常識についてです。
「そんなの常識でしょ」
たいていの人が言ったことも言われたこともある言葉だと思う。
自分の知っていることが常識。
その勘違いに陥ることがある。
常識は人によって違うんです。
以下、ふたつの会話は実話である。
相手:「アメリカの大統領って誰?」
私:「そんなの常識でしょ」
私:「モネって画家?」
また別の相手:「そんなの常識でしょ」
そう、常識は人それぞれ違うのだ。
改めて考えて気づく。
自分が常識だと思っていたこと。
別に生きるのに知っていても知っていなくてもたいした問題ではない。
私は絵が全くわからない。
著名な画家の描いた絵。
小学生の落書きと言われても、
ちょっと絵の上手い中学生の絵と言われても、
納得してしまうと思う。
だから恥ずかしながらモネを知らなかった。
これは上述の「また別の相手」からすると、
一般常識であったらしい。
が、
「そんなの知らなくてもどうってことないじゃん」
が私の感覚。
そして以前私が上述の「相手に」対し、
同じ過ちを犯していたことを思い出す。
そうアメリカ合衆国大統領が誰であろうと、
日本で生きている分にはたいした問題ではないのだ。
我々がよく使う「一般常識」というくくりも、きわめて曖昧だ。
何が「一般」で、何が「常識」、なのか。
考えてみるときわめていい加減な設定の元、
我々が「一般常識」という言葉を使っていることに気づく。
昨今テレビのクイズ番組で
「お馬鹿タレント」
と呼ばれている人たちがいる。
「一般常識」を知らなすぎるというのがその理由。
しかしその人たちが本当に馬鹿なのかと言えば、
それははっきり「否」である。
日常挨拶とか基本的な気配りに欠けていたならば、
あっという間に「ホサれて」いることだろう。
馬鹿にされつつ愛されている「お馬鹿タレントさん」は、
実はきわめてまっとうな感覚を持った常識人なのである。
対して、
有名大学を卒業し、出世階段を駆け上った人たちの中に、
「真の馬鹿」がいるのも事実。
私は基本的に友だちを選ばない。
私が尊敬できる友だちとして認める条件はひとつ
「挨拶ができて、人の話が聞ける人」
ところがこの条件を満たさない人が昨今多いんだな。
「エライセイジカノセンセイ」
の多くは、条件後半の
「人の話が聞ける人」
ではじかれる。
政治討論のようなテレビ番組を見ていればわかる。
「ちゃんと最後まで人の話を聞こうよ」
という場面のなんと多いことか。
相手の発言中にその言葉を遮って、自らの主張でかき消す。
つまり彼らは相手の主張を聞くことなんて鼻から頭になくて、
自分の主張を言うことしか眼中にない。
私だってそりゃ自分の譲れない主張はあるさ。
でもね、人の話は最後まで聞くんですよ。
どんなに自分と正反対の主張だとしてもね。
私は実は人間にとっては、
一般に言われる「自分の主張ができる」ことよりも、
「人の主張を聞けること」のほうが
重要な資質だと思うわけです。
「俺が俺が」
の傾向が世界をダメにしている。
特に政治、言論の世界でね。
簡単な話です。
あなたは自分の話を最後まで頷きながら聞いてくれた人に殺意を抱きますか?
