のんきいきいき So(走) Happy! -櫻庭健一の日記-

いつも笑顔と感謝を忘れずに
甘っちょろいと言われても希望を捨てず生きる
過去の少しの試練はそれで乗り越えたのだから

♪おいしい~おいしい~

2008年06月30日 22時45分40秒 | Weblog
会社へのお土産はさくらんぼ。
好評でしたよ。
特に女子の食いつきがたいへんよろしい。
いや、悪い意味じゃなくてね。

「美味しい」
と大反響。
喜んでもらえてとても嬉しかったです。

デザートは別腹。
という言葉があるように、
女性のデザートに対する執着には感心してしまいます。
いや、これも悪い意味じゃなくてね。

女性は偉大。
何かに懸ける気持ちを忘れない。
それはとても「たいせつなこと」。

オリエンテーリングから帰還

2008年06月29日 22時40分47秒 | Weblog
2位でした。
納得の2位です。
1位の人とはもうどうにもならない実力差があってね。
2位で惜しかったという感じではない。

昨日今日、2日で3レース。
その合計タイムで競った。
昨日。Race1、Race2。
今日。Race3。

Race1。
短すぎて差のつきづらいコース。
ここで僅差の2位につけた。

Race2。
Race1より少し距離は伸びたが、
簡単で走力の差がそのまま成績に反映される。
Race2単体では3位だが、総合では2位をキープ。

そして今日、Race3。
長めコース。
登坂力と細かな地図読み、総合力が試されるコース。
首位とはかなり離されたが何とか2位をキープ。

楽しかったです。
疲れたけどいい息抜きになりました。
今夜はぐっすり寝られそうです。
あ、いつもか!

アホでんねん。パーでんねん。

2008年06月26日 22時47分39秒 | Weblog
はい。
オレたちひょうきん族。
ビートたけしさん演じるタケちゃんマン、明石家さんまさんの敵キャラ
「アホちゃいまんねんパーでんねん」
のパクリでございます。
今の人は何のことかわからんでしょうがねぇ。
かまわず本題。

偉そうなことを書く日が続いたもんでね。
本領発揮でそろそろお馬鹿なことを書かなきゃと考えていた。

面白いもんですな。
そういうことを考えていると
面白いことは向こうから転がり込んでくる。
いや、正確に言えば面白いことを自分でやらかしたんです。

伏線:今朝は雨が降っていた。
今日、帰り。
会社の入っているビルを出た。
50メートル。
「あ、傘忘れた」
ちょっと考えてスルー。
今さら戻るのはしゃくにさわる。
「明日持って帰ればいいや」
です。
さらに50メートル。
「あ、上着忘れた」
朝家を出る時、あまりに涼しかったもので、
半袖のワイシャツの上にジャケットを羽織ってきたのです。
さすがにこれはスルーできない。
戻りましたよ。

私は真っ先に職場を出る。
残業無しの日で私より先に会社を出る人はいないっていうくらい。
勤務に手は抜かないが、
「アフター6は僕のもの」
ですから。
仕事が終わったらさっさと帰る。

だから引き返すとやたらすれ違うんですよ同僚に。
笑われたねぇ、例外なく。
そりゃそうだ。
真っ先に会社を出たヤツが、
「傘と上着忘れました」
って戻ってくるんだから。
私が逆の立場なら間違いなく笑う。

いいよいいよ。
笑ってくれい。
ってな感じで戻りましたよ。
延べ10人には笑われたかな。
いいんだいいんだ。
皆さんに笑いを提供できれば本望です。

さてこの話はこれで終わりではない。
ジャケットを羽織り、傘を持ってもう一度ビルを出た。
前を歩く男性。
傘を2本持っている。
折りたたみじゃなく大きな傘をだ。
つまりは一回傘を忘れて、
その傘と今日差してきた傘を持ち帰るところだったってとこだろう。
明日雨が降ったら会社に傘3本ってことだからね。
私もおっチャコちょいだが上には上がいるものである。

黙っていても面白いことは向こうから転がり込んでくる。
が持論だが、
面白いことを感じるには面白く生きていなければいけない。
私は生きていることが今、心から楽しい。
同僚に笑われてもそれは悪意から来るものではない。
笑いを提供できて自分も楽しかった。
私は確かに幸せなのである。

今日、職場で隣の席の人と話したこと。

2008年06月25日 22時41分33秒 | Weblog
常識についてです。
「そんなの常識でしょ」
たいていの人が言ったことも言われたこともある言葉だと思う。

