への不満点をあげるなら海産物の安全性に関する記述がなかったことかな。
食するもの。
農産物が安全と主張するなら、海産物についても言及して欲しかったな。
早野さんなら、悪いデータも含めてきちんと検証、説明してくれると思うから。

人間、納得しなければ安心はできない。
放射線の問題については特にそうでしょう。
そして日本人なら避けて通れない問題。
もう一度言います。
早野龍五さん・糸井重里さん共著
文庫本「知ろうとすること。」
是非お薦めします。

2位は3位より上なのです

2014年11月29日 12時53分58秒 | Weblog
>私、夢見生のHP本舗“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海
#ノルディックW杯、伊東2位・葛西3位(YOMIURI ONLINEより)

ノルディックスキーのワールドカップ(W杯)ジャンプ男子、個人第2戦。
このニュースを「葛西3位」のほうをメインの見出しにして報道するところもあります。
それはちょっとどうなのかな、と個人的には思います。

葛西紀明選手。
42歳。
42歳で体力勝負でもある戦いで世界のトップを争う勝負をしている。
42歳なのに凄い。
それはわかるのですが。
私もそれは敬服するところですし。

ただしW杯の「勝負」として見たならば、3位より2位のほうが「凄い」のであって。
ニュースのメインとしては、「伊東大貴選手2位」を掲げるべきでしょう。
葛西選手本人だって年齢を理由に2位の仲間よりも3位の自分のほうが騒がれるのは本意でないでしょう。
葛西選手はそういう「人物」だと認識しています。

W杯ですからね。
3位でも凄いこと。
それはよくわかります。
だからこそ2位の凄さにこそ敬服したい。
そして彼らの目指すものは当然表彰台の真ん中、優勝であることは言うまでもありません。
3位や2位で満足できるくらいの器なら、そもそもその場所には立てないでしょう。

伊東大貴選手、葛西紀明選手。
おめでとうございます。
私は日本人としてあなたたちを誇りに思います。

走るときに何をするか?

2014年11月28日 04時50分32秒 | Weblog
もうすぐ10kmロードレースである。
準備は着々。
と言いたいところであるが。
調整不足感は否めない。

膝は故障明け。
オーバーワークで同じ轍は踏みたくない。
だから走りたくても意識して走る間隔をあけた。
良かれと思ってやったことだが、結果走り込み不足、自信が持てない、そんなとこ。
まあ仕方ないね。
故障したら元も子もない。
怪我なしでレース当日を迎えられるのが一番だ。

さて走るとき。
私は何をしているか。
以前は音楽を聴きながら走っていた。
それはそれで快適だったのであるが。
あるとき、音楽プレイヤーであるところのiPhoneを忘れて靴紐を締めて外に出てしまった。
面倒臭いからこのまま走っちゃえ。
ということで久々に音楽なしのラン。

これが気持ちよかった。
五感が研ぎ澄まされるというか。
走っているコース、走っている時間帯的に、音が溢れているわけではない。
それでもね。
音を「感じられる」というのは、びっくりするくらい心地よいものであった。
それからはずっと音楽を聴かずに走っている。

昔はこうだったんだよな。
昔に戻っただけなのだけれど。
なんでこんな気持ちが良いことに気付かなかったのだろう。
これからはずっとこれだな。

逆に走るときに持つようになったもの。
ICレコーダー。
走っているとね。
凄く創造的になるんだ。
いろんなことを思いつく。
人間の記憶なんていい加減なものだから。
帰ってきたら忘れている。
そんな悔しい思いもした。

だったら走っているときに記録すればいいと。
メモはダメだ。
走っている時間的に周囲は暗い。
なにより書くならば止まらなくちゃならない。
走るのを中断するのはもったいない。
それで、ICレコーダー。
今は高性能でかさばらず、そんなにお高くないものも出ている。
これで解決。

冴えた頭でいろんな発想を記録できるようになった。
走るときの電子機器使用としては、インプットからアウトプットへ変わったということかな。

楽しく走る。
走ることはドラマ。
走ることは人生。
走っているときは「生きている」って、心で、全身で、感じることができる。
そうこれからも。
楽しく走る。

難しいけれど素敵。文章を書くということの魅力。

2014年11月27日 14時52分27秒 | Weblog
文章で気持ちを伝えるのは難しい。
向かい合っての会話だったらね。
ちょっと違うなと思ったらその場でフォローもできるじゃないですか。
文章はそうもいかない。