例えその人の主張が自分と異なっていたとしても。
簡単に凶悪犯罪に走る輩。
そいつらの共通点は
「凶悪な精神」
ではなく、たぶん
「人の話を最後まで聞けないこと」
だ。
さて常識の話から随分飛んでしまったようだが、
私にとっては同じ問題。
つまりは「人を認める」ってこと。
その人が自分と違うってことも含めてね。
相手を認めることができれば、主張の違いなんてたいした問題ではない。
相手の話を聞いて認める必要がないのは、
それが人の道に外れている時だけで十分だ。
取りあえず人の話を最後まで聞く。
皆がそれを実行できれば、
世界の大半の問題は解決するはずである。
「そんなの常識でしょ」
たいていの人が言ったことも言われたこともある言葉だと思う。
自分の知っていることが常識。
その勘違いに陥ることがある。
常識は人によって違うんです。
以下、ふたつの会話は実話である。
相手:「アメリカの大統領って誰?」
私:「そんなの常識でしょ」
私:「モネって画家?」
また別の相手:「そんなの常識でしょ」
そう、常識は人それぞれ違うのだ。
改めて考えて気づく。
自分が常識だと思っていたこと。
別に生きるのに知っていても知っていなくてもたいした問題ではない。
私は絵が全くわからない。
著名な画家の描いた絵。
小学生の落書きと言われても、
ちょっと絵の上手い中学生の絵と言われても、
納得してしまうと思う。
だから恥ずかしながらモネを知らなかった。
これは上述の「また別の相手」からすると、
一般常識であったらしい。
が、
「そんなの知らなくてもどうってことないじゃん」
が私の感覚。
そして以前私が上述の「相手に」対し、
同じ過ちを犯していたことを思い出す。
そうアメリカ合衆国大統領が誰であろうと、
日本で生きている分にはたいした問題ではないのだ。
我々がよく使う「一般常識」というくくりも、きわめて曖昧だ。
何が「一般」で、何が「常識」、なのか。
考えてみるときわめていい加減な設定の元、
我々が「一般常識」という言葉を使っていることに気づく。
昨今テレビのクイズ番組で
「お馬鹿タレント」
と呼ばれている人たちがいる。
「一般常識」を知らなすぎるというのがその理由。
しかしその人たちが本当に馬鹿なのかと言えば、
それははっきり「否」である。
日常挨拶とか基本的な気配りに欠けていたならば、
あっという間に「ホサれて」いることだろう。
馬鹿にされつつ愛されている「お馬鹿タレントさん」は、
実はきわめてまっとうな感覚を持った常識人なのである。
対して、
有名大学を卒業し、出世階段を駆け上った人たちの中に、
「真の馬鹿」がいるのも事実。
私は基本的に友だちを選ばない。
私が尊敬できる友だちとして認める条件はひとつ
「挨拶ができて、人の話が聞ける人」
ところがこの条件を満たさない人が昨今多いんだな。
「エライセイジカノセンセイ」
の多くは、条件後半の
「人の話が聞ける人」
ではじかれる。
政治討論のようなテレビ番組を見ていればわかる。
「ちゃんと最後まで人の話を聞こうよ」
という場面のなんと多いことか。
相手の発言中にその言葉を遮って、自らの主張でかき消す。
つまり彼らは相手の主張を聞くことなんて鼻から頭になくて、
自分の主張を言うことしか眼中にない。
私だってそりゃ自分の譲れない主張はあるさ。
でもね、人の話は最後まで聞くんですよ。
どんなに自分と正反対の主張だとしてもね。
私は実は人間にとっては、
一般に言われる「自分の主張ができる」ことよりも、
「人の主張を聞けること」のほうが
重要な資質だと思うわけです。
「俺が俺が」
の傾向が世界をダメにしている。
特に政治、言論の世界でね。
簡単な話です。
あなたは自分の話を最後まで頷きながら聞いてくれた人に殺意を抱きますか?
例えその人の主張が自分と異なっていたとしても。
簡単に凶悪犯罪に走る輩。
そいつらの共通点は
「凶悪な精神」
ではなく、たぶん
「人の話を最後まで聞けないこと」
だ。
さて常識の話から随分飛んでしまったようだが、
私にとっては同じ問題。
つまりは「人を認める」ってこと。
その人が自分と違うってことも含めてね。
相手を認めることができれば、主張の違いなんてたいした問題ではない。
相手の話を聞いて認める必要がないのは、
それが人の道に外れている時だけで十分だ。
取りあえず人の話を最後まで聞く。
皆がそれを実行できれば、
世界の大半の問題は解決するはずである。