自分の知っていることが常識。
その勘違いに陥ることがある。

常識は人によって違うんです。
以下、ふたつの会話は実話である。

相手:「アメリカの大統領って誰?」
私:「そんなの常識でしょ」

私:「モネって画家?」
また別の相手:「そんなの常識でしょ」

そう、常識は人それぞれ違うのだ。
改めて考えて気づく。
自分が常識だと思っていたこと。
別に生きるのに知っていても知っていなくてもたいした問題ではない。

私は絵が全くわからない。
著名な画家の描いた絵。
小学生の落書きと言われても、
ちょっと絵の上手い中学生の絵と言われても、
納得してしまうと思う。
だから恥ずかしながらモネを知らなかった。
これは上述の「また別の相手」からすると、
一般常識であったらしい。
が、
「そんなの知らなくてもどうってことないじゃん」
が私の感覚。
そして以前私が上述の「相手に」対し、
同じ過ちを犯していたことを思い出す。
そうアメリカ合衆国大統領が誰であろうと、
日本で生きている分にはたいした問題ではないのだ。

我々がよく使う「一般常識」というくくりも、きわめて曖昧だ。
何が「一般」で、何が「常識」、なのか。
考えてみるときわめていい加減な設定の元、
我々が「一般常識」という言葉を使っていることに気づく。

昨今テレビのクイズ番組で
「お馬鹿タレント」
と呼ばれている人たちがいる。
「一般常識」を知らなすぎるというのがその理由。
しかしその人たちが本当に馬鹿なのかと言えば、
それははっきり「否」である。
日常挨拶とか基本的な気配りに欠けていたならば、
あっという間に「ホサれて」いることだろう。
馬鹿にされつつ愛されている「お馬鹿タレントさん」は、
実はきわめてまっとうな感覚を持った常識人なのである。

対して、
有名大学を卒業し、出世階段を駆け上った人たちの中に、
「真の馬鹿」がいるのも事実。

私は基本的に友だちを選ばない。
私が尊敬できる友だちとして認める条件はひとつ
「挨拶ができて、人の話が聞ける人」
ところがこの条件を満たさない人が昨今多いんだな。
「エライセイジカノセンセイ」
の多くは、条件後半の
「人の話が聞ける人」
ではじかれる。
政治討論のようなテレビ番組を見ていればわかる。
「ちゃんと最後まで人の話を聞こうよ」
という場面のなんと多いことか。
相手の発言中にその言葉を遮って、自らの主張でかき消す。
つまり彼らは相手の主張を聞くことなんて鼻から頭になくて、
自分の主張を言うことしか眼中にない。

私だってそりゃ自分の譲れない主張はあるさ。
でもね、人の話は最後まで聞くんですよ。
どんなに自分と正反対の主張だとしてもね。
私は実は人間にとっては、
一般に言われる「自分の主張ができる」ことよりも、
「人の主張を聞けること」のほうが
重要な資質だと思うわけです。

「俺が俺が」
の傾向が世界をダメにしている。
特に政治、言論の世界でね。
簡単な話です。
あなたは自分の話を最後まで頷きながら聞いてくれた人に殺意を抱きますか?
例えその人の主張が自分と異なっていたとしても。

簡単に凶悪犯罪に走る輩。
そいつらの共通点は
「凶悪な精神」
ではなく、たぶん
「人の話を最後まで聞けないこと」
だ。

さて常識の話から随分飛んでしまったようだが、
私にとっては同じ問題。
つまりは「人を認める」ってこと。
その人が自分と違うってことも含めてね。
相手を認めることができれば、主張の違いなんてたいした問題ではない。
相手の話を聞いて認める必要がないのは、
それが人の道に外れている時だけで十分だ。

取りあえず人の話を最後まで聞く。
皆がそれを実行できれば、
世界の大半の問題は解決するはずである。

昨日書けなかったこと。戦争について。

2008年06月24日 22時47分00秒 | Weblog
嫌ですよ。
戦争は。
やっぱり。
理想論者と言われようが、戦争はどうしても嫌い。

理屈から言いましょうか。
戦争の大義名分ってあるじゃないですか。
どんな戦争でも一応。
最たるものが「自由と民主主義を守るため」ってやつかな。
現場の戦場でそんなものありっこないんです。
どんな立派な大義名分があったって、
目の前にいる敵をなぜ撃つかと言えば、
「死にたくないから」
それだけです。
死にたくないから殺す。
そんな世界に人を引きずり込む。
お偉いさんは戦争の大義名分の上にあぐらを掻いているけれど、
現場の兵士たちは
「死にたくない」
の思いで目の色を変えて人殺しをするわけです。
もっと言いましょうか。
最近の戦争は今言ったことが当てはまらないものが増えてきている。
いわゆる危険のないところで「スイッチを押すだけ」の兵器。
銃砲の飛び交う中なら殺意も罪の意識も存在するかもしれないけれど、
「スイッチポン」で人を殺す。
「スイッチポン」の結果は火炎地獄だというのにね。

