>“裕遊字的(
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#山口県光市の母子殺害事件で、殺人と強姦(ごうかん)致死、窃盗の罪に問われた元少年(27)に対する差し戻し控訴審で、広島高裁は22日、無期懲役とした一審・山口地裁判決を破棄し、死刑の判決を言い渡した。(asahi.comより)
MSN産経ニュースでよくまとめられています。
興味のある方は記事
【光市母子殺害判決の要旨(1)~(9)】
【死刑判決で本村さん(1)~(4)】
【死刑判決で弁護団(1)~(4)】
をご参照ください。
被害者家族の裁判参加にしろ、
まもなく導入の裁判員制度にしろ、
つまりは裁判に感情を持ち込むということでしょう。
それが本当によいことなのか。
今の私にはまだわからない。
被害者の夫、父親たる、本村洋さん。
付け焼き刃でない知識の裏付けの元に出てくる言葉。
事件後、刑法について勉強したというのが、
生半可な覚悟と内容でなかったことがわかる。
判決に感情を持ち込むのはよくない。
そう言うのはたやすいけれど、
被害者家族の本村さんの言葉には半端じゃない重さがある。
「決して喜ばしいことではない。厳粛な気持ちでこの判決を受け止めています。遺族としては満たされたのですが、社会にとってみれば事件をめぐり私の妻と娘、そして被告の3人の命が奪われることになるわけで、これは明らかに社会にとって不利益なことです。」
「両手放しに死刑は必要だとか間違っていないとか言えないので、迷いながら悩みながらこの制度を維持してゆくべきではないかと思います」
心中は穏やかでないだろうに、
ただ真っ直ぐに理屈を語り、
決して激高しない本村さんは凄いと思う。
本村さんが単なる死刑推進論者でないのは、
彼が一番近い愛しい家族を失ったことと無関係ではない。
「死の重さ」
を身をもって知っているのだ。
「過去の判例にとらわれず個別の事案を審査して世情にあった判決を出すと言った風土が日本の司法に生まれることを切望します」
これも難しい問題だ。
ケースバイケースと言うのは簡単で、合理的な意見にも聞こえるが、
死刑の基準が曖昧になり、判決が感情、雰囲気に流されるおそれもある。
私自身は裁判員制度の導入にかなりビビっている。
自分の意見がそのまま裁判の判決に直結する。
「死ねばいい」
という気持ちがそのまま現実になるかもしれないのだ。
納税、投票と同じく、国民の義務となれば、
「いやです」
は基本通用しない。
けれど私は人を裁ける人間ではない。
そんな偉い人間ではない。
できれば人を裁きたくはない。
あくまで予感だが、
私が凶悪事件の裁判員に任命されたとして、
「被告人、死刑!」
とは決して言えない気がする。
「死ね」
と言って、その対象が実際に死ぬ。殺されると言ってもいいだろう。
それは私にとっても「恐怖」なのである。
死刑も立派な殺人だ。
合法的な殺人であるだけ。
それだけははっきりしている。
死刑存続、廃止の議論は、
そこを「外して」はならない。
命がとてつもなく重いからこその、
死刑存続、死刑廃止の両主張であって欲しい。
最後に。
まだここまで私はこの事件、裁判に関する「意見」を言っていません。
このままでは逃げているようですので一言だけ。
「復活の儀式」とか「ドラえもん」という、
凶悪犯罪の内容からかけ離れた言葉には奇異を感じました。
どんな経緯、心境の変化、新しい記憶があったにしろ、
それまでずっと殺意を認めていて、
死刑の可能性が高まった時点での殺意の否定は、
あまりにも身勝手でおかしいと思います。
被告が判決後、取り乱さず、遺族に深々と一礼したというのは、
感動し、心を揺さぶられました。