文章で伝えるのも今の世だったら、即時やりとりができるLINEとかあるじゃんって話ですが。
それでも限界がある。
面と向かっての会話にはかなわない。

そんな文章によるやりとりだけれど。
私はとても魅力を感じる。
伝えたい、でもうまく伝わらない。
そのもどかしさもよいのだ。

面と向かっては小っ恥ずかしくて話せないけれど。
文章でなら書けることもある。
ラブレターという文化、まだ廃れてはいない。
レターが紙の手紙だけでなく「電子メール」にもなるという点は現代の変化だけれどね。

女性に対して。
ラブレター、直接の告白。
両方とも経験あり。
当たり前かもしれないけれど。
で、思いが届いても断られる。
それがいつものパターン。

文章を書くのが好き。
だからこういうことを続けているんだ。
文章によるホームページやブログという形での発信てことね。
気ままでいいや。
人にも伝えられる。
自分の気持ちの整理にもなる。
一石二鳥だ。

今のところ、それで生計を立てる「生業」には、なっていないけれど。
そうなりたいという野望を持っている。
まあリアルな話ね。
甘くない世界。
お金を稼ぐための文章だと、書き方も変わってくるでしょう。
とにかく自由気ままってわけにもいかないでしょう。

でもね。
文章を書いているだけで幸せ。
そんな自分を感じるんだ。
お金を稼ぐための文章を書いても文章を書くのは嫌いにならない。
その確信はある。

明日がどうなるかなんてわからない。
けれど。
今日どうするかを決めることはできる。
毎日文章を書く。
それは自分で決められること。
自分で決めたこと。
伝わりそうで伝わらない。
文章を書くことの魅力。
私はどっぷり浸かっているのかもしれない。

悪い方へ考える、それも必要。でも前向き、そんな生き方。

2014年11月26日 13時03分40秒 | Weblog
私は典型的な前向き思考人間だと思っている。
自分ではそう自覚しているし、知り合いでもそれを否定する人は余りいないと思われる。

たとえば父のこと。

認知症、糖尿病、前立腺肥大。
父は身体も精神も中途半端な状態にある。
身体の自由が利かなくなっちゃえばね。
ある意味では楽だと思うんだ。

歩ける。
でもよたよただ。
車の多い道を歩くと危険。
そういうレベル。

心もそう。
認知症。
最近思う。
そろそろ「認知症を認知」し始めているのかな、と。
けれど日常生活は普通におくれる。
食事に介助は要らない。
危なっかしいがひとりでお風呂にも入れる。

中途半端に不如意なのだ。

そんな父。
私は今を、未来を悲観しない。
後悔はしたくない。
今を精一杯生きる。
父も私も。
何とかなる。
そう考えている。

それでもね。
なんでも前向きに考えるおめでたい人間でもない。
悪い方向の可能性も考える。
そりゃ介護ってさ。
楽なことばかりじゃないから。

これから父がどうなるか。
推定で考えることはできる、それは自由ではあるけれど。
すべては見通せないよね。
悪いケースも当然想定しておかなくてはならない。

悪いことを考えつつも。
その中で良い未来を考える。
そうなるために、そんな未来のために。
自分はどう行動すればよいのか。
それを考えるようにする。

世間一般、よく言われること。
過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる。
そう考えれば。
一気に楽になる、展望が開けてくる。

悪い方へも考える。
それでも絶望はしない。
悪くならないための対処方法を考える、そして行動する。
それが私なりの前向きな生き方。
さあこれからも。
楽しく生きよう~~!(^^)

走る、走る、俺。もうすぐ10kmロードレースだあ。

2014年11月25日 10時15分15秒 | Weblog
走ること。
今続けていること。

去年、母が亡くなって。
ぽっかりあいた穴を埋めたかったのかな。
何かしなくちゃ。
それで。
久々に走り始めた。

ただひとりで走るのはつまらない。
目標を持とう。
誰かを巻き込もう。
それで去年12月の10kmロードレースに参加した。
巻き込むほうは姪っ子と一緒ということで。
「おばあちゃんの名にかけて」を合言葉に。
準備不足はどうしようもない。
中盤からどんどんペースが落ちて。
歩くのと大して変わらないスピードになって。
それでも走りきった。
あの達成感は凄かったな。