理屈から外れましょう。
単純なことです。
人と人が殺し合うのはおかしい。
その「感覚」なんです。
それを忘れているとしか思えない人たちが、
テロや戦争に明け暮れる。
世界的比率で言えば相当な割合の人が、
「信じる神」を持っている。
その神の名の下に戦争やテロ。
メジャーどころの宗教で、
戦争を推奨する教えなどないのに、
教えをどんどん曲解して、宗教をおとしめている。
変な解釈をされる神様こそたまったものではない。
戦争をしている人の多くは、
家に帰れば優しい家庭人。
友達とも普通に付き合う善良な人。
普通の人が目の色を変えて人を殺す。
そんなのおかしいよ、絶対に。

昨日書いたとおり、
いい加減なことを書くわけにはいかない。
戦争についてね。
だから今日、じっくり考えて書きました。

沖縄も不幸のどん底に落ちた。
昨日。
63年前に3カ月近く続いた組織的戦闘が終結した「慰霊の日」。
私は心から祈った。
誤解を受けてもかまわない。
沖縄の悲劇は一部でしかない。
戦争の悲劇は世界中にある。
私はこんなことを書いてささやかな抗議をしたり、
目をつむって祈るくらいしかできない。

命は大切。
そんな当たり前のことと向かい合わずに、
大義名分を振りかざして戦争やテロをする。
はっきり言う。
馬鹿だ。
馬鹿者どもに届けという思い。
私の文章はたぶん届かない。
己の無力を感じてしまう。

慰霊の日のコメント

2008年06月23日 22時26分41秒 | Weblog
>“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://www.ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海
#沖縄は23日、沖縄の全戦没者を慰める「慰霊の日」を迎えた。1945年のこの日、沖縄で3カ月近く続いた組織的戦闘が終結した。(毎日jpより)

少し整理してから書かせてください。
軽々しく書ける話じゃないので。
今日はこんなところで逃げるのをお許しください。

ひとつだけ。
普通のお父さんが血眼になって人を殺そうとする。
戦争は嫌だ。

僕は現実の見えていない理想論者なんでしょうか。

梅雨らしくなってきた

2008年06月22日 07時07分00秒 | Weblog
基本、嫌いな季節はありません。
苦手な季節はあるんですがね。
ちょっとだけ太ってますから、夏は苦手。
でも夏が嫌いかって言われると、そうではない。

苦手と嫌いは違うんです。
汗が噴き出すから夏は苦手。
汗を掻けるから夏が好き。
矛盾してますかね。

矛盾するものを秘めているってあると思うんです。
人は誰しも。
恋でもたまにあるでしょ。
人に聞いた話で私には経験がないんですがね。
嫌いなはずなのにいつ間にか好きになってたっていう。

これは経験したことがないだけで、何となくわかるんです。
嫌いの中に好きがある。
魅力というのは苦手の中にこそある。

私の例で言いましょう。
私はオリエンテーリングが好きです。
山の中を走る。
登り坂とかそりゃきついさ。
でもそのきつさも含めての「オリエンテーリング好き」なわけ。

苦手だけどやめられない。
そう思ったら、それとは一生付き合いの「好き」になるかもしれない。

苦手だからすぐに止める。
それもひとつの選択肢。
でもさ、苦手と思っても少し続けてみる。
そしたら宝物を見つけられるかもしれないよ。

夏至である

2008年06月21日 23時59分00秒 | Weblog
昼間が一番長い日。
朝も早いよね。
4時半にはもう明るいもの。
って知ってる私ってどうよ!

朝は明るくなる前に雨戸を開ける。
窓から朝日を感じる。
早起きを習慣にしようと思ったら、夜明けの日差しを浴びるのは、
体内時計のリセットに有効である。

昼が長いというのは得した気分になるよね。
なんと言っても会社が終わってまだ明るいというのは、
心をうきうきさせる。

梅雨明けももうすぐだ。
梅雨が終われば、活動的な季節、夏がやってくる。
海は苦手な私だけど、
野山を駆けるオリエンテーリングは好き。

日常でも週末は走ることを久々に習慣づけようと思う。
あ、もちろん熱中症にならないように朝にね。

「ラスト・フレンズ」。観ていないのにあらすじを言える。

2008年06月20日 22時43分06秒 | Weblog
もちろんラストも知っているよ。
昨日終わったばかりだというのにね。
別にYouTubeで観たとかでもない。

>“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://www.ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海
#19日放送された長澤まさみさん、上野樹里さん出演のテレビドラマ「ラスト・フレンズ」(フジテレビ系、木曜午後10時)最終回の視聴率は22.8%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)で、番組最高を記録した。(毎日jpより)

実は私ね。
この名作の呼び声高い「ラスト・フレンズ」を
一回も、ちらとも観ていないんですよ。

それでいて
「ラスト・フレンズ」
の論評ができる。
偉大なドラマですよ。
いや、嫌みじゃなくてね。

全く観ていなくて観ている人と同じ気分になれる。
これは凄いことだと思うわけです。
それだけこのドラマが支持されていたってこと。
雑誌、周囲のうわさ話。
口コミというのは、いやはや恐ろしいものである。

それにしてもなぁ。
長澤まさみさん、上野樹里さん。
二人とも好きな女優さんなのに、
これだけ評判になったのに。
全く観る気が起きなかった自分が不思議。
やっぱり相性みたいなものがあるんですかね、ドラマって。

だいぶ前の話になるけれど、
低視聴率だけど自分なりには名作。
あまりの低視聴率ぶりに、
「打ち切りになるんじゃないか?」
と怯えながら観ていた連続ドラマもあったな。

あ、いけね。
こういう風に書いちゃうと、
その作品名、書けなくなっちゃったよ!(苦笑)

曇天の富士

2008年06月19日 21時31分55秒 | Weblog
まもなく夏至。
会社が終わって家に着く頃になってもまだ空は明るい。

富士山はおおむね西方向にある。
帰路、小さい丘から坂を下るところがある。
晴れていると正面に富士山が見える。

今日は完全に曇っていた。
けれど富士山が見えた。
滅多にあることではない。
風景としては、雲の上にぽっかり富士山、をイメージしていただこう。
しかもバックは夕日の明かりで真っ赤。

綺麗だった。
感動したよ。
富士山、惚れ直したぜ。
さすが日本一の富士の山というだけのことはある。
心が幸福で満たされた。

小さいことかもしれない。
小さなことに幸せを感じられる。
今、私が幸福であることは間違いない。

羽生時代再来か

2008年06月18日 22時45分02秒 | Weblog
>“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://www.ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海
#羽生二冠が名人位を奪取し、永世名人の資格を手に――。山形県天童市の天童ホテルで16日から指されていた第66期将棋名人戦七番勝負(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の第6局は17日午後8時10分、挑戦者の羽生善治二冠(37)が105手で森内俊之名人(37)を破り、対戦成績を4勝2敗とし、名人位を奪取した。(asahi.comより)

私は羽生善治のファンである。
いや、ヤバい意味では決してなく。
将棋ファンとしてその中で特に羽生善治のファンということ。

将棋ファンと言うのには語弊がある。
正しくは「プロ棋士の将棋観戦ファン」である。
自分が指す方はさっぱりである。
将棋ソフトの最弱レベルに余裕で負ける。
近頃の将棋ソフトについている
接待モードでようやく勝てるへっぽこ将棋だ。
※接待モード:機械がわざと間違った手を指して弱い人間に気持ちよく勝たせてくれる

誤解のないように言っておくが、
プロ棋士は全員おおむね好きである。
その中で羽生善治の特にファンであると言うだけ。

将棋専門のテレビチャンネルや、
NHK-BSでの名人戦、竜王戦の生中継が始まってから、
「プロ棋士の将棋観戦ファン」は加速した。
特に生中継、これはこたえられない醍醐味がある。

今昼間は仕事をしているから、
「生を生で」観ることはできない。
それでも将棋名人戦の生中継は十分魅力的なコンテンツだ。
主催の朝日新聞と毎日新聞が「つるんで」棋譜速報サイトを有料で立ち上げているが、
現段階ではこれにお金を払って見る気になれない。
映像音声付きの中継サイトになったらその時は考えますがね。

羽生善治は天才である。
これにも多少説明が必要だ。
羽生善治にとってみればこれは大変失礼な話。
「あなたは自分の生まれながらの才能のおかげで勝っているんですよ」
と言っているようなものだからね。

NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で彼は、
「才能とは、一瞬のひらめきやきらめきではなく、情熱や努力を継続できる力だ」
と言った。
うーん、凄い。
これだけうんちくのある言葉、そうそう言るもんじゃない。
彼の言う才能の定義でも彼自身は間違いなく天才だろう。

そして羽生善治は穏やかである。
決して威張らない、奢らない。
怒ったところも見たことがない。
だいぶ歳下ではあるが私は羽生善治を人間として心から尊敬している。

羽生善治のようになりたいと思う。
私は天才ではないし、なれないとは判っているが
彼の言う才能
「一瞬のひらめきやきらめきではなく、情熱や努力を継続できる力」
は一生かけて持つようになれたらと思う。