当初の目標。
去年内に10kmレース。
これは達成。
今年前半にハーフマラソン完走。
今年中にフルマラソン完走。
5月のハーフマラソンレースにエントリーもした。

落とし穴が待っていた。
焦って調整を誤り、その時期としては無理な距離を走って右膝を故障。
走るどころか歩くときにも痛みが走る状態。
ハーフマラソンどころじゃない。
治療に専念、レースは断念した。

幸い右膝は完治した。
日々のRunを再開したが、もう違和感はない。
新たな目標。
期日を一年後ろ倒し。
今年内に10kmレース。
これは達成。
来年前半にハーフマラソン完走。
来年中にフルマラソン完走。
10kmレース。
去年と同じ大会にエントリーした。
『第17回ニューリバーロードレース in 八千代』
同じコース、勝手はわかっているから安心感があるし、成長も測れる。

レースまで二週間を切った。
十分な調整ができているとは言い難いけれど。
幸い制限時間のないレース。
目標ペースはあるけれど、それが守れなくても最悪、這ってでも完走すれば完走証は貰える。

楽しく走れている。
それが一番。
さあ。
Fun! Run!

クラス会お声かからず。悲しい思い、のち、反省。

2014年11月24日 15時29分44秒 | Weblog
昨日。
大学時代の仲間が集まった、らしい。
らしい、というのは私にはお声がかからなかった。
Facebookで開催を知ったからである。

正直に言うと少し悲しい思いをした。
ああ、俺、クラス会に呼ばれない人間になっちゃったのかなあ。

そしてしばらくして。
冷静に考えてみた。
完全に私の被害妄想だった。
これは自分の言動が呼んだ当然の結果。
つまり私の責任なのだと。

名簿やリストはあるだろうから。
私を「忘れた」ってことは考えづらい。
そもそも私はこういうときに「真っ先に声をかけられない」タイプの人間ではない。
少なくとも自分ではそう自覚している。

父のこととか。
ここでいろいろ書いているじゃないですか。
Facebook繋がりの友達は読んでいるかもしれないわけで。

勝手に忙しがって。
それが、その雰囲気が、自然と周囲に伝わって。
あいつはとても忙しそうだから誘わないほうがいいかなあ。
そんな風に友達に気を遣わせてしまったのではないかと。

そう考えると反省しきりですね。
普通にしていた。
オープンな姿勢を保っていた。
それは私の思い込みだったのかもしれない。

逆の立場に立てばね。
今の私はやはり誘いにくい人間だと思うのよ。
やたら「忙しオーラ」を発散している人間には声をかけづらいでしょ。

父の介護で時間がままならなくなることがあるのは事実。
でもそういうときだからこそ息抜きは欲しい。
申し訳ないけれど姉や姪っ子と相談して、お世話を頼んで。
それが月数回なら許される贅沢じゃないかと勝手に思うわけです。

姉や姪っ子にも仕事のシフトや予定があるから。
そういう息抜きの日にお世話を頼めないこともあるだろう。
行ける予定が、父の突然の変調とかで「ドタキャン」もあるかもしれない。
そういうときは幹事さんに「ごめんなさい」するしかないわけだけれど。

でもやっぱり誘うだけは誘って欲しい。
それが正直な気持ち。

私も変わらなくちゃな。
「誘いづらい男オーラ」を発散しないように。
日頃の言動に気をつける。
やっぱり今回誘われなかった大元の原因は私にあるわけだから。
その自覚があるのだから。
変わろう。

というわけで。
友よ。
次回からは是非誘ってねん!(^^)

大きな地震。物的被害ならまだいいのだ。

2014年11月23日 09時05分10秒 | Weblog
>私、夢見生のHP本舗“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海
#地震:家屋倒壊、けが人複数…長野で震度6弱、新潟5弱(毎日jpより)

地震発生時刻、昨夜午後10時8分ごろ。
そのとき私はベッドの中にいた。
父が居間のテレビを付けっぱなしにしていた。
居間は私の自室の隣室。
音は結構通る。
テレビの緊急地震速報が聞こえた。
夢かな?
しばらくして、軽い揺れ。
ああ、これか。
契約しているケーブルテレビの緊急地震速報端末は鳴らなかった。
遠いのかな?
たいしたことないだろう。
これは夢なのかもしれないという気持ちがあったかもしれない。
そしてまた眠りに落ちた。

起きて。
スマホを見る。
地震のニュースの山。
とんでもなかった。
長野で震度6弱。
大きな地震だったのだ。

幸いこれを書いている今現在。
死者が出たというニュースはない。
まだ安心はできないけれど。
少しホッとしている。

誤解を怖れずに言うならば。
モノへの被害ならまだいい。
失われたモノ、壊れたモノ。
何らかの形で作り直せる。
失われた命。
どうやったって取り戻せない。

日本に住む者であるならば。
すべての地震は人ごとではない。
「明日は我が身」だからね。

私は巨大地震を体験したことがない。
東日本大震災。
奇跡的にも私は西方面への旅行の最中であった。
旅先で見たあのニュース映像。
一生忘れることはないだろう。

そして死ぬまでには。
おそらく巨大地震のひとつは体験するだろう。
だから今回の地震も人ごとではない。
身につまされる。

被災された方に心からお見舞い申し上げます。
人的被害、少なくて済みますように。
今は祈るような気持ちです。

反響、ありがとうございます。どうする?父の徘徊センサー。

2014年11月22日 12時56分40秒 | Weblog
昨日。
認知症の父、徘徊防止のため。
ここで徘徊センサーを導入するかという話をした。
ありがたいものでいろいろ反響を頂いた。
Facebookのコメント、メッセージ。
そしてメール。
知り合いにこういうことに即時に反応してもらえる。
便利な時代になったものだ。

さてその反響なのですが。
デリケートな問題ですからね。
表現の仕方はいろいろあったのですが。
見事にその反響のすべてが。
何らかの対応をすべき、というものでした。

と。
ここで私はビビることになる。
ああは言ってみたものの。
徘徊センサーを付けたら解決。
そんな単純な問題ではないからです。

徘徊センサーは私の負担を増やす。
玄関の段差に仕掛けたマットを踏んだらアラームが鳴る。
つまりは単純な仕組みの機械仕掛けだから。
父の心、状態までは考えられていない。
設置したら最後。
しょっちゅうアラームが鳴る。
私が寝ていようとお構いなしに。
そんな事態が懸念されるのです。

というのもね。
父はしょっちゅう玄関から出るのです。
郵便ポストを確認しに行く回数が多い。
ここ数ヶ月顕著になってきたこと。

それが夜中も回数行くのですよ。
家にはだいたい午前3時台に新聞配達が来る。
新聞が好きな父。
それが待ちきれないらしい。
何時に来るかとか、常識的な時間はわかっていない。
とにかく「まだ暗いうちに来る」という認識のようで。
日付をまたぐ前に玄関を出るのを目撃し。
「どうした?」
と尋ねたところ
「新聞来たかなと思って」
そんなこともある。
同じく新聞を取ったあとでもそのことを忘れてしまい
「新聞来たかなと思って」
と、またチェックしに行くこともある。

昼は昼で郵便物のチェック。
これも結構な頻度で行く。
この欲望、行動を抑えることはできない。

もちろんセンサーのオンオフ機能は付いているけれど。
それは、あくまで手動だ。
私の都合に合わせて自動オンオフしてくれるという親切なものじゃない。
だいたいの父の行動パターンはあるとしても。
それには限界があるわけで。

これを考えるとね。
徘徊センサーの設置は逆に私の首を絞めることになりかねない。
安心のために設置して。
その結果、真夜中にしょっちゅう叩き起こされたりして私が疲弊するのなら。
それは本末転倒になってしまうわけで。

父の「監視」「管理」はできればしたくない。
将来、自分がされたら嫌なことは父にもしたくない。
さりとて明らかな「危険」を放置するわけにいかず。
そして徘徊センサーの設置は明らかに私の負担を増やす。
なにより今のマイペース介護の生活を乱すことになる。
だから。
ビビっています。