ちなみに・・・
「羽生善治のようになりたいと思う。」とは
美人の嫁さんを持つという意味ではない。

Windows VISTA SP1、本日導入。

2008年06月17日 23時59分00秒 | Weblog
SP1って何のこっちゃ?
って方もいらっしゃるかもしれませんね。
略さずにいうと、
Windows VISTA Service Pack 1
であります。
つまりは、
Windows VISTAが軽いバージョンアップを行ったということ。
これでも難しいかな。
あまり深く考えず、
Windows VISTAがちょっと進化した、くらいに考えていただければ。

Windows VISTA SP1の配布が始まってだいぶ経ちます。
サブで使っているノートパソコンには正式配布の前に、
「どんなもんかな」
と検証のため導入しました。

メインのパソコンに導入するのはだいぶ慎重でした。
何せ新しいものですから、無条件に
「良い」
とする考え方もあるわけですが、
新しいものだけに
「不具合」
というリスクも潜んでいるわけです。

サブのノートパソコンでさんざん検証して、
世間でも不具合情報がだいぶ出回ってきたので、
「そろそろいいだろう」
ということで導入です。

ここから先はちょっと専門的になるので、
詳しくない方は読み飛ばしていただきたく。

Windows VISTA SP1のインストールに関する問題、不具合の情報もだいぶ出回っていました。
もともとXpマシンだったものを、
VISTAに上げた場合に起こりうる問題というのが、
MSのサイトでも公式に公表されています。

具体的には、
サウンドデバイスのドライバが最新でないと、
インストールできないというもの。
SP1がWindows Updateに表示される気配がない時点で、
「これは怪しい」
と思っていましたので、私のPCの場合、
SB Live! 24bit
のドライバをメーカーのサイトから落として、あてる。
それだけのことで、
Windows Updateに表示されるようになりました。

なぜ今日導入かってことですが、当初から
月例パッチの配布から1週間というのを考えていたからです。
毎月米国時間の第2火曜日(日本時間ではその翌日)が
月例パッチの配布日ですから、
その約一週間後ということで今日だったわけです。
パッチのパッチというのがありえますからね。
それで1週間。

平日ですから裕遊字的の更新は諦めることにしました。
23時40分。
SP1導入、カスペルスキーのスキャン完了。
無事成功のようであります。

ちょいと今日は辛かった。

2008年06月16日 22時38分06秒 | Weblog
「こういう状態」ってやつです。
ここをよくご覧になる方ならぴんと来るでしょう。
私がこういう言い方をする時は、
ほぼ間違いなく抱えている心の病に関することです。

それは仕事中にやってきた。
きついわな。
後で振り返ればたいしたことではないんですがね。
その時々は大変な思いをしているんです。
大げさに判りやすい例えなら、
「気が狂いそうになる」そんな感じ。

私はこれに関して逃げないと決めてしまった。
トイレの個室に逃げ込んで、座って目をつむり20分。
それが逃げの限界。
不審に思われない「休憩」と取ってもらえる限界だ。

いわゆる「障害者雇用」「作業所」で低賃金に甘んじている病気の仲間たちと私の状態が、
さほど違うとは思わない、思えない。
されど仲間に今の私の生き方を勧めようとも思わない。
これは多分に危険な選択だ。
一歩間違えたら・・・、である。
だけど私は後戻りできない道を選んでしまった。
踏ん切りと言ってもいい。
心の病を言い訳に何かをできない、あるいは諦める。
そういうことを止めると決断した。

きつい選択であった。
私は引き替えに
ある程度の賃金をもらえる仕事、その仕事のある程度の安定を手にした。
病気のことを話した(今の職場の)仲間は少ない。
けれど話した人は変わらず私と付き合ってくれている。
積極的に病気を隠すつもりもない。
話しても大丈夫、その自負があるからこそではある。

私の病気は治っていない。
その大前提はあるのだが、
私は「治ったつもりになる」という自己暗示をかけているのかもしれない。

さて冒頭の「こういう状態」の話に戻る。

「こういう状態」は月曜日になることが多い。
共通点は日曜の次の日ではなく、
惰眠明けということである。

私が短眠を心がけているのは、
時間を有効に使いたいというのももちろんだが、
睡眠時間が短いほど体調がよいというはっきりした統計があるからなのだ。

睡眠は短い方がいい。
統合失調症患者。
私が言うべきことでは断じてない。
けれど経験則として事実であるというのも、
また断じてよいことなのである。