どうする?
徘徊センサー。
是か非か。
逃げられる問題でもなく。
悩みの最中でありました。

父、徘徊。今日は笑い話で済んだけれど・・・

2014年11月21日 17時31分26秒 | Weblog
今日もいろいろあった。
なんといっても朝の出来事だな。

寝坊した。
9時だ!
と飛び起きた。
胸騒ぎがした。
最近のこういうのは当たる。
案の定だ。
玄関と門が開け放たれ、父がいない。

慌てて着替えて飛び出す。
行く方向の傾向が掴めてきたので大きな通りのほうへ。
隣のご主人(幼なじみなのですが)が手招きをしている。
この人にはちゃんと認知症であることをいってある。
まあ、その様子からそうであることはご近所に知れ渡っているっぽいが。
明らかに様子のおかしい父を見つけてくれた。
薬屋さんで「補足」することができた。

私が促して歩き出したが、家の方向はわかっていない。
ただし。
父は困っていない。
マイペース。
いつも通りの父であった。

そのときは気付かなかったのだけれど。
私は奇跡的に父が飛び出した直後に目を醒まして気付いたことになる。
物音に気付いたわけでもない。
ホント、こういうことってあるのだね。
理屈では説明できないけれど。
わかるものなのだね。

あと、9時に起きた件について。
明らかに遅い時間だ。
けれど。
私にとってはあっという間の時間でもある。
抱えている心の病。
不眠だった頃のなごりか。
「仮眠」ならぬ「過眠」は身についてしまった根強い習慣。
今は人より睡眠時間は短いけれど。
「寝外す」じゃなくて「起き外す」とあっという間に時間は過ぎる。
12時間寝るなんてお茶の子さいさいだ。

今日はたまたま危機を察知して起きられたからいい。
これからもそれができるとは限らない。
父がひとりで出掛ける危険。
血糖値は半端ないから意識障害の危険もある。
ふたつ重なると更に危険。
徘徊センサーの導入とか。
本気で考えないとな。

さっき。
お風呂から上がった父の身体を拭いていて。
顔にオシッコをひっかけられた。
いやはや。(苦笑)
そんな父と生きていく。
なんだかんだで楽しめている毎日である。

ちゃんと生きればちゃんと死ねる

2014年11月20日 06時59分30秒 | Weblog
高倉健さんが亡くなって。
ショックだったなあ。
あんなに元気だった人が。
なんで?
そんな思い。

元気そうに振る舞って。
病を抱えていたのですね。

ショックの原因。
高倉健さんが特別な人であるということももちろんある。
それだけじゃない。
あんなに元気だった人が。
突然逝ってしまう。
人生そういうものなのだなと。

自覚しなければね。
人に言うときは
「まだ五十」
とか意気がってはいるけれど。
そう、自分は五十歳を超えたのだ。
いつなにが起きてもおかしくない年齢。

生活習慣病。
その他諸々の病。
年齢とは関係ない突然の事故もあるかもしれない。

生のすぐ隣に死はある。
健さんの訃報。
人ごとではない。
明日は我が身。
心構え、覚悟は必要だ。

泣いても笑っても生きるしかない。
生きている限りは生きるしかない。
そして何人たりとも死を避けることはできない。
当たり前を実感し。
改めての覚悟、決意。

ちゃんと生きる。
すぐ死んでもいいように。
すぐ死んでも後悔はない。
そんな境地は難しいけれど。
一日の終わりに
「今日もちゃんと生きました」
そう言えるように毎日精一杯生きる。
ちゃんと生きればちゃんと死ねる。
そういうものだと思います。

自分は小さい人間。
できることは限られているけれど。
生きる、生ききることはできる。
それがすなわち幸せということ。

高倉健さんはいろいろなことを教えてくれた。
泣くなってまた私に教えてくれた。
ありがとうございます。
あなたのこと。
決して忘れない。

健さん、さようなら。

2014年11月19日 03時57分14秒 | Weblog
>私、夢見生のHP本舗“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海
#俳優の高倉健さんが死去 83歳 悪性リンパ腫(産経ニュースより)
急なことで。
ショックです。
にわかには受け入れがたいですね。

今の人はわからないだろうけれど。
高倉健さんといえば私にとっては、裕木奈江さんとの共演、JRAのCMですね。
その存在だけで観る者を惹きつける、納得させる。
希有の役者さんでした。
心からご冥福をお祈りします。

父の気持ち、私の都合。

2014年11月18日 03時07分50秒 | Weblog
またやってしまった。
土曜日、父とふたり、母の墓参りのとき。
帰りのタクシー。

運転手さんと
「どんどんコンビニができますね」
みたいな話になったとき。
父が見えているコンビニに興味を示す。
明らかに「入りたい」という表情。

誤魔化す、はぐらかす。
認知症になってからクレーマー気質に拍車がかかった父。
半端ない買い物をすることも予想される。
入るとやっかいなことになる。
その予感。
だから、誤魔化し、はぐらかした。

今日になって。
反省の気持ち。
面倒なことになる。
それは「私の都合」であった。
コンビニに入りたいという「父の気持ち」を完全に無視していた。

基本は家とデイサービスのみの日常。
退屈するだろう。
溜まるものもあるだろう。
たまの外出でコンビニに入りたいというのは自然な欲求だ。

そんな父の気持ちを無視した。
自分の都合を押し通した。

もちろん抑えなければならない父の行動はある。
長く続くことだから「手間のかからない介護」というのも大事だろう。
でもね。
父には幸せに過ごして欲しい。
やりたいことは可能な限り叶えてあげたい。
それが可能な限り自宅介護をすると決めた私の大原則だったはずだ。

その初心を忘れた。
やっかいなことを避けたい。
その「自分の都合」を押し通してしまった。

反省。
もちろん自分自身に過度な負担をかけないという「安全弁」はあるけれど。
父に寄り添って、父の気持ちをたいせつにして。
続けていきます。
介護ライフ。

お父さん、お墓で立ちシ○ンはいけません

2014年11月16日 14時48分43秒 | Weblog
昨日。
母の月命日。
父のデイサービスはお休み。
一緒にお墓参りに行きました。

母の眠る公園墓地。
体力的に厳しいので。
往復タクシーでした。

前立腺肥大。
オシッコが近い。
予防措置として。
まず家を出るときにトイレを勧める。
素直に入ってくれた。
霊園に着いたらお墓に向かう前にトイレを勧める。
その声かけには応じませんでした。

お墓の前まで行って。
お花を挿す金属製のヤツ。(花瓶とも違うし、正式名称をなんというかわからん、素直に「花立て」とかでいいんかいな?)
外して洗い場まで洗いにいく。
「ちょっと待っていて」
と父をひとりにした。

油断しました。
その間2~3分か。
戻ると父がいない。
すぐ見つけたのですがね。
いたしていたことが良くない。
ゲートのようなところの柱に「立ちシ○ン」をしている最中。

いくらなんでもと思ったので、強めにたしなめる。
案の定というか切れた。
お墓での立ちシ○ンを注意した方がやった方に怒られる。
ちょっとした不条理ですな。

一周忌のときのお墓参りのときも「しよう」とした「前科」あり。
そのときは、姉一家、従姉妹一家がいて。
人手が足りていて父にマンツーマンで付いていられたから阻止することができたのですが。
父はそのときも切れた。
かなりの勢いで怒ったがそこは折れるとこじゃない。
怒られながら強引にトイレに連れて行った。
トイレから出るともうけろりとしていて。
いろんな意味で「ああ、こんなになっちゃったんだなあ」と思ったのでした。

もうお墓でもひとりにできない。
他のこととは違う。
こっちが我慢して済む話ではない。
人様に多大な迷惑をかける。

張り付いて監視とかはしたくない。
自分がされて嫌なことは父にもしたくはない。
可能ならね。
「シモ」に関することも、家の中なら笑い話で済むかもしれない。

でも。
こういうとき。
時と場合によっては「監視」せざるを得ない。
これからに向けての。
改めての覚悟。

母のお墓参りは楽しみなイベントだけれど。
ちょっとだけ悲しくなった。
昨日のお墓参りでした。